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第八章 雨の中の惨劇

 フアナがトルデシーリャスに幽閉される前のことを思い出せば、その記憶にはイザベルが登場することが多い。それはフアナにとって彼女だけが味方であり、どうしても守りたい存在だったからだ。


 ――その日、二人は昼間だというのに暗い部屋の中にいた。


 王宮の中で、埃っぽい物置に使われている狭い部屋。長く使われていないと思われる古道具が乱雑に積み上げられている。天井にはくもの巣。窓には板が打ち付けられているため、薄暗い。

 そんな普通なら人が寄り付かない室内に、幼い少女の泣き声が響く。


「イザベル、泣くのはおよしなさい」


 十二歳のフアナはそう言って、隣に座り込んでいる妹の頭を撫でる。妹はこちらを見上げてくる。目が真っ赤になっているのが薄暗い中でも分かった。


「フアナ姉、だって……だって……お母様はずっとこの部屋にいなさいって……出てくるなって……鍵も閉められて……お腹も減ってきてこのままじゃ死んじゃうよ」


 それは今日の昼ごはんの時のこと。イザベルの食事のマナーが悪いと、母が怒鳴ったのだ。あんまりにも厳しく言ったため、フアナは妹を庇った。そうしたら母が激昂して、二人をここに閉じ込めた。


「大丈夫。大丈夫よ。お母様だっていつか迎えにきてくれる。わたし達が死んでしまったら、お母様だって悲しいもの」

「……本当?」

「本当です。お母様はわたし達のことを愛しているんだもの。――そうですね、歌を歌いましょう。歌えば塞いでいた気分も前向きになります」

「……」


 イザベルは何も言わなかったが、歌は乗り気でないようだ。歌うこと自体は嫌いでなくても閉じ込められるたびに同じ歌を歌っているので、もう飽きてしまっているのだろう。しかし、フアナは別の曲は知らない。歌はやめて別のことをすることにした。


「では、囚われのお姫様のところに王子様が迎えにくるお話はどうですか?」


 その瞬間、イザベルの目が輝いた。彼女はこういう話が大好きだ。素直で夢見がちな妹は、いつか自分の元にも素敵な王子様が迎えに来てくれると信じているのだ。

 しかし彼女より二歳だけ大人であるフアナは既に悟っていた。

 自分達に物語に出てくる素敵な王子様が迎えに来ることはない。もし迎えが来たとしても、それは自分達を愛しているから迎えにくるのではない。その王子様は王位継承者としての自分達を必要としているのだ。

 無邪気なイザベルはそのことを気付いていない。そんな危うい存在である彼女を、フアナは守らなくてはいけないと思った。



 フアナとイザベルの父・エリンケ四世は、生涯妻は一人だけ、子供も二人の娘だけだった。色恋関係のスキャンダルで頻繁に巷を騒がす王族や貴族もいる中、外での浮いた話もほとんど聞かない。それは一人の妻を愛していたから、というよりは、家族や子供に無関心だったからだ。

 エリンケ四世は政治家としては、堅実そのものだった。王として一定の評価を得ると同時に、臆病者と揶揄されることもあった。しかしそれも彼なりに考え抜いた結果であり、頭の中は四六時中王としての職務のことでいっぱいだった。そんな彼は家族との時間を作ることはほとんどなかった。


 そのようなわけで后は二人の娘を一人で育てることになる。しかしそんな彼女は心に病を抱えていた。それは王宮という特殊な世界による疲れや無関心な夫への不満、二度出産しながらも男児を世継ぎに生めなかったことへの苛立ちか――あるいは彼女の生来のものでもあったかもしれない。――後にフアナが発狂したという噂が流れたときも、彼女は母の血を継いだのだと言われた。


 心の病といっても、いつでも狂気に支配されていたわけではない。后として人前に立つときには、それに相応しい振る舞いをした。しかし些細なことで感情的になりやすく、一度怒りに火がつくと、あとは手がつけられなかった。

 彼女の暴力的な衝動の対象はたいてい二人の娘だった。周りの使用人たちも、二人に同情しても止めることはしなかった。


 そんな母に、妹のイザベルは日に日に内気な性格になっていった。要領が悪く、まだ幼い彼女は、母に叱られることも多かった。だから彼女は、ただ母の言うことにだけ従っていれば、怒りを買うこともない、と思ったのだ。

 彼女は姉であるフアナだけを頼りにしていた。フアナには彼女を慰めることは出来ても、母の暴力から彼女を守ることはできなかった。フアナとイザベル。二人とも立場は変わらないのだ。


 このままでは、自分達は母が死ぬまで彼女の言いなりにならなければならない。母の病は年々重くなっていく一方だった。なんとかそんな現状を打開できないか、フアナは画策していた。使用人たち周りの大人は頼りにならない。母の怒りを買うことを恐れているのだ。そうなれば、自分が王宮から追い出される。父も娘に無関心で、母親のことを話してもまともに取り合ってくれそうにない。

 ……自分達が母のせいで怪我でもしたら、さすがに無視できないだろうか?

 だが母はフアナ達を殴ることはしなかった。物置部屋に閉じ込めたり、不条理な暴言を投げかけたり、物を壊したり、食事を抜いたりだ。母もそれを虐待ではなく躾だといっている。自分で自分を傷つけ、母にされたといえば、誰か庇ってくれるのではと思ったが、怖くて実行できなかった。


 王宮で暮すフアナは、自由に行動することができない。だからせめて、彼女はよく観察するように努めることにした。母を、妹を、周りの人たちを。

 自分、そして妹が母の狂気から逃れるために。その糸口を見逃さないために。



 その日はアラゴン王国との会合だった。両国とも、イスパニア半島からモーロ人の王国を滅ぼすために、協力を惜しまないことで合意したあと、両国の交流のため夜会が催された。アラゴンとカスティーリャ、両国の王族や貴族があつまるこの夜会は、フアナが今まで見たことがないほど盛大に催された。

 母は不気味なほど、自分達に優しかった。一部で后の狂気は噂され始めていた。母はそれを察し、国内外の有力者にそれは嘘だと示したかったのだろう。

 このときフアナは、母の病は王宮を離れて静養すれば治るのではないかと考えていた。近頃では、自分やイザベルに愛情のかけらさえ見せてはくれない母だが、昔は優しさをくれることもあったことを、フアナは覚えている。きっと本当は優しい人なのだ。出来ることなら、そんな昔の母に戻って欲しい。


 しかし一度医師がそうするように助言していたが、母は聞き入れなかった。まさかフアナが言うわけにもいかない。だから、母そして父に口添えしてくれるような人を探していた。母は国王の言葉には、嫌々でも従うのだ。自分達に同情してくれて、父も信頼しているような人物を見つけなければならなかった。

 しかしなかなかそんな人物にはめぐり合えない。そもそも父は他人と私的な関係をあまり持たなかった。家族について何か言われて、それを聞くような仲の間柄の人物はいないということだ。


 また別の方法を考えなければいけないのか――そう溜息をつきながら、壁にもたれかかっていた時だ。


「どうされましたか、フアナ王女」


 声をかけてきたのはアラゴン王国のフェルナンド王子だ。年はフアナより二つ年上だったはずなので、今は十五歳のはずだ。年の割に大柄で声は落ち着いて聞こえる。しかし顔立ちにはまだ子供っぽさが残っており、微笑んだ口元から白い歯が覗く。さわやかな印象の好青年だ。

 王族同士は親類であることが多い。フアナと彼はまたいとこの関係だったので面識はある。親しいというほどの関係ではないし、挨拶以外を交わすのはこれが初めてである気がするが。


「フェルナンド王子……いえ、別に」


 フアナは慌てて笑顔を作った。王女である自分は周りから見られているということを思い出したのだ。無愛想にしているところを母に見つかりでもしたらまた怒られるだろう。それは厄介だ。


「では何か気になることでも?」


 まさか母のことで悩んでいるとは言えない。もし相談しても、隣国の王子では出来ることもないだろう。


「いいえ少し疲れただけです。もう大丈夫」

「それは良かった。今日はぜひ、フアナ王女とお話がしたいと思っていたのです」

「わたしと?」


 フェルナンドは頷いて、友好的に微笑んだ。


「わたしたちはお互い、将来それぞれの国をまとめる立場に立つ者同士。今から仲良くしていても困ることはないでしょう」


 フアナはなぜか、その言葉が強烈に引っかかった。

 フェルナンドは何もおかしなことは言っていない。アラゴンの王子としてじつに模範的で、納得のいく言葉を言っている。それなのに、なぜか見逃せない嘘、もしくは隠し事があるように思えたのだ。もちろん自分がそうであるように、フェルナンドも王子として演技や計算があるだろう。しかし、そういう大きさでないものを感じたのだ。

 フアナはフェルナンドをじっと見ていた。こうしていれば、相手の考えていることが分かることがあったのだ。

 そして、彼女は見た。誠実な言葉の裏にある、本性を。


「……仲良くなってわたしを籠絡して、カスティーリャを乗っ取るつもりですか?」


 フアナはすぐそう言ったことを後悔した。そう思ったのはただの直感で確証がない。いや考えが正しいのだとしても、口に出してはいけなかった。フェルナンドを怒らせるだけならまだしも、下手をすれば今後のアラゴンとの関係に支障がでる。

 しかしフェルナンドは怒るどころか、声を出して笑った。


「まさかまさか! そんなたいそれたこと! 自分はそんな器ではありませんよ!」

「……ごめんなさい。今の言葉はあんまりに失礼でした。ただの被害妄想というか、たわ言というか……やはり疲れていただけなのです。忘れてください」


 気にしてませんよ、とフェルナンドが言ったのでフアナも安心する。


「乗っ取るなんてとんでもありません。むしろアラゴン王国としては、大国カスティーリャ相手に少しでも対等な外交ができることを願うばかりですよ……それに、もしそんなことを考えたとしても、あなたがいる限り無理そうだ」


 フェルナンドはそう言うと、フアナの元から去っていった。

 フアナは彼のことは気がかりではあったが、あまり重くは考えていなかった。たとえ彼が何か企んでいたとしても、自分とそう歳が変わらない彼になにかできるとは思わなかったのだ。

 そう考えたことを、後に深く後悔することになる。



 その後も母は相変わらずだった。二人への暴力も、王宮を離れようとしないのも変わらない。しかしイザベルには変化があった。彼女はフアナに対して距離を持つようになってきたのだ。

 最初は自立しようという気持ちから、姉に頼るのを止めはじめたのかと思った。しかしそれにしては少し様子がおかしい。前より表情が明るくなった気がするが、精神的に成長した、と言うには違和感があった。それになぜか以前より自分の部屋に篭ることが多くなった。

 話を聞いても教えてくれない。しかしフアナは気になって仕方が無かった。妹は隠し事をしている。それだけならよかったが、なにかよくない予感がしたのだ。

 フアナはイザベルが湯浴みに行っている間に、部屋を調べることを決めた。申し訳なさはあったが、その時のフアナは危機感のほうが強かった。


 イザベルの自室にやってきたフアナは、イザベルの部屋を調べていった。まだ仲が良かったときにここを訪れたときと、様子は変わらない。そんなとき目についたのが、文机の上に置いてあったものだ。

 それは書きかけの手紙だ。イザベルの丁寧で流れるような文字が並んでいる。内容を見てみれば、どうやら恋文のようだ。こういうものを見るのは良くないと思っていても、見逃すわけにはいかなかった。ただの恋文ならともかく、問題はそのあて先だった。


『親愛なるフェルナンド様』

「そんな……!」


 思い出すのは、夜会での出来事。あの感じのよい青年の笑顔の下に隠された本性だ。フアナは瞬時に理解する。あの夜、自分に近づいたフェルナンドは、思惑を見抜かれフアナを利用することを断念した。しかし諦めてはいなかったのだ。彼はイザベルに近づいた。きっと甘い言葉で、彼女の心を掴んだのに違いない。そして夢見がちな彼女は彼を理想の王子様のように思ったに違いない。

 無我夢中になって他の場所も調べる。引き出しを開けたとき、またフアナは驚愕した。

 引き出しいっぱいに手紙がはいっていたのだ。送り主はフェルナンド。数は百通を超えている。

 その中の一通を読む。思ったとおりの甘い言葉とともに書かれていたのは、イザベルこそが王になるべきだということだ。他の手紙も読んでいく。カスティーリャを正教徒が支配する強い国にするために、異教徒は追放すべきとまで書かれている。彼からの手紙は彼女の単に心を捕えるだけではなく、政治的な思想を洗脳しようとしているように見えた。それもイザベル本人にはそうと気付かれないように、巧みに。


 フアナはフェルナンドに強い憤りを覚えた。イザベルは大事な妹だ。ずっと自分が彼女を守ってきたのだ。それをこんな形で利用されるなんて。そしてそれを許してしまった自分自身が一番腹立たしかった。気が付けば手の中の手紙を握り締めていた。


 そのとき扉が開く音がした。

 そこには驚いた顔のイザベルがいた。


「フアナ姉……? どうしてここに?」


 イザベルの目が、フアナが持っている手紙に向けられる。彼女は慌てた顔でそれを取り戻そうとした。


「それを返して!」


 フアナは腕を横にしてそれを阻止しようとした。


「イザベル、この男は駄目です」

「どうしてフアナ姉がそんなことを言うの!」

「この男はあなたを利用しようとしているのです」

「そんなことない……! フェルナンドのことを悪く言わないで!」


 イザベルは思いっきりフアナを押し倒して手紙を奪い返した。そして目を潤ませ、叫んだ。


「出て行って! この部屋から! 今すぐ!」


 フアナには言われるがまま部屋を出て行くしかなかった。これ以上は事態を悪化させるだけだ。勝手に部屋に入って、手紙を見ていた自分のことを、イザベルは信じてはくれない。

 フアナが外へ出ると、扉は大きな音をたてて閉じられた。諦めきれず、フアナは扉越しに呼びかけた。


「……ごめんなさい。イザベル。そんなつもりじゃなかったんです。お願い……話を聞いてください」


 部屋の中にはきっと聞こえていただろう。しかし返事はなかった。

 扉は固く閉ざされたまま。フアナにはその扉が、姉妹を隔てる分厚い壁のように思えた。もはやその壁を越えるのは容易ではない。

 フアナはただうなだれることしか出来なかった。



 それからイザベルはフアナを無視するようになった。

 母の虐待は変わらない。きっとイザベルは自分と分け合っていた苦しみの分だけ、フェルナンドに救いを求めているのだろう。そう思えばいっそう気が重くなった。

 フアナが十五歳、イザベルが十三歳になったある日のことだった。その日二人は、また物置部屋に閉じ込められていた。

 イザベルも暗くて狭いのには慣れていた。しかし空腹でひもじい思いをするのには慣れない。朝から閉じ込められて、もう随分経ったように思える。

 いつのまにか降り始めた雨は、バケツの水をひっくり返したような土砂降りになっていた。激しい雨音が二人の耳にも届く。その音といっしょに雷鳴まで聞こえてきた。たしかイザベルは雷が苦手だったはずだ。


「イザベル……怖くないですか?」


 しかし返事は返ってこない。すこし離れたところで膝を抱えてうずくまったままだ。


「……許してくれとはいいません。だから、話をしましょう。一緒にここから逃げる方法を考えるんです」


 すると、イザベルの疲れた声が返ってきた。


「逃げる方法なんてないわ。昔いろいろ試したけど無理だったじゃない。鍵を開けてくれる人がくるのを待つことしかできない」


 返事が返ってくるとは思っていなかったフアナは、思わず笑っていた。どんな形であれ、妹とまた話ができるのが嬉しかった。


「そういう意味ではなく、母の暴力から逃れる手段を、です」


 しばらく考えたイザベルは、淡々と言った。


「それも、やはりないわ」

「いいえ、あります。きっとあるのです。だから二人で見つけましょう」

「……無理……よ……」

「……イザベル?」


 イザベルの声が途絶える。彼女のほうを見てみれば、イザベルは座ったまま寝ていた。

 もう日が沈んだ頃だろう。眠くなってしまっても仕方ない。フアナは話しかけるのをやめることにした。

 少ししてから、使用人が戸の鍵をあけてくれた。フアナは使用人に頼んで、イザベルを自分の部屋のベッドまで連れて行ってもらった。彼女が目を覚ましたら、また話をしたい。そう思って、フアナはイザベルについていった。


 時間はすでに深夜。使用人はイザベルを寝かしたら、部屋を出て行った。それと入れ違いにやってきたのが、母だった。


 薄暗い室内でも分かるほど、彼女の顔は赤い。足取りは覚束なく、吐く息は酒臭い。一目で酔っ払っているのだと分かった。

 酒を飲んだ彼女は普段よりも手に負えないことをフアナは知っていた。


「あんたたち、今までどこに行ってたの?」


 口を開いて最初に言ったのがそれだった。さすがにフアナもカチンと来た。酒のせいとはいえ、自分が閉じ込めたことも忘れているのだ。

 彼女の言葉は無視して平静を装う。


「お母様、すいぶんお酒を呑まれたのですね。お体に障りますよ」

「……酒でも呑まなきゃ、やってられないわたしの気持ち、あんたたちなんかに分かるもんですか」

「なら……一度この王宮を離れてはどうでしょうか。よい気分転換になると思いますが」


 普段は言わずにいた言葉を思わず言ってしまったのは、怒りを抑えられなかったからだ。疲れていたせいもあるかもしれない。


「そんなこと出来るわけないじゃない」

「なぜですか?」


 フアナは母の目を見た。その目はどろどろに濁りきっている。それはきっと酒のせいではない。


「わたしには目的がある」

「……」

「――国王が死んだあと、あんた達を王様にして、わたしがこの国を支配するっていうね」


 その言葉に背筋が凍るかと思った。

 ……フェルナンドと同じだ!

 ……お母様がこの国を支配するですって? 冗談じゃない!

 母には統治者としての理念はない。あるのは私怨だけだ。母がフアナに自分の考えの深い部分を語ることはなかったが、彼女には分かった。

 そんなことになったらカスティーリャは無茶苦茶になってしまう。


「……そんなこと、させません。思い通りになんてなるものですか」

「小賢いあんたじゃ無理でしょうね。ならイザベルにしよう。臆病者のこの子なら、脅せばなんだっていうことを聞いてくれるわ……。フアナ、あんたはもう邪魔なだけだ。――死んでしまえ」


 『死んでしまえ』その一言に、フアナは心臓を打ち抜かれたような思いだった。いままで母には散々暴言を吐かれてきた。馬鹿だの、愚図だの、そんな言葉を何度投げかけられただろう。しかし、直接的に死ねといわれたのはこれが初めてだ。

 もはや、目の前の人が母親だとは思えなかった。自分と自分の大事な妹に害をなす、敵だ。


「殺せるなら、殺してみなさい。お前のような薄汚れた女に、この子を利用させたりしません」


 気が付けばそんなことを口走っていた。もう後戻りはできない。

 母の表情が豹変する。


「生意気を……!」


 そういって肩に掴みかかって来た。酔っているせいで動きは緩慢だが、力の加減をしていない。

フアナは命の危機を感じた。無我夢中で訳も分からないまま逃げた先は、バルコニーだった。雨はまだ降っていて、屋根がないのであっというまにびしょぬれになる。そしてすぐに間違いだと気が付く。ここは三階。低い手すりの下に広がるのは石畳だ。飛び降りたら無事ではいられない。


「……さあ、そこでじっとしてなさい……」


 母はふらふらとこちらに近づいてくる。その形相はまるで悪魔だ。これが自分の母なのかと思えば、ぞっとした。

 また彼女はつかみ掛かってくる。躊躇などない。捕まれば殺される。フアナは必死で母をかわす。

その拍子で彼女はバランスを崩した。母の体が大きく傾く。

 ――このままいけば、酔った母は足を滑らせてここから落ちる。

 そんな考えが頭の中を巡った。だがフアナは動かなかった。動けなかったのだ。そして――

 雨で濡れた床に、足を滑らせる。酔っていた彼女はとっさに自分の体を支えることもできない。倒れた先は、低い手すりのほう。そしてその向こうは――

 目の前の出来事が、非現実じみて見えた。落ちていく母の体。布を引き裂いたような悲鳴。そして下のほうから聞こえた鈍い音。

 フアナは茫然自失の彼女は何も出来ず、しばらくそこに座り込んでいた。どれだけそうしたのだろう。しばらくして立ち上がると、フアナは夢遊病患者のような足取りで、イザベルの部屋を出て、階段を下りていく。

 そしてイザベルの部屋のバルコニーの下まで来た。

 冷たい地面の上で、母は絶命していた。目を見開いたままで、息すらしていない。頭部から流れ出た赤い血は、瞬く間に雨が洗い去っていった。

 ずっと自分を苦しめ続けた母が死んだのに、少しも嬉しくなかった。あんなに憎んでいたその気持ちは、どこにいったのだろう。

 むしろ死んだ母の白い顔が悲しげに見えて、今になって彼女も苦しかったのだろうかという思いが湧いてきた。きっと悲しみや苦しみが母を変えてしまった。彼女は孤独だったのだ。それが母の人格を捻じ曲げてしまったのだ。

 彼女が落ちる直前、自分が彼女を掴んでいれば――そんな考えが脳裏を過ぎる。今更遅いということなど分かりきっているのに。それなのに、雨垂れとともに頬を伝う熱い雫をとめることは出来なかった。

 雨音の中から悲鳴が聞こえた。見上げればイザベルがこちらを見下ろしている。その顔は恐怖で凍りついている。

 このときフアナは思った。自分が本当に望んでいたものは、もう二度と手に入れられないのだ、と。


 父王エリンケ四世が急死したのは、それから一ヵ月後。

 その後の王宮内の混乱に紛れてフアナは、何者かによって拉致、トルデシリーシャスの森の中に監禁されるのであった。

 そして時が流れた。


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