第七章 フアナとイザベル
フアナは平然とした様子で壇に上っていく。警備兵はアリシャールに気をとられて――あるいは彼女の足取りがあまりにも自然で、そうするべきものがそうしているという態度だったので、彼女を止めない。そして彼女は、外套を脱ぎ捨てた。
「わたしこそ、この国の本当の王位継承者、フアナ・カスティーリャです」
彼女が外套の下に纏っていたのは、修道女服ではなかった。優雅で豪奢な、王侯貴族が着るのに相応しい衣装だった。
胸元の開いた、鮮やかな青いドレスは美しい光沢をもち、青や赤の宝石がつけられた金の縁飾りをつけている。頭髪は美しく結い上げられ、スミレの花をあしらった金の髪飾りでまとめられていた。
一晩で用意したものとは思えないほど、着こなしている。修道女の服を着ていたときより、女性らしい美しさを持ち、かつ王としての風格もある。狂女などにはとても見えない。
自分の姿を見せ付けるかのように、彼女は胸を張って歩いていく。
フアナが前を通りすぎるとき、アリシャールは小声で言った。
「――イザベルはお前が母を殺したのだといった。それは本当か?」
フアナは一瞬足を止めると、小さく――だが、確かに頷いた。
「ですが、わたしのことを信じてください。せめてこの異端審問が終わるまでだけでも」
「……分かった。ところでそんな衣装、よく用意したものだな」
衣装は効果てきめんだったようだ。人が彼女に向ける目は、不審者に向けるそれではない。それでどうやってこれほどのものを用意したのか単純に疑問だったのだ。安く見積もっても、普通の労働者の三年分くらいの賃金分くらいはかかりそうだ。まさか素性を明かしたわけではないだろう。
「ああ、これはですね――」
フアナは横目でアリシャールの顔を見る。
「――まあ、いいじゃないですか」
「……おい。なんだ」
深くつっこんで聞くつもりはなかったが、意味深に返されては気になる。
「実はですね、これは……その、あなたの剣を質屋に――」
「――おい、フアナ!」
あの剣は昔、アリシャールが剣術を教わった師匠からもらった、思い入れが深いものだ。
――それを質屋にいれた?
信じがたい表情でフアナを凝視する、アリシャール。フアナは彼の視線を避けるように顔を背けた。
「あなたの剣と分かれば、かなり良い値がつきましたよ。モーロ人の英雄はここで有名なんですね。ですが、剣を使わずとも力を使う方法を見つけたのなら、もう剣は必要ありませんね」
「そういう問題じゃないだろう」
そもそも、剣なしで力が使えるのは、先ほど知ったはずだ。アリシャールも初めて使ったのだから。
「ここでわたしがしくじりあなたが死ねば、剣どころの話でもないでしょう。わたしが女王になれば、買い戻すことなんてわけないことです」
「……」
「信じてください」
当初とは違う不信感に苛まれながらも、アリシャールは渋々頷いた。ここで長話をするわけにもいかなかった。
それを確認して、フアナは進みでてアリシャールのさらに前に立つ。
「皆様の中にはこう考える方もいるでしょう。フアナ王女は気が狂っていたはずだ、と。しかし、それはイザベルが、自分が王位につくために流した誤った言説です。わたしはこの通り正気です。皆さんはイザベルに騙されているのです」
突如現れた彼女に、民衆はにわかに湧いた。先ほどまでの空気も忘れて、口々に言い合う。
「まさか……冗談だろう?」
「しかし天秤は動いてないぞ」
「イザベル女王陛下を疑うのか?」
「でもあの女の顔、イザベル女王に似ているわ」
だが、彼女が言っているのは単なる狂言ではない――そのことは多くの者が感じていた。『ミカエルの天秤』が動かないから、というだけでない。フアナはただのほら吹きにしては、纏う空気が並みの人間と違いすぎた。
民衆が口々に言っているのを抑えるよう、彼女は右手を前に出す。そしてはっきりとした声で言った。
「わたしの言葉は嘘ではない。それは『ミカエルの天秤』が証明してくれる。それでも自分が本当の女王だと言いたいなら――イザベル、こちらまで来なさい」
フアナはそう言うと振り返る。そして天蓋付きの席に腰掛けている妹を見据えた。
フアナの言葉に、イザベルは周りの聖職者や異端審問所長官の視線がこちらに集まるのを感じた。彼らだけでなくバルコニーの貴族や、フアナのさらに向こう側の民衆ですらこちらを見ている。
自分が疑われている、ということに彼女は苛立った。立ち上がる、イザベル。その時彼女を止めようとする者がいた。隣に座っていた、イザベルの夫でありアラゴン王国の王――フェルナンドだった。
年は二十六で、イザベルより四つ年上だ。軍人風の衣装を纏い、アラゴン王の証である肩章をしている。彫りの深い男らしい顔立ちで、豊かな栗色の髪を優雅にまとめている。そんな彼の表情も、今は焦燥の色が見える。
「行かないほうがいい、イザベル。……この際、彼女が君の本当の姉なのかというのは問題じゃない。偽者だ、ということにして捕縛するんだ。いや、今すぐ殺したてもいい」
「でも『ミカエルの天秤』は傾いていない。そんなことをして、貴族や聖職者、隣国からの来賓、そして民衆は納得するかしら」
「君の身を案じて言っているんだ。それに、この国で一番権力を持っているのは君だ。あのガラクタじゃない」
フェルナンドはイザベルの扱いを熟知している。どういう言葉が彼女を喜ばせるか。イザベルは満足げな顔になった。フェルナンドもそのことに安堵した――が。
「その通りだわ。よく分かっているじゃない。だから、あなたはこれ以上わたしのすることに口出しするべきでない」
アラゴンはカスティーリャに比べて小さな国だ。よって二人の結婚の条件は、政治的な事柄についてはイザベルの判断を優先させることだ。そしてイザベルは政治以外でも、フェルナンドが自分に従うことを望んだ。
「……! だが……」
言いかけて、フェルナンドは口をつぐんだ。これ以上は何を言っても無意味。彼女の機嫌を損ねるだけだからだ。
「心配は無用よ。昔と違うもの……」
イザベルは従者も護衛もつけずに、壇へと向かう。姉と対等な立場で向かい合うつもりらしい。それは女王として君臨してきた彼女の自信と余裕の表れであった。
しかし彼女の背中を見送るフェルナンドは不安げに顔を曇らせていた。
イザベルは歩きながら、記憶の奥の光景を思い出していた。
その日は地を打ち鳴らすほどの激しい雨が降っていた。その中で雨に濡れながらも亡霊のように立ち尽くす、フアナの姿。そして地面には冷たくなった母の体――
あの日から、姉妹の間の溝は永遠に埋まらないものになった。そして今も。
そこまで思い出して、イザベルはその記憶をまた奥底まで押し込んだ。
ふと見上げれば、突き抜けるような青空が広がっている。
それを見て思い出す。あの頃とは何もかも違うのだ。イザベル自身も。そして空の色でさえ。
自分は回教徒から半島を取り戻した、カスティーリャの偉大な女王だ。一方、姉は民衆から狂女と呼ばれている。対峙すればどちらが有利かは明白だ。
そして彼女は壇上に立つ。
モーロ人の英雄の登場。『英傑の血』の力の発現。狂女王と噂されていたフアナの衝撃の告白。そして女王イザベルの登場。人々の興奮は最高潮に達していた。
「女王陛下! どうかいってくださいませ! そんな女の言っていることは嘘だと!」
身を乗り出して叫んだのは、熱心な正教徒でありイザベルの熱烈な支持者だ。彼だけでない。多くの者が、イザベルに味方しようとしている。異教徒には憎まれる彼女も、正教徒からの支持は絶大なのだ。
二人の王位継承者は壇上で対峙していた。フアナに味方するように、そばに立つアリシャール。ボルジア卿、そして金の天秤はただ事態を静観するのみ。兵士や異端審問官は、イザベルに言われるがまま、壇上を降りていった。
「……随分人気なのですね」
「そうよ。だから安心して、トルデシリーシャスの森に帰ればいいわ……お姉様?」
「そうはいきません。今日あなたに会ってそう確信しました」
すでに気が付いていた。フアナの青い目――異常に瞳孔が開いた瞳が、こちらを見ていることに。
イザベルは知っている。フアナの『英傑の血』の力、〈慧眼〉だ。子供の頃も彼女はしばしばこんな目をした。そしてその後彼女は、すべてを見透かす魔法でも使ったかのような言動、行動をとるのだ。その目が、今自分に向けられていることにイザベルはたじろぎそうになるのをぐっと堪えていた。
昔のイザベルなら、姉と敵対し、向かいあうことなどできなかっただろう。今は違う。自分は賢くなり、そして力を持った。自分には多くの味方がいる。夫であるフェルナンドに自分を支持する貴族や国民――一方フアナの味方はモーロ人ぐらいだろう。恐れる必要など微塵もない。
「確信……ですって?」
「ええ。イザベル。この九年間、あなたは女王としての責務を果たし、周りからも認められてきたのかもしれない。これだけ民衆に慕われるのもその結果でしょう……でも、わたしには分かる。あなたの本質は子供の頃と何も変わらないって。あなたは気が弱くて夢見がちな、可愛らしいイザベルのままですよ」
「……分かったようなことを!」
落ち着いた表情を崩さない彼女に、イザベルは歯軋りする。
彼女は自分を昔と同じように、庇護すべき妹のように接している。フアナを九年も閉じ込めた自分を。女王になった自分を。殺そうとした自分を。それが悔しくて悔しくて仕方が無かった。
「分かりますよ。九年幽閉されていたとしても、たった一人の妹のことくらいは。……それにまた幽閉されるのはいやですね。暗くて狭いところに閉じ込められるのはごめんだって、子供の頃言い合ったじゃないですか」
「そうだったかしら」
はぐらかしたのではない。本当に記憶があやふやだった。過去は置き去りにしてきたのだ。
「覚えていませんか? 何度も暗い物置部屋に二人で閉じ込められたでしょう? あのときたしか、泣いているあなたに……」
「いいわ。そんな話は」
母のこと。姉のこと。それらのことは、この九年間、思い出さないように努めてきた。フェルナンドとともに半島と統一し、強い国を作る――その足枷になるような記憶などいらなかった。
……そうだ、フアナは必要ない。
今、ここで退けなければならない。
イザベルの双眸に宿った殺意を見て、フアナは微笑んだ。
「そしてあなたにも分かっているはずです。あなたとわたし、持っている力の違いが」
――『英傑の血』。フアナの言おうとしていることは、イザベルにもすぐ分かった。ボルジア卿、アリシャールの頭の中にもすぐにその言葉が浮かぶ。
相手の心――あるいはその奥を見透かすこの力は、今の状況でかなり有利だ。今これだけ大勢の目がある中でイザベルを陥れることが出来れば、彼女から王位を取り戻すことも出来る。
イザベルにその危機感はないのか? あるならなぜ、この場に一人で来たのか? そう思いながら、アリシャールはイザベルを見る。そして彼は、気が付いた。
イザベルが笑いを堪えているということを。
「ふふ……はははっ……!」
ついに声を出して、笑い出したイザベル。アリシャールは不気味なものを見る目で見ていた。
「なんだ……どうした?」
嫌な予感がした。
「お姉様は本当にこの九年の間に何も変わっていないと思っているのね……!」
そしてイザベルは民衆のほうに歩みよった。ゆっくりと、地を踏みしめるように。
「『聞きなさい』。親愛なるカスティーリャの国民よ――」
その瞬間、彼女の声で大気が震えた。大声でそう言ったからではない。彼女の声が思わず人が聞き入るような、何かを持っていたのだ。
アリシャールは悟っていた。これは普通でない、と。フアナは何もいわず、ただイザベルを凝視する。
人々はぽかんとした顔で、イザベルを見上げている。
「そこにいるのは、確かにこの国の王位継承者であったフアナ・カスティーリャである。本当ならば彼女が王になるはずだったのが、わたしが王位に就いた。そのことを問題だと思う者もいるだろう。だが……わたしは思う。生まれた順番で王を決めるのはおかしい、と。王座に就くべきは相応しい才覚の持ち主である。そこでわたしは国民の皆に問いたい。わたしがこの国の王に相応しい人物であったか! それだけの実績を築くことができたのか!」
イザベルが合図のように右手を前に出した瞬間、歓声が上がる。
「女王陛下万歳!」
「あなたこそ真の正教徒の王だ!」
「カスティーリャの王だ!」
誰もが口々にそう言う。隣国のものや異教徒でさえ、その熱気に震えていた。
アラゴンと同盟を結び、半島からモーロ人の国を滅ぼしたイザベルは、カスティーリャ国民に稀代の名君と呼ばれているのだ。イスパニア半島だけでなく、他の正教諸国への誇りである。彼女の言葉はそのことを思い出させ、また人々の気持ちをいっそう強くさせ団結さえさせた。
アリシャールは畏怖の篭った声で呟いた。
「言葉により人の心を捉え、動かす力――」
――『英傑の血』。
フアナだけでなく、イザベルも持っているのだ。それも人の心に干渉する類のものを。
そして何よりフアナが正統な王位継承者であるという事実は、自分達にとっての一番の勝機であるはずだった。しかし、イザベルの一言で、いとも簡単にそれは無視されようとしている。そうなってしまっては、フアナにとって圧倒的に不利だ。
「――〈達弁〉。わたしがあなたの力と同じ力を持っていてもおかしくないでしょう。だって私たちは、同じ親から生まれた姉妹ですもの……」
フアナは何も言わずに、〈慧眼〉でイザベルを見ている。視界の端に入れている『ミカエルの天秤』はぴくりとも動かない。
「……どうしたの? 予想外で驚いた? 降参するのなら命くらいは助けてあげる。……まぁモーロ人の英雄さんはそうもいかないわ。お姉様もまたトルデシーリャスの森に帰ってもらうことにはなるけれどね」
アリシャールは不安そうに彼女を見た。もしかしたら、あっけなく降参することを選ぶのではと思ってしまったのだ。そうなったなら、自分だけでも逃げられるかと焦った様子であたりを見渡した。
その時だった。
「でもあなたは、フアナは発狂したって嘘の噂を流した! 国民に嘘をついた! そこにいる女が狂っているようには見えないわ!」
少女の声がそう言った。声のほうを見れば、エンマが顔を真っ赤にして叫んでいる。
彼女に賛同するような声が上がる。アミナと一緒にいる子供達からもだ。
これはアリシャールが昨夜エンマに頼んだことだった。現在多くの民がイザベルを支持している。だから民衆の考えが少しでもフアナに有利になるように扇動してほしい。そしてアミナは今朝、それをトレドのほかのモーロ人にもお願いに行っていたのだ。
彼らの言葉で、他の者達の心も少しずつ変わっていく。
エンマのお陰だ、とフアナは小さく笑った。彼女はフアナの味方をしてくれたのだ。
「その通り。わたしは正気です。九年閉じ込められてもまともでいられるくらいにです」
そしてフアナは、一瞬アリシャールに視線を送った。エンマは信じてくれたのにあなたはわたしを疑ったんですか? とでも言うように。アリシャールは気まずくなって、少し目を伏せた。
エンマの言葉で、イザベルを支持する人たちの団結にほころびが生じていた。
結果的に彼女はよい王になったが――それでも、国民を欺いて、姉を陥れて幽閉したという事実は見逃してよいのか?
イザベルは苛立ちから顔を歪めた。しかし、なんとか自制し、もう一度民衆に呼びかける。
「フアナ・カスティーリャに『騙されてはいけない』! 彼女は……彼女は自分の母を、わたしの母を殺した! 彼女の正気の下には、恐ろしいほどの狡猾さが……狂気が渦巻いている! だからわたしは彼女を幽閉したのだ!」
またイザベルの声が響く。その声に篭っているのは憎しみだ。その感情は民衆の心にも届いた。人々の心がそれに同調していく。
アリシャールは周りを見る。イザベルの怒りは、まるで炎のように広がっていた。音も無く、しかし大きくうねりながら。その熱に、自分も飲み込まれそうになるのを必死に堪えていた。今はまだ冷静に事態を見極める時だからだ。熱くなるべきではない。
「あなたが何を言ってももう無駄だわ。親殺しはこの世でもっとも重い罪の一つ。誰があなたを信じるかしら。……モーロ人の英雄さんだってそうでしょう?」
アリシャールは何も言わずに唇を噛んだ。フアナを裏切ることなど出来ない。彼女がイザベルに勝つことが自分や自分の仲間を救うためには必要だからだ。しかし、正義感の強いアリシャールは、親を殺したフアナへ疑念を抱かずにはいられない。
当の本人は妹、そして彼女を支持する何千人からの怒りを一身に受けながらも物怖じ一つしていなかった。
「確かに母を殺した。……それはなぜだと思いますか」
静かな言葉はしっかりとイザベルの耳に届いた。
「それくらい分かる。お母様は心を病んでいて、しばしばわたし達に暴力をふるった。お姉様はそれに耐えられなかったのでしょう? わたしだって苦しかったから気持ちは分かる。でも……だからって、母親を殺すだなんて許されない!」
そう言ったのは、もはやフアナを貶めるためではない。母を殺した姉への憎悪がそう言わせたのだ。彼女は民衆のことや、王位のことを忘れていた。ただ姉が憎い、その一心だ。
感情的な彼女の言葉をフアナは静かに受け取った。
「いいえ、違います。わたしがお母様を殺したのは……」
緊迫した面持ちで続きを待っていたのは、イザベルだけでなかった。アリシャールも握り締めた拳が、汗ばむのを感じていた。この言葉でフアナがアリシャールを信頼するかどうかが決まる。
そしてフアナは言ったのは――誰も予想していなかった言葉だった。
「……お母様が、わたしではなくあなたを王にするつもりだということに気が付いたからです」