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第五章 夜明け前の監獄

 月も傾き、しばらく経てば夜も明けるという頃。明日大異端審問にかけられる者達がとらえられた監獄には、悲鳴が響きわたっていた。明日処刑されることが決められた彼らは、最後の夜まで拷問を受け、徹底的に痛めつけられているのだ。


 大異端審問にかけられるのは、四十人。すでに死刑と判決が決まっている者ばかりだ。明日はイザベル・フェルナンド両王やローマ正教会の枢機卿、そして大勢の貴族や大衆の前で正式にその判決がくだされ、そして皆、処刑される。罪の重さや改宗したか否かによって絞首ののちに火炙りになれるか、生きたまま焼かれるのかの違いはあるが。

異端審問の恐怖を民衆に見せつけなければならない、という名目の元、まだ気力や体力がありそうな被告は目を付けられ、拷問された。自白を引き出すためでもない、ただただ不条理な暴力に彼らは悲嘆の叫びをあげた。


 深い絶望が渦巻くその場所に、足を踏み入れる者がいた。

 こんな時間、こんな場所にいるのにふさわしくない、小柄な若い女だった。化粧をやめて服装を変えてしまえば、少女にしか見えなかっただろう。しかし彼女の纏う雰囲気は決して少女のそれではない。

 彼女は鳶色の髪を夜風になびかせ、よどんだ空気が渦巻くこの場所を、楽しむような余裕の表情を浮かべている。上半身をすっぽり包み込むような外套には、王家の紋章が大きく刺繍されていた。

 彼女は護衛を一人つれていた。鉄の甲冑をまとった、見上げるほどの大男だ。顔はもちろん、全身が甲冑に覆われており、歩くたび金属が擦れあう音がした。無言のまま、絶えず周りを警戒して殺気を放っている。


 看守たちは彼女の顔を見てあわてふためいた。まさか彼女がこんな時間にここにくるとは思っていなかったのだ。先ほど捕えられたはずの男に用があると言えば、すぐさま彼のもとへ案内された。

 彼は一番奥の牢の中にいた。牢番が一人つけられ、特別警戒されていることが分かる。壁にもたれ掛かかって床に座り込んでいるのが、ろうそくのわずかな明かりの中で窺える。顔を伏せているので眠っているのかどうかも分からない。

 彼女は彼に呼びかけた。


「お久しぶりね。モーロ人の英雄さん」


 顔をあげたアリシャールは彼女を見て、驚きで目を見開いた。そして怒りがこもった目で目の前の女を睨みつける。そして押し殺したような声で言った。


「……イザベル」


 一度は取引をした相手だ。暗がりの中でも、その顔を忘れるはずがない。

 イザベルはその言葉を鼻で笑ってみせた。


「女王陛下と呼びなさい」


 そして彼をよく見ようと目を凝らし、彼の左腕から血が流れていることに気がついた。よく見れば、右の指先にも血が付いている。

 イザベルは顔をしかめると、後ろにいた護衛をちらりとみた。そして近くに立っていた牢番を指さした。


「これを痛めつけてやりなさい」


 牢番がその言葉を理解する前に、護衛の大男の拳が彼のみぞおちに埋まった。


「な……グッ……!」


 牢番はなにか言おうと口を開ける。しかし彼が言葉を発する前に、また大男の拳が彼を襲う。一方的な攻撃は彼が身動きできなくなり、床に伏すまで続いた。

 彼の体はひどい有様だった。全身に打撲を受け、左腕は骨折しているのか腕があらぬ方向を向いている。ぼろぼろの牢番の頭を、イザベルはなじるように踏みつけた。牢番を見下す目は地面を這いずり回る虫を見るようなそれだった。


「この男には傷を付けるな。そう言ったはずでしょう」

「……グォ……しかし、その……」


 端から血を流す唇がつむごうとする弁明も、彼女は耳を貸そうとしない。


「言い訳は不要。女王の命令に背いた罰、その身にとくと味わいなさい」


 何事か分からないまま門番が殴られるのを、無言で見ていたアリシャールは慌てて言った。


「――これは自分でした」


 それを聞いて、彼女は牢番を踏みつけるのをやめた。そして牢に近づき、アリシャールを見てニヤリと笑った。


「なるほどね。ここは仲間の叫び声も聞こえるものね。今夜、少し早く地獄にいく者もいるかもしれないわ。彼らの断末魔を聞いて、自分に助けられたかもしれない、とか考えて罪悪感に苛まれたりするのかしら? ……英雄さんも大したことないのね。精神的苦痛に負けて自傷に走るなんて」

「……なぜ俺をかばう。そこまでする必要はないだろう」


 アリシャールは複雑な心境で床に横たわる牢番をみた。命こそ無事そうだが、しばらくまともに生活できないだろう。彼は異端審問所の人間で、自分の同胞を痛めつけた者達の一人だが、あのように一方的に訳も分からず痛めつけられるところを見せつけられて、なにも感じないわけがなかった。

 彼女は護衛の男に牢番を連れていくよう指示した。男は牢番を苦もなく担ぐと、その場を立ち去る。彼は仲間に手当てしてもらうことになるだろう。

 残されたのはイザベル一人のみ。さすがのアリシャールも牢の中からはなにもできないが。


「かばうですって? 勘違い甚だしいわね。わたしはとらえられたお前を傷つけるなと命令したけれど、それはお前に明日がくるより前に死なれたくなかったからよ」

「なら牢番を殴る必要はない」

「あるわ。この国において、王――すなわちわたしこそが絶対の秩序。わたしの命令は絶対。そのことはいつ何時であっても変わらぬ事実でなくてはならないのよ」


 王による支配は絶対でなければならない。それが彼女の権力者としての理念なのだ。アラゴンとの同盟も、異教徒追放もすべてそのために尽きる。

 たしかに、国を治める君主の力が弱まれば、国は乱れる。それは紛れもない事実で歴史も証明している。だが。


「力だけで人を支配できると思うのか」


 イザベルは牢番を一方的に虐げた。その光景が、アリシャールには不当なものにしか見えなかった。


「暴力はひずみを生む。それは必ず、お前を、そしてこの国を破滅に導く」

「牢の中で惨めにうずくまっている人間に言われても、ね。そういうのを負け犬の遠吠えっていうのよ。……まぁ、今日わざわざここに足を運んだのは、あなたを笑うためじゃないわ。フアナのことを聞きにきたのよ。あなたはあの女を殺さなかったのでしょう? そして今は協力関係にある。違うかしら?」

「……知っていて答えると思うか?」

「つまり、フアナを殺していない。あの女とつながっているってことね」


 もし彼女を殺しているなら隠す意味はないもの、とイザベルは笑った。彼女の顔立ちはフアナに似ている。二歳しか年齢が変わらないわりに童顔すぎるが。しかしその笑顔はフアナのそれより嗜虐的に思えた。


「……フアナは言った。イザベルが俺に同胞を助けると言ったのは嘘だと。自分なら助けることはできると。……お前は元から俺を騙すつもりだったんだろう? アミナ――俺の母親を異端として告発した。それが証拠だ」

「裏切りはお互い様。あなただってわたしが裏切る確証もなくあの女の味方をした。でもあなたがフアナを助けるかはどうかはともかく、わたしが最初からあなたを助けるつもりなんてなかったのは事実ね。フアナ一人を殺すために、モーロ人を保護するなんて馬鹿げているもの」

「イスパニア半島には、八百年のモーロ人の歴史がある。それはこの街にも、お前が今しゃべっている言葉にも、それは残っているだろう。それを全部壊して、正教徒だけで国を作れるか」


 モーロ人がこの国に侵略した折、彼らは正教徒を力で支配することはせず、改宗することを強制しなかった。当時正教の王による暴政に苦しんでいた正教徒たちも、喜んで彼らを受け入れた。だからたとえ君主が代わろうと、国の名前が変わろうと、そのモーロ人の文化は正教徒たちの中に残っている。

 異教徒と共生する道を選んだ祖先をアリシャールは尊敬している。それは寛大であったからというよりは、それがもっとも効率よくこの国を支配する方法だったからだろうが、その判断は正しかったのだ。だからこそ、彼らは新しい土地で繁栄することが出来た。そしてイザベルの思想はその真逆だ。


「しかしモーロ人の王国は滅びた。それはその程度の価値のものだということ。それが事実だわ」


 イザベルはアリシャールの言葉には耳を貸さず、毅然とした態度で言い放った。そして意地悪そうな笑みを浮かべる。


「……あなたはもしかしてフアナを信じているのかもしれないけれど……一つ教えてあげる。どうしてわたしがフアナを幽閉したのか」

「自分が女王になるためだろう」

「その通り。でもそう思ったのには訳がある。フアナを女王にするわけにはいかない、自分が女王にならねばと思った訳がね。わたしだって昔は、父なき後王になるのがフアナであることに疑問を抱かなかったわ。しかし歳を重ねて、彼女を疑うようになった。そして――あるきっかけが、それを確かなものにした」


 フアナから聞かされていない意外な話だ。イザベルは己の野心故にフアナを幽閉したのではないのか。


「きっかけ……だと?」


 彼女はうなずくと、真剣な顔で言う。


「あの女はね、母親を殺したのよ。……わたしたちの実の母親をね」


 予想していなかった言葉に、アリシャールは衝撃を受け、なにも返せなかった。

 ――親を殺した。

 すぐには信じられなかった。確かに彼女は、どこか浮き世離れしたところがある女だが、倫理や道徳を理解する人間だと、アリシャールは認識していた。

 しかしイザベルの言葉は嘘だとも思えない。なぜなら彼女の目には確かにフアナへの憎悪の感情が宿っていたからだ。肉親を殺されたことへの憎しみ。そしてそれ以上に強く感じるのが母を殺した姉への強い嫌悪感だ。生々しい負の感情。言葉で嘘は言えても、ここまで演技はできないだろう。

 何か訳があったのか――そうは考えたが、アリシャールは親を殺してもいい理由など思いつかなかった。彼にとって仲間、とくに家族は運命をともにすべき存在だからである。そして自分がここにいる今、自分の家族を守るのは彼女だという事実に不安を覚えた。親を殺した人間に、そんなことを任せて大丈夫なのだろうか。

 アリシャールが予想通りの反応をしたので、イザベルは満足げな表情を浮かべた。


「ふふ……機会があれば詳しく聞いてみればいいわ。……といっても明日あなたは死ぬのだけれど。じきにフアナもそちらに行くことになるから、大丈夫よ。地獄でゆっくり話せばいいわ」

「……俺は明日処刑されるのか」


 アリシャールはここに連れられてきてから、なにも話していないし、なにも話されていない。ひとまず今ここでは自分には害を加えるつもりがないらしいとこしか分かっていなかった。


「大異端審問ではすでに有罪の決まっている異端者達の判決が発表され、処刑される。でもそれって少しつまらないと思わない? だから、明日大異端審問の場であなたの裁判も行う。『英傑の血』をひくあなたはモーロ人の中でも有名だわ。英雄の裁判だったら盛り上がること間違いなしね」


 同時にこの上ない見せしめにできる、ということである。

 フアナはそうなることを見越していたに違いない。そしてアリシャールが捕まるようにわざわざ演技までして、仕向けた。そこからどうするつもりかまでは分からないが、フアナのことだからまだ何か策があるはずだ。そうでないと、自分がわざわざボルジアを連れてきた意味がない。


 もっともイザベルもそのくらいのことは想定しているが。


「フアナが何かしてくるんじゃないかって気になって、わざわざあなたのところまできたけれどもういいわ。ボルジア卿まで仲間にしたみたいだけれど、彼もこの国の中じゃ大してなにもできないでしょうし。それにあなた、なにも詳しいことを知らされてないんじゃない? わたしならあなたに詳しいことを話さない。裏切る心配はなさそうだけど、嘘は下手そうだものね」

「自信満々だな」


 そう返しながら、アリシャールは驚いていた。自分がなにも知らないことを察されたことにではない。イザベルはボルジアがフアナに協力していることを知っていることだ。

 アリシャールをとらえるために手を回したので、足がついたのだろう。そしてなぜわざわざそんなことをしたのか、気になってここまで来たに違いない。――もっともそれで自分が王位を退けられる心配はしていないようだが。


「だって負ける理由がないもの。この九年、小屋に幽閉されていただけのフアナと、女王として国を導いてきたわたし。経験が違うわ」

「確かにお前は女王として国を発展させてきた。モーロ人から国土を奪還して、アラゴンと同盟を結んで、カスティーリャの国力を強めた。モーロ人の俺からすれば最低の王でも、正教徒からすれば歴史に残る名君かもしれない。だがフアナは言っていた」

「フアナが?」


 その名前を聞いて、今までとは違いイザベルがアリシャールの話に興味を持った。たった一人の姉妹――九年幽閉しながらずっと殺さなかった彼女は、きっと彼女に特別な感情を持っている。きっと母を殺したということも含めて。


「彼女は言った。――お前がこの国を導くその道は、破滅の未来に続いていると」

「明日死ぬ人間が未来も心配なんかしなくていいわ」


 イザベルは露骨にいやそうな顔をした。姉の言葉は彼女の自尊心を傷つけたらしい。吐き捨てるようにイザベルは言い残し、牢の前から立ち去っていった。




 時間は少し遡る。

 アリシャールやフアナと分かれたエンマは、いつまでも帰ってこない二人に、気が気でなかった。アリシャールは本当に自分のことを信じてくれただろうか。それにフアナとはどんな話をしているのか。

痺れを切らしたエンマはこっそり家を飛び出して、二人を探した。しかし家の周りをいくら探しても、二人はいない。話をするためだけに、遠くに行くとは思えない。

 アリシャールは昨日のように、明日の大異端審問のために何かしているのかもしれない。しかしフアナが消えてしまったのは妙だ。正体が明るみになるのはまずいということも考えれば、アリシャールほど身軽に動けないはずなのだ。

 それでも家に帰らずどこかに向かう必要があったのか――なんとか知る術は無いか、周りを見ていると、道の端に座り込んでいる老人を見つけた。


 泥酔しきっているのか、それとも帰る家がないのか。彼は酒瓶を片手にうたた寝している。酔っ払いに話しかけるのは気が進まないが、今は他に手がかりがない。


「おじいさん、少し聞きたいことがあるんだけど――」


 すると寝ていた老人がはっと目を開けて、エンマを掴んだ。


「おお、デボラ! デボラか! よかった……ずっと会いたかったんじゃ」


 びっくりしたエンマは慌てて否定する。


「わたしはエンマよ。デボラって名前じゃない。さっきまでこの辺にいたはずの男を探してて……」

「そうか! 父を探しているのじゃな? セレスティノは、随分前に異端審問所に捕まってな……」

「あの、話を……」


 しかし、彼の声があまりにも悲しげなので、言葉を失った。


「セレスティノは本当に子供のころから勇敢で、正義感あふれる人間での。それがこんなことになって……お前にも寂しい思いをさせると思うと、本当に胸が痛いわ……だが、大丈夫。きっとすぐに帰ってくるさ」


 どうやら彼はエンマを自分の孫と勘違いしているらしい。そして息子のセレスティノは異端審問所に捕まったようだ。孫のデボラともしばらく会っていないような口ぶりだ。もしかしたら、自分と同じように施設に入れられているのかもしれない。

 その悲しみが彼を酒に走らせたのだろう。最初会ったときは彼のことをどうしようもない酔っ払いだと思ったが、今は同情せずにはいられなかった。


「おじいさん、安心して。もうすぐお父さんは帰ってくるから」


 気休めのような言葉だったが、フアナが女王になればそれも気休めではなくなる。

 ……そのフアナがどこに行ったか分からなくて、困っているんだけど。

 しかし彼は、エンマの言葉にほろほろと涙をこぼす。


「……おお、ありがとう。優しい子じゃ……お前も悲しいだろう。憎きはあの異端審問所のイヌどもじゃ。さっきも、わしのことを酔っ払いのクソジジイだとか何とか呼びやがって……」


 その言葉に、エンマは食いつくように問いただした。


「……さっき? おじいさん! さっきもここに異端審問所の警吏がいたの!」

「……そうじゃ。確か……モーロ人の男を連れて……」


 ……間違いない! アリシャールだ!

 信じられないが、異端審問所に彼は捕まったらしい。

 このタイミングで、ということに作為的なものを感じた。誰のたくらみかは分からないが。

 そして、気になるのはフアナのことである。


「ねぇ! 他に女は連れていかれなかった?」

「……いや、連れて行かれなかったよ。いやしかし後から歩いていくのを……見た……ような……」

「それでどっちに行ったか分かる? ……おじいさん?」


 そこでエンマは彼がまた居眠りをしていることに気がついた。もう十分話は聞けた。起こしてまで、また話を聞くこともないだろう。


「……おじいさん、風邪をひかないでね」


 そしてエンマはその場を立ち去った。



 女王の居住する都市であるトレドは、カスティーリャ国内でも比較的治安が良いほうだ。とはいえ、子供が一人で歩いて安全というわけでは決して無い。エンマが一人で歩くのに、いくら警戒してもしすぎることはなかった。出来るだけ目立たないように姿を隠しながら歩いて、人とすれ違うときも出来るだけ距離をとるようにした。

 都市の北側に異端審問にかけられる者が入れられる監獄があるという。監獄は市街地を出てしばらく行ったところにあった。エンマはそこまで来た。

 近くへ来たのはいいものの、監獄は高い塀で囲まれ小さな城砦のようだ。中の様子など分からない。エンマは修道院を抜け出したが、罪人を閉じ込めておくための場所は、それとは訳が違った。

 途方に暮れていると、人影が近づいてくるのが見えた。エンマは急いで身を隠し、様子を窺う。人数は二人。何か大きな荷物を運んでいる。

 目を凝らしてみれば、運んでいるのは棺桶だ。男達の話している声も聞こえてきた。


「……まったく、死んだ奴までわざわざ異端審問にかけるなんて……異端審問所の考えることは分からんな」

「おい、ここでそんなこというなよ……それに、お陰で俺達ゃ仕事貰ってるんだ。文句は言うもんじゃねぇぜ」


 そう言えば、異端審問ではすでに死んだ人間も裁かれ、火炙りにされるらしい。なんとも不思議なことだが、民衆への見せしめだろう。そして残された家族は、身内が異端として裁かれたという不名誉を背負わねばならない。


「さーて、ここまで来たはいいが、どこに行けばいいか……まさか外に置きっぱなしにするわけにもいかないからな。ちょっと中に行って聞いてくるか。お前はここでこれを見張ってな」

「いや、俺が聞いてくる。お前が見ててくれ」

「俺が行くっていってるだろう。なんだ、ここで一人で待ってるのが怖いのか?」

「まさか。お前こそ怖いんだろう」

「……」

「……」

「……二人で行くか」

「……ああ。まさかこんなもん盗むやつもいないだろうからな」


 彼らは二人で中へと入っていった。隙を見て棺に近づく。

 棺は真新しく、簡素な作りをしていた。蓋は釘で打ちつけられてはいない。それを見て、閃いた。

 ……この中に入れば、中に侵入できる。

 名案だったが、さすが抵抗があった。棺の中にはもちろん死体があるはずだ。

 しかし、ここまで来て後戻りは出来ない。ぐずぐずしていれば、棺桶を運んでいた男達も戻ってくるだろう。そしておそらく、この機会を逃せば中に入ることはできない。

 観念して、エンマは棺の蓋を開ける。


「え……」


 予想外のことに、中は空だった。

 どうやら彼の死体は行方知れずになったらしい。死後異端として告発される人間もいるらしいから、おかしいことではない。それでも大異端審問で裁くために、急遽わざわざ空の棺桶が用意されたのだ。

 つまりあの男達は空の棺桶に怯えていたということだ。だとしたら随分な臆病者だが、彼らはむしろこの監獄のほうに恐怖を抱いていたのかもしれない。

 暗い闇の中にそびえたつ古い建物。遠くから聞こえる罪人の悲鳴のような風の音。得もいえぬ、淀んだ空気を纏っている。不気味に思うのが普通だ。エンマはここまで来るまでにいろいろなことがありすぎて感覚が麻痺していたが。

 ともあれ先客がいないのであれば、躊躇う必要はない。エンマが棺桶の中に入ってしばらくすれば、男達は戻ってきた。


「よっと……おや、棺桶が重くなったか?」


 エンマはその言葉に、ひやりとした。いかにエンマが子供とはいえ、人一人の重さは誤魔化せないのだ。中を確認しようとでも言い出せば、一巻の終わりだ。エンマには息を殺して、思い過ごしだと思ってくれることを祈るしかない。


「中を見てみるか? ……俺達のいない間に、ここで死んだ罪人がこの中に入ったとかかもしんねぇ」

「……ばばばば、馬鹿なこというな!」

「びびってんじゃねえ。こんなとこまでわざわざこれを持ってきたんだ。俺も疲れて足が重いよ」

「そうだな、疲れてるから……だよな。棺桶の中を見るなんて、ごめんだぜ」


 納得したのか二人はそのまま歩き出した。棺桶の中でエンマは一人胸を撫で下ろしていた。

 少ししてから、棺桶に衝撃が走る。どうやら降ろされたらしい。


「こんなところに長居はごめんだぜ。……はやく帰るぞ」

「おうよ」


 そう言って彼らが部屋を出て行った。

 それを確認して、エンマはゆっくりと蓋を開け、外の様子を窺う。辺りは暗く、人の気配はない。そのことを確認してから、エンマは外へ出た。

 そこは殺風景な広めの部屋だった。そしてそこに明日の異端審問にかけられる者のうち、すでに死んだ者の棺が置かれている。数は十ほどか。


 男達が長居はごめんだと言っていたのも頷ける。さすがにエンマも恐ろしくなった。他の棺桶の中には、死んだ罪人の亡骸が収められていることだろう。皆異端として裁かれ、無念のうちに死んでいった者達だ。

 中身が分かるよう棺桶には罪人の名前が書かれた布がかけられている。エンマは自分が入っていた棺桶の布をかけ直す。そして何気なく、隣に置かれた棺桶に視線を遣った。


『セレスティノ・ベルモンテ』


 思い出したのは先ほどの老人のことだ。彼が言った息子の名前、確か――

 ……こんな偶然ってあるのかしら。

 自分を無事ここまで連れてきてくれた神様の、気まぐれな悪戯のように思えた。

すぐに帰ってくるさ、と言った彼は息子の死を知らない。きっと明日知って、ひどく悲しむことになるだろう。

 もたもたしている暇は無かったが、エンマはしばしの間彼に祈った。セレスティノの宗教は分からないが、きっと祈るという行為は万国共通だ。目を閉じ祈りながら、エンマは強く思った。

この悲しみを終わらせるために、自分は自分に出来ることをしなくてはいけない、と。

 偶然巡りあった死者の名前を胸に刻み付けて、彼女は部屋を後にした。

 彼女は暗い廊下を、忍び足で進んだ。

 見つかったときの言い訳は考えたが、間違いなく怪しまれる。エンマは曲がり角を曲がるたびに、顔を覗かせ警戒しながら進まなければならなかった。監獄の中は、まるで迷路のようで来た道を覚えるのも難しい。脱獄を防止するため、わざとそんな造りにしてあるのだろう。牢に閉じ込められてしまえば覚えていたところで、脱出できるというわけではないが。


 その時だ。背後から話し声が聞こえてくる。エンマは反射的に近くの扉に入った。中は物置だ。


「――まさかここに――イザベル女王が――」

「――……おい――本当――……こんな夜更けに――」

「――ああ、間違いないらしい……――」


 そんなことを話しているのが、扉越しで途切れ途切れに聞こえた。エンマは通り過ぎて行った男達の会話の内容が気になった。


 ……イザベル女王が――どうしたのかしら?

 まさかここに来ている? いや、そんなはずが無い。しかし先ほどの男達の騒然とした様子を見れば、何かがあるのは事実だろう。それに先ほどのように歩き回っている者がいれば、自分が見つかる危険も高まる。

 ここはひとまず安全そうだ。エンマはここで少し様子を窺うことにした。

 しかししばらく経っても誰も通らない。ここで夜を明かすわけにはいかないので、エンマは物置を出た。

 アリシャールの居場所は分からない。しらみつぶしに探すしかない。

 少し歩いた頃だった。曲がり角の先から、足音が聞こえてきた。慌てて隠れようとして、エンマは気がつく。周りに隠れるところが無い。


 案の定、足音の人物はエンマを見て足を止めた。


「……ちょっとそこのあなた。子供が一人、何をしているの」


 意外にもそう言ったのは女の声だった。振り返れば、立っていたのは二十歳くらいの女性だ。背格好は自分より少し大きい程度。目に付いたのは、上半身をすっぽり覆う外套に、王家の紋章が刺繍されていたことだ。

 ――まさか、イザベル女王?

 年頃は一致しているし、髪の色がフアナと同じだ。釣り目がちだが、顔立ちも似ているように思う。

 しかし今は彼女のことを確認する余裕はない。彼女は不審そうにこちらを見ている。とっさにエンマは言い訳をした。


「わたしはここで雑用係をしている者です! 明日の大異端審問のことを考えれば、目が冴えて眠れなくって! それで起きていたら、モーロ人の大悪人が捕まったっていうのを聞いていてもいられなくなったんです! 神に背いた異端の徒がどんな顔をしているのか、一目確かめたい思いが止められず、いても立ってもいられなくて……!」


 嘘をつくのは、フアナのようにはいかない。顔が引きつっているのが自分でも分かった。単に緊張しているように見られることを願った。

 幸いイザベルはエンマの言葉を特に疑わなかった。

「……いいわ。本来なら許されることでないけど、見逃してあげる。他の牢番に見つかったときのことは、知らないけれど。その大悪人ならこの先を進んで突き当たりを右、進んで左手の階段を下りてさらにまっすぐ行ったところよ」


 その態度は寛大というよりは、いちいちエンマのことに気を払うつもりがないようだ。彼の居場所も、気まぐれで教えただけだろう。


「はい! ありがとうございます!」


 エンマはそう言って深くお辞儀をする。そんな彼女を、イザベルは見下ろしている。


「ところであなた――好奇心は猫を殺す、というわ」

「あの……それは……」


 ぞくり、と肌が粟立つ。見れば彼女の目には、嗜虐的な光が宿っていた。アミナの家で忘れていた感覚が、思い起こされる。修道院でしばしば感じていた、不条理な暴力への恐怖だ。彼女から感じるそれはより根源的なものである。

 ――殺される?

 しかし、彼女は一言、


「モーロ人の大悪人に気をつけて……ね?」


 とだけ残して去っていった。


「は、はい!」


 彼女から逃げるように、エンマは言われたほうに向かって走った。

 進めば進むほど、この監獄の淀んだ空気が濃くなっていくように感じた。下りれば、牢屋が並んでいる。囚人たちは皆眠っており、時折呻き声のようなものも聞こえてくる。エンマは中を一つずつ確認していった。

 そして一番奥まで来て、ついに見つけた。


「……アリシャール!」


 彼は牢の奥でうずくまっていた。名前を呼ばれて顔を上げ、目を瞬いてエンマの顔を確認した。そしてこちらに近づいてくる。


「エンマ! なんでここに……」


 アリシャールが大声で驚いたので、エンマは慌てて自分の口に指を当てた。アリシャールも口を手で押さえる。二人は出来るだけ声を絞って話した。


「やっぱり! 捕まっていたのね」

「なんでお前がここに来たんだ!」

「……それは――」


 聞かれてエンマははっとした。自分はなぜわざわざここまで来たのだ。危険をいくつもかいくぐって、恐ろしい目にまであってだ。

 ……アリシャールが心配だったから?

 しかしその考えを、すぐに否定した。彼のためにそこまでする理由は無いはずだ。


「――フアナが何をしようとしているか、知りたくて。この国の行く末はわたしにとっても無関係じゃないもの」


 当然だが牢には鍵が掛けられている。周りを見ても、それらしきものは見当たらない。

 鉄格子を挟んで二人は話す。


「……彼女が何をしようとしているか、詳しくは知らない。しかし彼女はイザベルと大異端審問で対峙すると言っていた。俺はその手引きをしろと言われた」


 フアナは憤りを覚えた。アリシャール本人に詳しく話していないということもだが、これではもしものときにアリシャールは処刑されて、フアナだけが逃げることが出来ることが出来てしまう。


「……アリシャール、ここの鍵がどこにあるか知ってる?」

「それなら上の階に……待て、行くな! 危険だ!」


 アリシャールもエンマが何をしようとしているか、察したらしい。牢から離れていこうとするエンマの腕を、中から掴んだ。


「今更だわ。ここまで来るのも十分危険だった」

「そういう問題じゃないんだ」

「あなたは自分の意思でここに捕まったっていうの?」


 アリシャールは沈黙した。エンマはきっと自分が今日異端審問に立たされたときと同じなのだろうと思った。詳しく知らないまま、フアナの思惑通りにそうされたのだ。


「……信じてくれ、エンマ。きっと、こうすることが必要なんだ」


 どうするべきなのか、エンマは迷った。フアナを信じるべきか。そして彼の意思を尊重するべきか。しかしもし明日アリシャールが死ねば、一生後悔することになるだろう。あの時無理やりでも、彼を連れ出せば良かった、と。鍵を取ってきたら、自分を守って一緒に逃げることを彼なら選ぶだろう。


 考えた末、エンマは腕を掴んでいたアリシャールの手を振りほどいた。


「――フアナは信じない。でもあなたは信じる」


 その言葉を聞いて、アリシャールは安堵の笑みを浮かべた。


「ありがとう。エンマ」

「せっかく来たのに、無駄になったみたいね」


 ここに来て出来ることはない。そのことが決まった今でも、口でいうほどはそうは思っていなかった。アリシャールが自分に向ける信頼が心地よかったからかもしれない。

 だがアリシャールは首を横に振った。


「いや、そうでもない。無事に帰れたら――お前や母さんに頼みたいことがある。それを、伝えたい」


 ――気がつけば夜明けは近づいている。牢の小さな窓から明るくなっていく空が見えた。

 アリシャール、フアナ、イザベル、エンマ。そしてこの国に住むすべての人の命運を握る一日が始まろうとしていた。


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