第六章 大異端審問
エンマは帰路についた。無事人の目を潜り抜け、牢獄を抜け出す。その後は来た道を戻るだけだったので、疲労感との戦いだった。太陽が顔を出すころ、エンマは家に戻った。
彼女はアミナを起こして、アリシャールの頼みを伝えた。アミナはそれを聞いて家を出て行った。
エンマは起きて待っていようかと思ったが、椅子に座っていたら気がついたら居眠りしていた。さすがに限界だったのだ。子供達が起きて、朝食を食べているころに起こされるまでぐっすりだった。
昨日と同じようにアリシャールはいない。だが昨日と違うのはフアナもいないことだ。目を覚ましてもそれは変わらない。それがどういう事情なのかアミナにも分からない様子だ。彼女も詳しく聞かされてないのだろう。
ひとまず彼らは予定通り異端審問に向かうことにした。王居に近い大広場で行われることになっており、ここから歩いて一時間はかかる。アミナはしっかり戸締まりをして子供たちを連れて歩きだした。
少し歩けば、街の様子がいつもと違うことに気がつく。普段より人が多いのだ。しかし祭の時とは違う、どこか厳かな雰囲気がある。人々は声をひそめて、今日の異端審問についてささやきあっている。
この日のために市外から足を運んだ者も少なくない様子だ。さぞかし宿屋は大盛況したことだろう。宿からあふれて野宿したものまでいたようだ。
道中エンマは行き交う人が不穏な噂を口にしているのを耳にした。モーロ人の英雄が異端審問所にとらえられたというのだ。アリシャールのことで間違いない。
アミナにも噂話は聞こえたようだった。自分が監獄まで行って彼に会った事は伝えていない。怒られると思ってのことだったが、アミナもエンマが何かしていることを察しながらも詳しくは聞いてこなかった。昨日の異端審問でアミナを助けるために力を尽くしてくれたことも踏まえて、エンマを信じて委ねているのだ。
アミナは子供たちを気遣い、表情を変えなかった。心中は気が気でないだろう。アリシャールはたった一人の息子なのだ。彼女のことだから、きっと昨日自分が捕えられた時よりも、不安であるはずだ。
まもなく大広場へ到着した。しかしすでに人が溢れていて、とても異端審問が行われるところなど見えない。少しでも前にいこうと、押し合いになっている。
他の子供たちも前に行きたいようだったが、アミナは決して自分から離れるなと厳しく言った。もしはぐれたとき、トラブルに巻き込まれると思ったのだろう。
それは大いにありうる話だった。子供たちは正教徒と同じ格好をしていたが、顔立ちや肌の色からモーロ人だと分かる。ここには過激な思想の正教徒も来ているのだ。彼らの目に子供たちが止まれば、面倒なことになる。
あきらめきれない気持ちはあったが、エンマもこの場で子供一人が歩き回れば危険であることぐらいは理解できた。声くらいは聞こえることを願うしかない――と思ったときだった。
誰かがエンマの手をつかんだ。
その人物は季節外れの黒い外套を纏い、フードで顔を隠している。細くて白いその手はどこか覚えがあった。その人物はエンマの手を引いて、前へ前へと人垣をかき分けていく。
「あなたは!」
エンマの言葉に耳を貸さずに、進んでいく。
押し退けた人に罵倒を飛ばされても気にとめない。やがて視界が開け、今日の大異端審問の舞台が目の前に広がる。その光景にエンマは目を奪われた。
正面には天蓋付きの席が用意されていた。今日のために組まれた席で階段状になっている。ここは異端審問所長官や、高位聖職者、アラゴン・カスティーリャの両王が座る席だ。異端者達はこの席の前の広場に連れられてきて、並ばされることになるのだろう。彼らが立つための木製の壇もおかれている。
広場の両側は三階立ての建物で挟まれており、バルコニーが絶好の見物席になっている。そこには高貴な身分の紳士淑女の姿が見えた。
民衆が集まるこちら側と向こう側を仕切るのはロープ一本だ。しかし、武装した警備兵が、立ち入る者がいないか目を光らせている。侵入するような不届き者がいれば、腰に提げたサーベルで躊躇い無く、切り捨てることだろう。
「フアナ……なんのつもり?」
エンマはフードの下でほほえんでいる彼女を、下から睨みつけた。
「あなたに見てほしかったのですよ。あなたにはその権利があります。あなたがいなければ、昨日の異端審問でアミナを救うことができなかったでしょうから」
「……それだけ?」
「ずいぶん信頼していただけていないようですからね。わたしが女王になったとき、それでは困ると思いまして」
「困るですって?」
身よりもない自分は社会的になんの地位もないただの子供だ。王になれたなら、そんな自分に気を止める理由などないと思うのだが。
「わたしなりにあなたに敬意を表している。そう思っていただいて結構ですよ」
うさんくさいものを見る目でエンマは彼女を見る。フアナを信じていないのは、誰が見ても明らかだ。
しかし前列に来ることが出来たのはありがたかった。アミナには心配をかけて申し訳ないが、ほかの子供のことを考えれば探しにくることはないだろう。今はここで異端審問を見届けることにする。
これから始まる異端審問のことを思えば、アリシャールが心配だった。上手くことは進むだろうか。そうでなければ彼は死ぬ。自分もあの陰鬱な修道院に戻らなければならない。
……いや、昨日の夜、彼に信じるって、そういったじゃない。
そして彼は自分を守ると言った。
昨日はその約束を果たしてくれた。一度は殴られたが、最後には駆けつけてくれた。
そんな彼が、自分をおいて簡単に死ぬわけがないのだ。
自分が不安になってどうする、とエンマは自分を勇気付ける。アリシャールが、フアナがこの国を変えるのだ。前向きにならなくてはいけない。
しかし、ふいにかけられた言葉にエンマは現実に引き戻された。
「……エンマ。やはり来ていたのか」
ルイス神父だった。昨日と同じように、感情の乏しい目で見ていた。
「あなたもしつこい人ですね。エンマを追ってわざわざここまできたんですか? ご苦労なことですね」
さすがにフアナも呆れた様子だ。
「なぜそこまでするんですか? そんなにエンマが気に入りましたか?」
「……そうだ」
「それはまた、随分変態趣味な神父様ですね」
「下賤な勘違いをするな。――わたしはアラゴンの神学校で教師をしていた。エンマ、君をそこに推薦したい」
「……え?」
いきなり出た予想もしなかった言葉に、エンマは声を漏らした。ルイス神父は自分を恨んで追っていたのではないのか。
「神学校――もちろん正教徒の新学校ですよね。ヘブライ人であるエンマをなぜわざわざ推薦するのですか?」
どういうことか理解しきれないエンマに代わり、フアナが訊いた。
「学校を変えるためだ。その神学校は……例えるなら脳みその腐った猿の檻だ。伝統と格式とは名ばかりで、悪しき慣習に囚われている。教師は変化を恐れ、生徒もそんな教師達に従うのみ。挙句のはてには、信仰より世俗の富を求める始末。教義について討論することもなく、神とはなんなのか、信仰とはなんなのか考えることを忘れている。このままでは、この学校は――いや、イスパニア半島の正教会は腐敗し、王権に利用されるがままになってしまう。かび臭い神学校を一掃できる、新しい風を求めている。――お前のように、賢い生徒が欲しいのだ。お前がいた修道院にも、長らく使われていなかったが推薦の枠はある。そのために、一度修道院に帰る必要がある」
いきなりふって湧いてきたような話に、エンマはすぐに話についていけなかった。
しかし少し考えれば、これはチャンスに思えた。
神学校がどういうところかは分からないが、勉強をするところだ。前までいた修道院で働かされるよりマシだろう。アミナのところでいつまでもいるわけにはいかない。
「話にもなりませんね」
迷うエンマとは裏腹に、フアナはきっぱりと言い張る。
「これからこの国は変わるのです。彼女は正教の修道院にいる必要も、正教を信じる必要はなくなります。そうなったら、ヘブライ人の彼女が正教徒の神学校に行くのはおかしいでしょう?」
いらぬ横槍を刺され、ルイスは煩わしそうに顔を歪めた。
「お前……昨日から怪しいと思っていたが、修道女じゃないな? 何者だ」
「すぐに分かりますよ……エンマもすべてが終わってから、先ほど彼が言っていたことを考えればよいではありませんか」
フアナに言われた通り、エンマは考えるのをやめた。今は目の前で起こることに集中するべきだ。ルイスも仕方が無く、共に異端審問が始まるのを待つことにする。
しばらくした頃、広場にラッパの音が鳴り響いた。それは監獄からの大行列が到着した合図だった。
正装した兵士が掲げる三重の王冠の紋章の旗に続いて広場に足を踏み入れたのは、トレドの大司教だ。金の刺繍で装飾された、豪奢な白い法服を纏い、教会の権力を誇示するかのようにいかめしい表情を崩さない。その後ろには高位聖職者達が続き、さらにその後ろには火刑用の薪を抱えた修道士や修道女が粛々と続く。
その後入場するのは、白馬にまたがる騎馬兵だ。真紅のマントを乾いた風になびかせて優雅に進む。晴れ舞台のために磨かれた銀の甲冑が、日の光に輝いている。足並みをそろえて続いてくるのは、歩兵たちだ。ぴん、と背筋を正し、その手にはマスケット銃を構えている。
そしてそれに続くのが、今日裁かれる罪人たちだ。モーロ人やヘブライ人のほかに、教会を裏切った正教徒もいると言う話だ。彼らは黒一色の衣装を着せられ、聴衆の視線を避けるように目を伏せて歩く。彼らの表情は皆、暗く険しい。長年の獄中生活の為、足が衰え歩くこともままならない者もいるようだった。服の下から痛々しい生傷をのぞかせる者もいる。
そしてエンマが昨日見た、死者を収めた棺が運び込まれる。これも生きている罪人と同じように火炙りにされるのだ。
エンマはその後ろに続く者に目を奪われた。
「アリシャール……!」
彼は両手を拘束された状態で、馬に乗せられていた。ロープの両側は兵士に握られているという、他の者とは格別の待遇だ。
彼の表情もまた、前に続く者とは違った。疲弊しきった彼らとは違い、鋭い眼光を光らせて正面を睨みつけている。聴衆たちも彼に注目していた。あれがモーロ人の英雄か。誰ともなくそう呟く。
「何のために、彼をあそこに行かせたの?」
エンマが問えば、フアナはいつも通りはぐらかした。
「まもなく分かりますよ」
エンマは彼女に掴みかかりたくなるのを堪えた。さすがに体格差があるし、そんなことをしても無意味だ。
エンマは再び前に目を戻す。列のしんがりをつとめる槍兵が、広場に足を踏み入れ、再びラッパの音が鳴る。
高位聖職者たちは正面の席に腰掛け、薪を運んできた者はその横に控える。罪人たちはその前に横一列に並ばされる。罪人の死体を収めた棺もだ。アリシャールも馬から下ろされて一番端に並んだ。
堂々たる足取りで広場の壇にのぼっていくのは、トレドの大司教だ。壇の傍らにたった兵が、彼の肩書きと名前を紹介する。
そして大司教は大広場の端まで聞こえるような声で異端審問の開始を宣言した。眼前の聴衆を見下ろしながら、異端の恐ろしさをくどくどと説いていく。態度のみで逆らうものは決して許さないと訴えているようだ。皆一様に口を閉ざす。しかし、言葉はなくても考えていることは同じだった。誰もがちらちらとアリシャールを見ている。彼のことが気になるのだ。
大司教の長い説教が終われば、それと入れ違いに、エンマもよく見覚えがある顔が壇に上る。端正な顔立ちに美しい金髪。忘れるはずがない。
「ローマ正教会! テルネロ・ボルジア卿!」
ボルジアはマントをはためかせ、壇上に立った。ローマ正教会という言葉とボルジアの容姿に、今度は皆彼に注目した。
「主は我らが偉大なる父であり、わたしはその忠実なしもべであることをこの場において誓う。わたしは神の代理人であるシクトゥクス四世の御心に従い、この異端審問が正当なものであることを証明するためにここにいる」
そして彼は、自分の斜め後ろに付きしたがえている従者を、指し示した。彼が手にしている金の天秤が、注目を集める。意匠から年代物であることは窺えるが、金の輝きは損なわれていない。装飾が多く、どうも実用品ではないようだ。
「これは『ミカエルの天秤』という聖具だ。ミカエルは正義を司る天使。この天秤は嘘を見破ることができる。このたびの異端審問を公正なものとするため、この聖具を使う」
――本当か?
言葉に出す者は少なかったが、多くの者が眉唾ものだと思った。
エンマも同じ気持ちだ。
「……そんなものがあるって話は聞いたことないし、もし本物だっていうんなら、なぜ今まで使われなかったのかしら」
もしこの道具が本物なら、アリシャールや他の囚人の無実を訴えることもできるかもしれない。いや、それだけでない。イザベルがフアナを幽閉し、王位を奪ったことを明るみにすることだって可能だ。
ただし本物だったなら、である。
「本物ですよ。ですが秘密にされてきました。そんな道具を使われたら困る輩が正教会にはごろごろいます」
見てみなさい、とフアナはボルジア卿を指さす。彼は今まさに、天秤が本物であることを証明しようとしていた。
彼は十字を切ると、祈りの言葉を口にした。聖具の力を証明するために、嘘を言うことを懺悔しているのだ。そして胸に手を当て、声高らかに言った。
「私は正教の教えに背き、悪魔に忠誠を誓う」
すると天秤の皿が大きく傾いた。ボルジアは天秤に触れていないし、従者は天秤の下の部分を支えるのみで何もしていない。なにより従者自身が、目を見開いている。ボルジア卿もなにも怪しい動きはしていないし、これだけ大勢の前では隠れてなにかする事もできない。
間違いなく、天秤が独りでに動いたのだ。
どうやら、本当に本物らしい。フアナがその存在を知っていて、彼女の助言を受けたボルジア卿がこのたびの異端審問でつかうように提言した、というのは納得できない話ではない。立会人のボルジアがこれを使うことを提案すれば、異端審問所もそれを却下することは出来ないだろう。それはつまり、この異端審問にやましいことがあるのを認めるようなものだ。
「それにしてもずいぶん都合よく用意できたものね。たまたまボルジア卿がローマ正教会から持ってきていたの?」
「いいえ。カスティーリャ国内の正教会が保有していたものです。その昔『英傑の血』を持っていたとされる偉大な聖人が作ったとされています。ボルジア卿もその存在は知っていましたし、彼ほどの権力者なら、持ってこさせることなどわけないですよ。……しかし問題はこの後です」
「この後?」
「見ていれば分かりますよ」
フアナの眼差しがいつになく真剣だったので、エンマは視線を戻す。
壇の上では槍を持った兵士に連れてこられた罪人が、立たされていた。立会人として、ボルジア卿と『ミカエルの天秤』をもった従者が傍にいる。そして、書記官が被告の罪状を読み上げていく。
その罪人は、名の通った学者だった。彼はイスパニア半島でのモーロ人の歴史や文化、信仰のあり方を記した書物を書こうとしていた。しかし、それが正教への批判に繋がるとして、彼は異端とされた。
「――これらのお前の行いはこの国の正教の信仰を揺るがすものであり、神に背く行いであった。その事実を認めるか?」
痩せこけた頬の罪人は床を見つめたまま、消え入りそうな声で言った。
「はい、認めます……」
「――それでは判決を下す! カジェタノ・セルバンテス! お前を異端として火刑に処する!」
エンマは疑問だ。なぜ彼は、自分は無罪だと主張しないのだろう。異端として告発されるようなことをした彼も、自分が間違っていると思ってそんなことをしたはずはない。おそらく国の異教徒追放に疑問を持ち、自分の信念をもってそうしたはずだ。とりわけこの大異端審問で裁かれるのは、正教にとってより問題になるようなことをした者だ。異端として糾弾されることを恐れず、勇気をもってそうすることを選んだに違いない。
「彼らの後ろに槍を持った兵士がいるでしょう? 前もって肯定以外の言葉を言わないように言い含められているのです。そうしなければ、その手に持っている槍をおろす、と」
「それでも反抗するべきだわ。だってなにもしないと、このまま処刑されてしまうじゃない」
「それでもですよ。彼は、いや彼らは暴力に屈している」
彼の細い手足。恐怖におびえた目。そして痛々しく残る拷問の傷跡。長い時間、閉じこめられ、虐げられ続けた証だ。かつて信念をもっていたはずの彼の精神は、暴力によって徹底的に打ち砕かれているのだ。
エンマにも分かる気がした。彼女もきっかけさえなければ、あの修道院で暴力に怯えたまま暮していたかもしれない。それと一緒なのだ。
「それがイザベルのやり方です」
エンマは正面の席に腰掛けるイザベルを見た。そこにいたのは、間違いなく昨夜会った彼女だ。あのとき監獄にいたのはやはりイザベルだったのだ。彼女は頬杖をついて余裕の表情だ。『ミカエルの天秤』のことも認識し、フアナが自分を陥れようとしていることも知っていながら、自分がそれで危機に立つ心配はしていない。
罪人たちは端から名前を呼び上げられると、一人一人壇の上に立たされていく。誰も自分の無罪を訴えることはしなかった。彼らは一度判決を下されている。それを覆すのはまず不可能だと思っていた。たとえば、この大異端審問の意義が覆されるようなことでもない限りは。
――でも、アリシャールなら。彼とフアナなら。
この大異端審問を変えられるはず――いや、この国に革命を起こすことができるはず。
丁寧に死んだ罪人の罪状まで読み上げられる。死んでいる人間を裁くというある意味滑稽な光景をみな大まじめに見守る。
エンマも祈るような気持ちで見ていた。セレスティノの名前が呼ばれたとき、昨夜の老人のことを思い出す。どこかでこれを聞いているだろうか。もしそうだとしたら、どれだけ悲しむことになるだろう。そして彼らはヘブライ人だった。それでエンマを孫と見間違ったのだろう。エンマももしかしたら、昔彼らに会ったことがあるのかもしれない。
できるならまたあの老人と話がしたい。エンマはそう思った。
そのあと、ついにアリシャールの番がやってきた。名前を呼ばれた彼は壇に上っていく。アリシャールには、二人の兵がついた。そして彼と共に異端審問官も壇上に上がる。ロドリゴ・トルケマダとは違う、彼よりは若く血の気の多そうな男だった。勇み足で駆け上がっていった。
異端審問官は怒鳴るように唾をまき散らかしながら、声を張り上げた。
「この場に集まったこの国の民に告げる! 昨夜正教の教えに背き、国家の安寧さえを妨げる活動をしていたモーロ人の大悪人を捕まえた。ただいまより、裁判を行う!」
今まで単調に流れていた異端審問に、飽きかけていた民衆はその言葉に大いに反応した。その言葉に正教徒たちは歓声を上げ、モーロ人はひっそりと唾を呑んだ。
異端審問官は聴衆の反応を確認すると、言った。
「アリシャール・アルレオラ! お前は異端の教えを掲げ、モーロ人を結託させて国家に反抗することを計画した。これはまぎれもなく異端であり国家反逆罪である!」
アリシャールは静かに、しかしよく響く声で応える。
「俺は異端じゃない。なぜなら俺は一度も正教に改宗したことがないからだ。俺は生まれてから今日まで回教徒でモーロ人だ。正教徒でない者を正教の異端とする。おかしな話だろう」
怒りで眉を吊り上げ、異端審問官は言い返す。
「何を言っているんだ! 正しい正教の教えに従わない者はみんな異端だ!」
「この世界に正教徒でない者なんてごまんといる。お前は彼らを片っ端から火炙りにしていくつもりか」
「ここは正教徒の国だ! そしてわれわれ異端審問所はローマ正教会の認可を受け、女王の命で異端を裁いている! この国の信仰を守るため!」
審問官の言葉に民衆もうんうんと頷いている。
しかし、彼はそれに冷静に返した。この国を根本から変える事実を。
「お前たちに命令している女王が偽者だとしたら?」
「な、なにを……!」
一瞬言葉を失った異端審問官。アリシャールが追い討ちをかける。
「イザベル・カスティーリャはこの国の本当の女王ではない。彼女こそ、大悪人であり、国家反逆罪で裁かれるべきである!」
異端審問官の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。
「不敬罪だ! 今すぐ黙らせろ!」
アリシャールの後ろの兵士が槍を振り上げる。いくら英雄とはいえ、丸腰で訓練された兵士には敵うはずがない――見ている者は、そう思った。エンマも思わず目を瞑りそうになったが、目を逸らしてはいけないと自分を言い聞かせ、顔を前に向ける。
アリシャールは両手で槍の柄を掴み取った。二人の兵は動揺しない。二対一で力勝負になれば必ず勝てると思い、そのままアリシャールを押し倒そうとする。
その時だ。アリシャールの腕から赤い炎が腕から蔦が伸びるように広がり、彼の黒い衣服を焼いた。炎は二本の槍と伝い兵士の手を包む。二人の兵士は思わず槍を放りなげて、腰をついた。二本の槍は音をたてて、床に転がる。二人の兵士は、悪魔を見るような目でアリシャールを見ている。
見ている者達は、目の前で起こったことが信じられない。エンマもだった。
「なぜ! 剣を持っていないのに……!」
それが『英傑の血』の力によるものであることはエンマにも分かった。しかし彼は剣を用いて力を使うのでは無かったのか。
「彼の腕を見てごらんなさい」
エンマは言われるがまま、目を凝らした。よく見れば左腕に赤黒い文字が並んでいる。よく見ればモーロ人の言葉のようだ。エンマは分からなかったが、それは彼の曲刀に刻んであった聖典の言葉と同じだった。それを自分の爪で腕に刻み、腕を剣に見立てて炎を操っているのだ。
人智を超えた力を目の当たりにして、異端審問官、そしてボルジア卿ですら言葉を失っている。そんな彼らを無視して、民衆のほうに歩み寄った。彼はまだ赤い炎を腕に纏っている。
民衆の彼を見る目は様々だった。羨望、畏怖、嫌悪、感激――呆然と立ちすくんでいる者が一番多いかもしれない。
彼らを一喝するかのように、アリシャールは声を張り上げた。
「……まだ、『ミカエルの天秤』は傾いていない! 今日この場で、この国の真の王は誰か、真の正義とは何かをきめようじゃないか!」
アリシャールの言葉に、そして民衆の反応に、フアナは満足げに微笑む。
すべては自分の思う通りに進んだ、と。
「やっとわたしの出番のようですね」
そしてロープをくぐり、広場の壇のほうへと歩いていった。