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第三章 異端審問


 翌朝、目が覚めたエンマはアリシャールの姿が消えていることに気づいた。フアナに聞けば、彼には別の用を頼んだのだという。

 こんな時に姿を消したアリシャールに怒りを覚えた。自分を守るといったのは嘘だったのか。ましてや今、生みの母のアミナが危機に陥っているというのに。

 ……本当にわたしにアミナを助けろっていうの?

 しかし夜が明けた今でも、その方法がまるで分からない。

 しばらくすればやって来た警吏は、言葉通りにアミナを連れていった。子供達のなかにはそれを力ずくでも止めにいこうとした者もいたが、フアナはそれを制止した。下手をすれば彼らにも危害が及びかねないからだ。


 昼前にフアナは子供達を連れて広場まで来た。

 見上げれば、皮肉なほどよく晴れた空が頭上に広がっている。日の光のまぶしさに、エンマは目を細めた。落ち着こうと深呼吸すれば、乾いた空気が体の中に入ってきた。

 異端審問が始まるのは正午。すでに人が集まっており、正教徒だけではなくモーロ人とおぼしき姿も見える。ぴんと張り詰めた雰囲気に、皆自然と声を抑えていた。広場の中央にはアミナが立たされる台も組んであった。


 しばらくしてやってきたのは、異端審問官のロドリゴ・トルケマダだった。白髪交じりの髪に、あごひげを蓄えた初老の男だ。丈の長い上着には、ローマ正教会の三重の王冠の紋章が光っている。

モーロ人の子供達に気づいたのか、彼は少しこちらを見る。猛禽類を思わせる鋭い目に、冷たい光を宿している。その眼光にエンマは震え上がりそうになった。この男が何人ものモーロ人やヘブライ人を火刑台送りにしてきたのだ。

 思わずうつむくと、フアナがそっと彼女の肩に手を置いた。


「エンマ、敵から目をそらしてはいけません。よく、見るのです」

「……そんなこといっても……」


 そういってフアナのほうを見上げ、エンマはあることに気がつく。トルケマダに視線を送るフアナの青い目。その瞳孔が異常なまでに開いていたのだ。

 ……これが慧眼?

 ならば、彼女の目にはいったい何が映っているのだろう。同じようにトルケマダを見てみたが、彼の弱点どころか今何を思っているかも分からなかった。

 その時だった。


「エンマ、ここにいたのか」


 背後から掛けられた声に、エンマは時間が止まったかと思った。恐怖とともに記憶された、その声は――


「あなたは昨日の……ルイス神父様ですね」


 フアナはエンマを庇うように前へ進み出た。

 ルイス神父は日の下で見ても顔色が悪い。その表情は感情の起伏に乏しい。エンマを見てはいたが、何を思っているか読み取れなかった。


「……修道院に戻るぞ」

「待ってください、今からアミナの異端審問が始まるところです」

「わたし達には関係ないことだ」

「そうでしょうか。下手をすれば異端審問所からの信頼を失いますよ……彼女もこの異端審問に無関係ではないのですから」


 それはどういう意味なのか――聞こうと思ったその時、ちょうど警吏に連れられてアミナが来た。家を出て数時間しか経っていないはずだが、彼女はひどく疲れて見える。見る限りでは外傷がないのがせめてもの救いだ。台の上にたたされた彼女は、黙ってトルケマダをにらんでいる。

 ルイスはいやいやながら、エンマをすぐに連れ戻すのは諦めたようだ。黙って異端審問を見守っている。


「静粛に! ただいまよりアミナ・アルレオラの異端審問を開始する!」


 警吏のがなり声が響き、聴衆はみな口を閉ざす。彼は手に持っていた書状を広げた。


「まずは彼女にかけられている疑いについて。第一に。彼女はモーロ人の子供を集めて、異教の教えを広めた。アミナ・アルレオラ、それに関してはなにかあるか?」


 警吏の言葉に、アミナは努めて冷静に返した。おそらくそうするようにフアナが言ったのだろう。


「事実確認を求めます。わたしはそんなことをしてはいません。わたしは正教に改宗して以来、毎週教会に通っています。それを目撃した者こそいても、私が異教の教えを広めたことなど証言できる者はいないでしょう。それとも子供達の証言をしてもらいましょうか?」


 アミナが子供達のほうに目をやった。子供達の、何があってもアミナをかばうとでも言いたげな表情に、警吏は顔をしかめた。


「……無意味でしょう。すでに彼女は子供達の心を掌握しているでしょうから。彼女の狡猾である点は、表向きは正教徒として振る舞いながらも、異教の教えを持ち続けた点です。しかし彼女の正教徒としての信仰が偽りであったことは、彼女が異端として疑われる第二の理由によって明確に示されます」


 警吏は咳払いを一つすると、威圧的な声で言った。


「第二に。彼女は修道院から逃走したヘブライ人の子供を匿った。これは紛れもない正教会への反逆で、証拠もあります!」


 そう言って警吏はエンマを指さした。

 ここでエンマは初めて、自分がここに来たことを後悔した。自分さえいなければ、これも証拠がないといえたかもしれないのに。


「……たとえ証拠がなくても、無罪の証拠がなければ有罪にされるでしょう。逃げるのでは勝てません。戦うのです」


 エンマの隣のフアナが、エンマの後悔を見透かすように言った。

 返すアミナの声はやはり冷静そのものだった。


「それについても事実確認を求めます。この場で彼女にそれが事実か否か証言させてください」

「その必要は――」

「……許可しよう」


 トルケマダの低い声が響く。その言葉が予想外で警吏は目を見開いていた。だが一番驚いていたのはエンマだった。

 ……自分が証言する?

 戸惑っていると、警吏が大股で歩いてきた。荒々しくエンマの腕をつかむと、前に引っ張っていく。

 トルケマダの前に立ち、人々の視線を一身に受けて、エンマは足の震えが止まらなかった。

 エンマは混乱していた。事実を伝えればアミナは有罪だ。しかし嘘も思いつかない。自分の見た目では、自分はヘブライ人ではなくてモーロ人だといったところで、すぐ嘘だとばれるだろう。ルイス神父もきっとそう証言する。しかしほかになんと言えばいいのか。考えても思いつかない。


「証言しろ」


 前を向けば、トルケマダがこちらをにらんでいた。その瞬間、頭の中が真っ白になる。そして直感した。

 今の自分に嘘などつけないと。


「……わたしはヘブライ人で、修道院から逃走したところをアミナに匿われた……それは……間違いありません」


 気がつけば、口がそう動いていた。横にいた警吏が満足そうな顔をした。


「この娘の証言をききましたか? アミナは間違いなく正教会に背いたのです」


 それで話を終わりにしようとする警吏。しかし、エンマはそれに喰らいついた。


「……ですが、彼女は私の命の恩人です!」


 嘘などつけない。だったら事実を語るしかない。他にできることはないのだ。だからエンマは声を張り上げた。


「わたしはヘブライ人の商人の家に生まれました。ヘブライ人がカスティーリャより追放されるとき、わたしは無理矢理正教徒の聖職者の手によって両親と引き離されました。連れていかれた修道院は――」

「黙れ! それ以上しゃべるな」


 警吏がつかみかかり、エンマを止めようとする。エンマはその手の肉を噛み切らんばかりの勢いで思いきり噛んだ。喉の奥から悲鳴を漏らして、痛みにもだえる警吏の腕からぬけだし、エンマはまくし立てるように続けた。


「そこは地獄でした。わたしのようなヘブライ人の子供が集められたそこでは、神への奉仕作業と称して働かされました。朝から晩まで聖職者の監視のもとで働いて、与えられるのは不味いスープ一杯と硬いパン一切れ。聖職者たちは三食豪華な食事をとっているのにです。ヘブライ教のことはもちろん、修道院に来る前のことを語ることさえ禁じられました。少しでも反抗的な態度をとれば罰せられます。厳しい体罰の末、命を落とした子もいます。たとえ大人になって修道院から出られるとしても、安い金で奴隷のように売られることが決められています。そこでは誰もが希望を失い生きていました。心や体を壊した子も大勢います」


 ルイス神父の射るような視線がこちらに向けられている。こんなことを言ったら、たとえアミナを救えても、ただでは済まされないだろう。しかし一度口から出た言葉は戻らない。もう後戻りは出来なかった。


「……わたしもその子達も、元は普通の子供でした。ヘブライ人の子として生まれた。その事以外は。何も悪いことはしていない。それなのに、どうして……こんなに、苦しまないといけないのでしょう。私たちは……苦しむために生まれてきたんじゃないわ!」


 その時、エンマの顔の右半分に衝撃が走った。警吏がエンマを殴ったのだ。その勢いに、エンマの軽い体は吹き飛び、彼女は地に膝をついた。


「この小娘め、身の程も知らずに……」


 彼が悪態をつくのが遠くのことのように聞こえた。痛みでそれどころではない。口の中に血の味が広がる。鼻からも血が流れ出ていた。


 トルケマダは冷たく言い放った。


「なぜ自分が苦しまなければならないのかといったな。それはお前がヘブライ人として生まれたからだ。ヘブライ人は神を欺いた民族。この世に生まれるより前から決まっているのだ。お前には呪われた血が流れている」


 生まれる前から決められている。

 ……だったらどうすることもできないじゃない。

 頬の苦痛以上に精神的にうちひしがれて、エンマは力なくうなだれた。

 周りから憐憫のまなざしが向けられているのが分かる。同時にこうはなりたくないという思いも伝わってきた。


 きっとトルケマダは見せしめにするために自分の証言を許可したのだ。自分はまんまと利用されて終わった。

 ……もうどうすることもできないんだろうか。

 これ以上何かを言う気力も持てず、エンマは目を閉じた。アミナが処刑されるという事実。自分が修道院に連れ戻され、厳しい罰を受けるという事実。それらの現実から逃れたかった。

 思い出すのは昨日見た夢。あのころに戻れたらどんなに幸せだろう。優しい両親には今はもう夢の中でしか会えない。でも諦めがついた。

 フアナは奪われたものは取り返せといった。しかし自分にはその力がないことは、身も心も痛いほど分かった。

 ……そういえば、フアナはどうして自分はアミナを助けられるなんてことを言ったんだろう。

 沈んだ心の端で、エンマはふと疑問がよぎる。

 彼女の〈慧眼〉は何をみたのか。フアナはアミナのことは本気で助けようとしたはずだ。アミナが処刑されれば、アリシャールの信頼を失う。ということは彼女には何らかの思惑があったはず。でもそれは結局分からず仕舞いだ。


「敵をよく見なさい」


 脳裏をよぎる言葉。エンマは無意識のうちにそれに従っていた。定まらない視界。警吏、そしてトルケマダの姿をとらえる。

 その瞬間だった。

 夢と現実が交差する。


「………………!」


 切れた唇から漏れる、声にならない絶叫。真実はそれほど衝撃的だった。痛みも悲しみも、なにもかも吹き飛んでいた。

 ……どうして気づかなかったんだろう。

 それは昨日の夢の中のその人物が、今とは打って変わって笑顔を浮かべていたからだ。


「あ、あなた……ヘブライ人……ね……!」


 ――ロドリゴ・トルケマダは父の、ヘブライ人の友人だった。

 エンマが事実を口にしたとき、広場に集まった人々の間に動揺が走った。

 なんということだと驚く者。そんなはずないだろうと疑う者。反応は様々だ。しかしトルケマダはいつまでたっても口を閉ざしたまま否定しないので、多くの者がエンマの言葉を信じ始める。

 ただ一人、フアナだけが最初からすべて知っていたかのようなほほえみを浮かべたままだった。 


「……ねぇ、どうして?」


 エンマには理解できなかった。ヘブライ人として生まれた彼が、どうして同胞を処刑したりできるのだろう。

 アミナは眉をゆがめてトルケマダを糾弾した。


「それが本当なら……あんたは最悪だね! ヘブライ人だろうが正教徒だろうが……同胞を裏切る奴は最低だ!」


 警吏はその事実を知らなかったのか、慌てふためいていた。しかし周りを見渡し、このままでは異端審問の信頼に関わると思ったのだろう。


「トルケマダ様! ここは一度異端審問を解散しましょう!」


 そしてついにトルケマダ本人が、口を開く。


「静かに」


 その一言で、騒いでいた聴衆も、アミナも、警吏も口を閉ざした。沈黙に支配された広場に、トルケマダの低い声が響く。


「それが事実であるかどうかは問題ではない。私が何者であろうと、わたしがローマ正教会の許可を受けて異端を裁いていることには変わりないのだから。私に逆らうというのなら、それはローマ教会への反逆だ。それでも物申したいという者がいるなら、遠慮なく言うがいい」


 彼はローマ教会の三重の王冠の紋章を見せつけるように言った。先ほどまで騒いでいた者も、何もいわない。トルケマダの威圧感に押されて何もいえないのだ。一度はアミナ達に有利に変わり始めていた流れが、戻り始めていた。

 黙したままの聴衆を見渡し、彼は言った。


「判決を下す。アミナ・アルレオラは火炙りの刑に処す。ヘブライ人の娘は元いた修道院に戻り、しかるべき罰を受けること」


 ――今度こそ、本当にどうにもできなかった。

 エンマはそのことを悟った。もうこれ以上、なにかできる気がしない。すべてを諦観して、エンマは顔を伏せる。

 その時だった。遠くから馬のいななき声とひずめの音が聞こえてきたのだ。

 そちらを見る。すると人波をかき分け、栗色の美しい毛並みをもつ馬が広場に躍り出た。馬にまたがるのは、美しい青年だった。金色の髪をなびかせ、彼は馬を進める。ローマ正教会の紋章が腕にきらめいている。


「そこまでだ!」


 青年はよく通る声で言った。


「わたしの名前は、テルネロ・ボルジア。ローマ教皇シクトゥス四世よりカスティーリャに遣わされた使者だ。この異端審問はその正当性に疑いがかけられている。ローマ正教会の名おいて、この異端審問の解散と下された判決を無効化することを命ずる!」


 エンマは夢でも見ているようは気持ちで、青年の横顔に見とれていた。

 働かない頭。でもこれだけは分かった。

 ――自分達は助かったのだ。


「エンマ! 大丈夫か!」


 人をかき分け、こちらに駆け寄る者がいた。アリシャールだ。顔を隠すように頭布を巻いている。

 彼はエンマの前でしゃがむと、肩に手をおいて心配そうにこちらをのぞき込んできた。そして優しく顔に触れる。


「ひどい怪我だ。助けられなくて……本当にすまない……」

「ぁ……あの…………」


 何か言おうと、エンマは口を開いた。言いたいことあるはずだった。どうして母親を置いてどこかに行ったのか。フアナのことを信頼したのか。しかし言葉にならない。

 そんな彼女に、アリシャールは微笑んだ。


「ありがとう、エンマ。ありがとう。よくがんばったね」


 その瞬間、エンマは奥底から何かがこみ上げてくるのを感じた。アミナが火刑を逃れたこと。自分も助けられたこと。仲間を裏切ったトルケマダへのこと。フアナのこと。アリシャールのこと。様々な気持ちが混濁し、自分でもなにがなんなのか分からない。それらは両目から大きな雫になってこぼれ落ちた。

 アリシャールは服が汚れるのも気にせず、エンマを抱きしめた。エンマはアリシャールの腕の中で、嗚咽を漏らしながら体をふるわせ泣き続けた。



 エンマを救った青年、テルネロ・ボルジア。

 彼がアリシャールと出会ったのは、トレドから東に行った平原だった。

 ボルジア卿は長い旅路に退屈していた。特に山脈を越えイスパニア半島に入ってから続く、岩と潅木ばかりの荒野にはがっかりさせられた。道の状態も悪く、ローマから乗ってきた馬車を無骨な大きな馬車に乗り換えなければならなかったし、何より見ていて退屈だ。ボルジアは一人、馬車に揺られながら溜息をついた。


 ――教皇の命でなければ、わざわざこんなところに足を運ばないのだが。

 こんな辺境にまで本当に正教の正しい教えが及んでいるのか。それすら疑問になる。この国の人間の言葉や服装も、彼には粗暴に思えた。

 その時、馬車が止まった。


「……なんだ、また羊か?」


 この国では牧羊が盛んだ。イスパニアの高級羊毛は確かに、ローマでも有名である。国も農業より牧畜を推奨し、羊毛の商業組合が絶大な力を持っているという。

 旅の途中に見た平原に広がる羊の群れをみたが、美しいものだった。とはいえ、羊の群れが道を横切るたびに馬車が止まるのには、馬鹿にされているような気持ちになった。

 しかし今回は様子が違う。外から何かがぶつかるような音。そして悲鳴。ボルジア卿は馬車の小さな窓からそっと外を見た。

 するとそこに見えたのは、馬車を取り囲む男達だ。粗暴な服装、凶悪な顔つき、そして手に持った武器――一目でならず者だと分かる。金目のものを目当てにこの馬車を襲ったのだ。

 ローマ正教会の護衛ともあろう者達が、このような者達に遅れをとるとは情けないものだ。しかし、あまりにも敵の数が多かった。

ボルジア卿は気がついていなかったが、彼らは元モーロ人や元ヘブライ人の盗賊だった。正教会の枢機卿がカスティーリャに来ることを聞きつけた彼らは、その人物を誘拐する計画を立てた。ここにいるのは複数の盗賊団から集められた者達だった。


「しまったな、完全に囲まれている」


 本当に最悪な旅路だ、と彼は悪態をついた。


「出て来い! テルネロ・ボルジア卿! さもなくばお前の命はないぞ!」


 仕方が無く、彼は馬車を出る。すると男達はボルジアに剣や槍を向ける。地面には護衛兵が血を流して倒れていた。さすがにボルジアも恐ろしくなる。

 それを見て正面にいた男は、黄ばんだ歯を出して笑った。


「大人しくしていたら命はうばわねぇ……今はな」


 ……こんな奴らに従うしかないのか。

 その時、右側にいた、頭布で顔を隠した青年がボルジアに近づいた。彼はボルジア卿にしか聞こえない声で言った。


「……ボルジア卿、馬は乗れますか」

「……! ……ああ」

「そこにいる馬に乗って、そのままトレドのほうに逃げてください。何があってもまっすぐ逃げる、というのを約束してくれるなら、あなたの身の安全は保証します」


 ボルジアは僅かに頷いた。危険はあるが、ならず者に捕まる屈辱よりはマシだ。

 言われた通りに、ボルジア卿は馬に向かった。それを見た盗賊が襲おうとしたのが分かる。青年がその剣を受け止めたようだが、彼を見ている暇は無い。馬に跨ると、言われたとおりトレドめがけて走り出した。

 次々と襲い掛かる盗賊達。ボルジア卿は走ることを躊躇いそうになるが、青年のまっすぐ逃げろという言葉を思い出し、直進する。

 その時だった。炎の壁が、ボルジアから彼らを守ったのだ。分厚い炎でないので槍などなら突き抜けて襲ってきそうだ。しかし、そんなものを見れば誰だって驚いて攻撃をやめる。ボルジアには何が起こったかよく分からないが、チャンスだった。彼はそのまま一目散に逃げた。

 やがて、彼らの姿が見えなくなる。追ってもいない。ボルジアは誰も居ない平原を、道なりに、ひたすら馬を走らせた。

 しばらくして先ほどの青年が追いついて来た。あの男達をどうやってまいたのか分からないが、彼には傷一つない。

 彼は外見から生粋の正教徒ではないことは分かった。しかし先ほど自分を逃がした彼の手並み、そして凛々しい顔立ちに、ボルジア卿は彼を疑わなかった。平原を馬で駆けながら、彼はすがすがしい気持ちでいっぱいだった。


「礼を言おう。君が居なければ死ぬところだった。名前は?」

「アリシャールといいます。しかし礼には及びません」

「わたしは嬉しい。この国にも君のように正義感のある、勇気を持った青年がいるのだな」

「……ボルジア卿にそう言われるのは光栄です」


 しかし、そう言いながらアリシャールの心中は複雑だった。盗賊達がいなければ、アリシャールが彼を誘拐しようとしていたからだ。盗賊達の存在を知り、彼らの襲撃に紛れてボルジア卿を連れ出すことに決めたに過ぎなかった。

 そうとも知らず、彼はアリシャールを信じた。そして母を救ってほしいという彼の願いに応えたのだ。



 そして結局、異端審問は中止になり、フアナ達は家に帰っていった。スミス神父もテルネロ・ボルジアを教会まで案内する役目を任されてしまい、エンマを連れて帰るどころの話ではなくなった。それでエンマも今日のところは一緒に帰ることが出来たのだ。

 アミナの周りに集まり喜びを分かちあう子供達。しかし、エンマは一人怖い目をしている。その視線の先にフアナ。彼女もそれに気がついて、わざとらしく困ったような顔をした。


「どうしたのですか。さっきまであんなに泣いていたのに。……もしかして、殴られたことを怒っているんですか? それに関しては予想しきれなかったわたしの責任でもあります。どうか謝らせてください」


 エンマは首を横に振った。確かにまだ顔の半分は腫れて痛みはひかないが、今は自分のことなどどうでもよかった。


「こんな怪我のことはどうでもいい。私が言いたいのはもしアミナが火炙りにさせられていたらどうするつもりだったのかっていうことよ。あなたはトルケマダが……ヘブライ人だって知ってたの?」

「ええ。これでも王女でしたから、トレドの有力者のことはある程度知っていますし、面識もありました。彼の名前を聞いたときに、トルケマダはヘブライ人でありなら同胞を裏切り、そのことを周りに示すために異教徒を裁き続けていることを察したのです。過去に彼と会ったとき、まだ幼かったあなたが気づかなかったのは仕方ないですが」

「……どうして前もって言ってくれなかったの」


 おかげでエンマは不安で不安で仕方がなかった。そしてトルケマダがヘブライ人だと気づいた衝撃は、相当のものだった。


「トルケマダはヘブライ人だと告発するときのあなたは、なかなかの気迫でしたよ。もとから知っていたらそうはいかなかったでしょう。ただ彼がヘブライ人だと言うだけなら、それはあなたである必要はなかったのです」

「でもそれでトルケマダの判決は変えられなかった。運良くアリシャール達が駆けつけなかったら、やはりアミナは処刑されていたわ」

「そのときは私が民衆を扇動して、判決を覆させるつもりでした。トルケマダがヘブライ人だったという人々の心理を考えれば不可能ではないでしょう」

「……」


 フアナがなにを言っても平気な顔で返してくるので、エンマは何と言っていいか分からなかった。

 エンマには結果として自分やアミナが助かったんだからよかった、と事を済ませることは出来なかった。むしろともにイザベルに立ち向かうのは、これからだ。フアナは信頼に足る人物か。まだ見極められない。

 エンマに微笑みかけるフアナ。その内側には何か秘めているようだった。それがよいものものなのか、悪いものなのかエンマには判断ができない。

 気になることはまだある。あのとき現れた美しい青年――テルネロ・ボルジアのことだ。彼がローマ正教会の使者であるのは間違いないらしい。わざわざ連れてきたということは協力者なのだろう。ではなぜローマ正教会に所属する彼が、自分達異教徒に協力してくれるのだろう。

 フアナは、「それはアリシャールが帰ってきたら話しますよ」と言った。

 アリシャールは日が沈んでから、テルネロ・ボルジアを伴って戻ってきた。

 エンマは、アミナを救った美しい青年が、こんなさびれた貧民街にいることが信じられなかった。彼はいつもエンマ達が食事をとる食卓についている。よく通る声で、自らの名を名乗り、自分がローマ教会の枢機卿であることを述べた。呆然と彼に見とれるエンマとは違い、アミナは困惑した表情を浮かべていた。


「まずは助けたお礼を言いたいけれど……」

「礼には及ばない。私は正教の教えを振りかざし、間違った行いをする者を正しただけだ」


 そう、ボルジアは生真面目そうな顔を崩さない。


「どういう意味だい?」

「本来異端審問は神聖なものだ。世俗の権力によって政治の道具に使うことは許されない。そもそも正教の中の異端を裁くのが異端審問だ。異教徒に改宗を強制するのも、それを異端とするのも、まっとうな正教徒のすることではない」

「じゃあ……だったら、どうして、ローマ正教会はカスティーリャやアラゴンに異端審問所を設置することを許可したの?」


 エンマの疑問に、ボルジアは形のよい眉を歪めた。


「それは……」

「政治の道具として利用された。そうですね、ボルジア卿」


 フアナの言葉に彼は黙ってうなずいた。まだ理解できないエンマに、フアナは教えた。


「アラゴン王国の地理的条件が関係しています。アラゴン王国は地中海に領海権を持っています。ここは回教諸国がローマの教皇領に攻め込む時の要所です。これこそ、イザベルがローマ教会に異端審問所設置の交渉に使った切り札です。そもそも異端審問において、ローマ正教会の権威が及ばないということが例外的なのです。アラゴン王国の領海権を巡って、取り決めがあったのでしょう?」

「……ローマ正教会と回教諸国の対立なんて、カスティーリャで暮らすモーロ人やヘブライ人には関係ないけどね」


 アミナはボルジアに批判めいた目を向けていた。正確にはローマ正教会に対してである。


「……シクトゥクス四世もそのことで心を痛めておられる」

「でしょうね。このままでは、シクトゥクス四世はイザベルの横暴を許した愚鈍な教皇として名を残すことになります」


 フアナの挑発的な言葉に、ボルジアは悔しそうに唇を噛みしめている。

 きっと彼は心の底から信仰を重んじ、教皇を敬愛しているのだろう。それらがイザベルの政治に利用されているのは耐えられないに違いない。

 そう分かって、フアナはにやりと笑った。


「私がこの国の女王となった時には、異端審問所を廃止することを約束します。異教徒を暴力で改宗させるようなことはしない。正しい形の信仰を取り戻しましょう」


 その言葉にボルジアは戸惑っているようだった。

 アリシャールに連れられてきた時点で、フアナが本物の王位後継者であることは理解しているだろう。フアナの言う事が口だけではないことも。

 しかし彼はまだ決めかねているようだ。教皇に命じられたことにただ従うか。それとも、それに反してでも教会を守るための行動をとるか。二つの選択肢の間で彼は揺れ動いていた。


「……わたしは明日の大異端審問の立会人としてカスティーリャにきた。それは教皇の意志だ。――今日のようなことは、さすがに明日ほどの規模の異端審問ではできない。表立ってはおまえをかばうことは出来ないだろう。あなたが本物の女王として認められるという保証はどこにもないのに、ここであなたの味方になるとは言えない」

「それでも結構です。あなたの立場に危険が及ばない範囲で、味方をしてください。――わたしはあなたにお願いしたいことがあります。正教会の威厳を守るために何をすべきか、あなたなら分かるはずです」


 考えた末、ボルジアはゆっくりとうなずいた。


「……分かった」


 アリシャール達はその言葉に思わず安堵の表情を浮かべた。

 条件付きとはいえ、正教会の使者から協力を得られるのだ。女王イザベルと敵対するには圧倒的に不利な立場だった彼らには、これは大きかった。ボルジアは正直な青年だ。信頼できる協力者である。

 無茶だと思えたイザベルから王位を取り戻す計画も、少しずつ光明が見え始めている。誰もがそんな気持ちだった。

 他の者とは違い、危惧を抱く者がいた。エンマだけが暗い目ではなしの成り行きを見守っていた。


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