1-7 樹の上の猫
それから3日間というもの、妙に忙しい日だった。
まず、清流の復帰した陽炎隊が昼夜を問わず国中を回って魔獣を退治しはじめた。
すると、陽炎隊が退治中なら安全だ、と、国民の中に妙な安堵感がひろがってしまい、まだ危険だというのに気軽に外出する者が増加した。
となると結局、多くの者が魔獣に襲われ怪我をするわけで。
魔獣につけられた傷を治すのに効果が高い聖水が切れちゃうし。
外出時に御守り代わりになる聖水も切れちゃうし。
泊まり組の女官総出で聖水作りをさせられるが、それでも数は足りない。
なのに、リトが手伝いに行っているクララさんの店には「え? もう平気なんじゃないの?」と、クリーニングの注文が入ったり、どうしても今日中に届けて欲しいという依頼も入ったとかで。
クララたってのお願いで、足の速いリトが集配に行くことになったり。
道中は必ず魔獣に襲われるし。
だけど嬉しいことに、いつだって変化鳥で姿を隠したアリドが空から見守っていてくれ、リトに寄ってくる魔獣は全部退治してくれた。 正しくは変化鳥の餌にした訳だが。
その他にも国中で、橋が壊れたり井戸の水が枯れたり小さな山火事が発生したりと、魔獣が引き寄せた悪い気が最後の力を振り絞って暴れているとしか思えないようなグタグタな乱れっぷり。
そして、極めつけが。
白の館に、猫のか細い鳴き声が響き渡る。
ニャァ、ニャァと必死に鳴く声。 その声は丸二日、聞こえていた。
「ねぇ、あの猫、まだあそこにいるの?」
白の館の裏にある樹のうちの一本、そのてっぺん近くに、その子猫はいた。 上まで登り切ってあまりの高さに怖くなって動けなくなったのだろう。 言葉は分からなくとも助けを求めるその鳴き声に呼ばれて、女官や兵士達はこぞってその猫を助けようとした。
だがその木の枝は人が登るにはあまりに細く、はしごをかけるには高すぎた。
見えているのに助けてあげることが出来ないもどかしさ。
下手に猫を刺激して、猫が樹から落ちたらあまりの高さのため命はないだろう。
最初、人がいなくなったら自力で降りるよと考えていたが、一日経っても、二日経っても一向に猫は降りてこない。
変化鳥に助けてもらおうかとも考えたが、「変化鳥は子猫なら食べてしまう」というアリドの言葉で断念。 巳白に頼もうかとも思ったが樹が生えているスペースが狭く、翼を広げるだけの空間がないので飛べないとのこと。 陽炎隊は――あちこちで魔獣退治や人命救助に忙しい。
「猫には悪いけど、弱ったらきっと枝にしがみつく力もなくなって、落ちてくると思うから……」
そう言ってデイが樹の下にフワフワのクッションを沢山しきつめた。
が、猫は降りもせず、落ちもせず。
ただ一日中、鳴く。
助けを求めて、鳴く。
そしてその鳴き声はだんだん小さくなっていく。
リト達は手が空くと樹の側に集まって子猫の身を案じた。
そこに、デイがやってきた。 後ろに控えた兵士が斧を持っている。
「隣の樹を切ろう。 そうしたら空間が空くから助けてあげられる」
たった一匹の猫のためだったが、デイは真剣だった。
しかし。 何かの嫌がらせか、周りの樹にはすべて鳥の巣があり、卵をあたためたり、巣で待つヒナのために餌を運ぶ親鳥の姿があった。
「あー、もーっ!」
デイが打つ手は無しとばかりにくやしがった。
猫の鳴き声がか細くなる。
こうなった今、弱り切った子猫が落ちてくるのを待つしかなかった。
なのに。
「――ねぇ、みなさん、お待ちになって。 あの猫――首に何かつけていませんこと?」
マーヴェが言った。
「え? 誰か、双眼鏡貸して」
デイが兵士から双眼鏡を奪い取り、絶句する。
「うわっ」
「なんでぇ?」
続けて双眼鏡で見た者達が口々に言う。
猫の首にはツルが絡まり、しかもそのツルの先が他の枝に絡まっている。
「これって、ツルが首に引っかかって、動けなかったんじゃ?」
「って言うか、枝から落ちたら首が締まっちゃうんじゃ?」
最悪の状況に青くなる。
このままだと猫のつるし首は確定な訳で。
「じゃあ早く助けなきゃ」
デイが慌てて、樹に登ろうとする。
「だ、ダメです、王子っ! 登る時に樹が揺れて猫が落ちますっ!」
兵士と女官で慌てて止める。
「たかが、野良猫一匹ではありませんか」
もっともなことを、教授が言う。
教授の顔を見ながらデイが悔しそうに唇を噛んだ。
頭上で、猫が小さく、ニャアと助けを求めた。
デイが空を見上げて――
「せんせー」
デイの呟きは魔法の言葉のようだった。
デイの言葉のとおり、そこにはラムールの姿があった。
予想していなかったラムールの出現に全員が声を無くす。
ラムールは狭い樹の間をふわりと飛んで、弱り切った子猫に近付いた。 そしてその手で絡まったツルをほどき、壊れそうなガラス細工を扱うかのように優しく子猫を抱く。
ラムールが猫の頭を撫でながら、ゆっくりと地面へ降りてくる。
彼の胸の中で猫は安堵したように、穏やかに鳴いた。
軽い足音を立てて、ラムールが地面に降り立つ。
「せんせー!」
デイが嬉しそうに名を呼ぶ。
ラムールがそれに応えて、にっこりと微笑んだ。
「はい」
そう言って子猫を渡す。 子猫は降りてくるまでの間に治癒魔法をかけられていたのだろう、デイの腕に入ると小生意気に身を翻して元気に地面に飛び降りた。
「あっ!」
猫は人の間をすりぬけて茂みの中へと姿を消した。
「うわー」
「あらら」
つれない猫の姿を目で追いながらみんなが口々に呟いた。
「と、とにかく、猫は元気で、間に合ったんだから、いーじゃん♪」
デイがほんの少し無理した明るい口調で言った。
「ありがと。 せんせー」
デイの言葉にラムールは首を横に振った。
「いいえ。 もう、後手後手になるのは、たくさんでしたから」
その表情が一瞬だけ、とても寂しげに見えた。
――ラムール様?
不安を感じたリトが声をかけようとしたときには、もう、いつもの優しく穏やかなラムールの顔がそこにあった。
「ねー、せんせー。 また、用事でどっかいっちゃうの?」
デイの手が心細げにラムールの袖を掴んでいた。
しかしラムールは明るい顔で微笑んだ。
「いいえ。 もう、用事は終わりましたから当分どこにも行きませんよ」
その言葉にデイのみならず、そこにいた誰もが顔を輝かせた。
「まずは魔獣退治の結界を張らないといけませんねぇ」
ラムールはそう言って歩き出した。
みんながまるで親鳥の後をついていくように、ゾロゾロと進む中、リトだけが【当分】の意味を理解して複雑な表情でラムールを見ていた。
見事なもので、ラムールが戻ってきて2時間後には国内の魔獣は全滅した。
教会の敷地の前で行われた結界を強める儀式で、ラムールは魔法陣を描き呪文を詠唱した。 滅多に見られるものでは無いというので、兵士や女官はもちろん、教授や一般国民まで押し寄せたのでちょっとしたイベントのような気すらした。
ラムールが魔法陣の中央で地面に両手をつくと、そこから水の波紋が広がるように金色の光の粒が広がっていく。 まるでコーティングされていくようだ。
その光が国中を覆い尽くすまでかかる2時間の間、延々とラムールは呪文を唱えていた。 勿論、見物客は金色の光が広がっていく様を見たら、三々五々に散っていった。 長すぎる儀式なので、最後まで残った者はいなかった。 儀式が終了したのを知ったのは、白の館にラムールが帰ってきてからである。
女官達はみんな、「あんなに長い呪文を覚えてすごい」と褒めていた。
リトは、難しい儀式を一人で行うラムールのことが、少しだけ可哀想だった。
みんながラムールに頼ってばかりだから、きっと嫌気がさしたのだ。
リトはラムールが他国に行く理由をそう結論つけた。