第二章 ヘブライ人の少女
子供達を寝かせた後、アリシャール、フアナ、アミナの三人で今後の事を話し合う事にした。
まずはフアナをここに連れてくるまでの経緯を話した。イザベルとフアナ殺害の取引をしたこと。フアナにそれを見抜かれ、彼女に協力することを決めたこと。そして、いかにイザベルから王位を取り戻すかについて話し合った。
彼女は今やイスパニア半島一番の権力者だ。カスティーリャ王国はもちろん、アラゴン王フェルナンドとの婚姻により、その力は隣国にまで及ぶ。
「半島に残るモーロ人やヘブライ人が力を合わせて反乱を起こすというのはどうだい? みんなイザベル女王に不満を募らせている」
アミナの提案にアリシャールは首を横に振った。
「この三年間、カスティーリャに残ったモーロ人を見てきた。だがどこも同じだ。残ったのは老人や子供で、貧しい。まともな戦力にはならないだろう。それに結束すればカスティーリャ軍を敵に回す。そうなればひとたまりもない」
イザベルは軍事力の強化に力を入れている。そんなカスティーリャの軍隊は素人に太刀打ちできるものではない。
「軍と対立する必要はないのです。わたしがカスティーリャ王になればよいのですから。そして正統な王位継承者はわたしなのです。――とはいえ、イザベルのところに丸腰で乗り込んでも、また監禁されるか、偽物だと言われて最悪処刑されるでしょう。なによりわたしは狂女王なんて言われてるみたいですからね。だれもわたしを王だと認めはしないでしょう」
フアナが発狂したという話は、この国の者なら誰もが知っているし、国外にも知れ渡っている。モーロ人やヘブライ人にとってはともかく、正教徒にとってイザベルは、回教徒に奪われた国土を取り戻した名君だ。正式なかたちでは王でないのに女王を名乗ることが許されているのは、そのような経緯がある。
王位を取り戻すだけではいけない。その後、モーロ人にとって安心してもらう国を作らねばならない。そのためには名前だけの王になって、発言力が伴わないのでは意味が無い。多くの貴族、民衆の同意が必要だ。
「こういうのはどうでしょう。イザベルが国民の前に出るような機会に私が姿を現す。そこで私は狂っているというのはイザベルの虚言であること、私が王になればイザベルよりすばらしい国を作れることを説くのです。民がそれに同意すれば、イザベルは私に王位を返上しないわけにはいかなくなります」
そう上手くいかないだろう、とアリシャールは思う。フアナはイザベルのことを侮っているように感じられた。
イザベルはフアナの妹だから、当然詳しくは知っているだろう。しかし、フアナが知っているのは九年前の、女王と呼ばれる前のイザベルだ。
「彼女はそんな甘い相手じゃない」
フアナ殺害の取引を持ちかけられた時、アリシャールは彼女に会った。それは一週間前のことだ。
彼はカスティーリャのモーロ人達に結束し、イザベル女王の圧政に反抗しようと呼びかけていた。しかし彼らの反応は芳しくない。このままでは自分達の子孫もカスティーリャで生きていけない、そう訴えても彼らは変わらなかった。それもある意味で、仕方がないことだった。
モーロ人追放命令が下った折も、彼らは反乱を起こした。しかしそれは瞬く間にカスティーリャ軍に鎮圧され、正教徒にモーロ人を迫害する大義名分を与える結果になった。その時、正教徒は反旗を翻したモーロ人を徹底的に殲滅したという。戦場となった山では、モーロ人の血が川を作り、洞窟に逃げ込んだ者は蒸し焼きにされて殺されたという。その話は、モーロ人の心に根深い恐怖を植え付けた。
「私たちにできるのは正教徒に同化するか、この国を逃れるかのどちらかだけだ」
そういう彼らに、アリシャールはなにも言えなかった。多くの者が諦めていた。しかしアリシャールも、自分達がカスティーリャ軍に打ち勝つための、有効な策は持っていなかった。
彼は自分ができることに限界を感じ始めていた。自分に流れる『英傑の血』――それこそ半島に残されたモーロ人が、再び日の目を見るために、神が自分に与えた力だと思っていた。しかし、今はその神さえ信じる者が消えようとしている。暴力は信仰までも奪うのだ。
イザベルが訪ねてきたのはそんな時だった。
アリシャールはトレドの安宿に滞在していた。彼女がやってきたのは、夜が更けてからだった。古びた宿屋の前に似つかわしくない豪奢な黒塗りの馬車が止まる。馬のひずめの音で目を覚ましたアリシャールは、中からイザベルが出てくるのを見た。小柄な女性だった。後ろにいる大柄な護衛の男に、片手で抱えられてしまいそうなほどだ。
彼女はフアナ殺害を条件に、今カスティーリャいるモーロ人の生活を保障するといった。彼女の態度は高慢で、だが堂々としたものだった。護衛は一人しか連れていないのに、自分を恐れる様子もない。
「彼女には間違いなく王の素質といえるものがあった」
だからアリシャールはフアナの元に向かったのだ。
「ですが、イザベルがわたしを恐れているのも事実。そうでなければ、なぜ彼女は今頃になってあなたを差し向けたというのでしょうか。……きっとわたしが自分に復讐してくるのではという恐怖を拭えなかったのでしょうね。わたしを幽閉して九年の時が経ったというのに」
「……だが」
「侮るべきでない相手だというなら、いっそう早く手を打つべきです。彼女はわたしが生きていることを予想しているかもしれません。それに『英傑の血』を持つモーロ人がいると知れば、なきものにしようとするかもしれません。そうなれば危険が及ぶのはあなただけではありませんよ」
アリシャールははっと母のほうを見た。表向きは縁を切ったことになっても、親子の情まで捨てきれないことなど見抜かれるだろう。
……母に危機が迫っている――どうする?
誰かにかくまってもらうか? 国を逃げるか? できるはずがない。アミナだけならともかく、子供たちはどうするのか。
「なるほどね。毒をくらわば皿までって気持ちでアリシャールに協力できるってわけだ」
アミナは剛胆に笑いながら言った。自分の母親ながら肝の据わった人だ、と思う。不安はないわけではないだろう。しかし前向きさで克服している。
「イザベルを侮る気持ちはありませんよ。国の大部分を占める正教徒に支持され、女王としてこの国をよく治めて来たのは事実です。しかし恐れるつもりはありません。彼女と戦うためには舞台をそろえる必要があります」
「舞台……」
アリシャールは少し考える。思い当たる節が一つあった。
「明後日、大規模な異端審問がある。カスティーリャ王イザベルとアラゴン王フェルナンドの婚姻――つまり連合王国の成立七周年を記念してだ。何十人ものモーロ人やヘブライ人が裁かれ、火刑台送りにされるだろう。正教徒はもちろん、モーロ人もたくさん集まる。イザベルとフェルナンドも出席するらしい」
「異端審問? そんなものがあるのですか?」
改宗の命がくだったとき、表向きは改宗しながらも、従来通りの信仰を持ち続けるものが多くいた。それを裁くために設置されたのが、異端審問所だ。
正教に反する教えを広めたり、書物を書いたりすることはもちろん、ほんのちょっとした立ち振る舞いや発言でも異端として扱われた。一度でも密告されれば、異端審問所に捕まるので、人々はいつどこで自分の言動や行動が見られているか分からないと怯えなければならなかった。嘘の証言ももとに裁かれて冤罪で罰せられることもある。王族や貴族が自分にとって不都合な人間を消すためにも使われているという噂だ。
裁判の末、異端であるとされれば、改心した場合は絞殺ののち、そうでなければ生きたまま火炙りにされる。財産は没収され、住んでいた家まで取り壊されるという念の入れようだ。無実であると認められたとしても、世間からは『一度異端審問にかけられた者』として白い目を向けられた。自白を引き出すために、おそろしい拷問にかけられ、その結果死ぬこともある。
異端審問所はカスティーリャのモーロ人やヘブライ人にとって恐怖の対象だった。
「……教皇は今もシクストゥス四世ですか? 彼は異端審問所の設置を許可したんですか?」
「ああ。ローマ正教会の認可を受けた組織だから、強大な権力を有している」
ローマ正教会は、正教会の総本山だ。正教諸国全体にその権力は及び、その頂点に立つ教皇の命令とあらば、王さえ従わねばならぬことがあるほどだ。
「……そうですか」
フアナは顎に手を当てて考えていた。
「気になることでもあるのか」
「そうですね。なぜローマ正教会は……」
その時だ。乱暴に戸を叩く音が響きわたる。こんな深夜に、ただ事ではなかった。
「あんたたち二人は奥に隠れなさい」
アミナの緊迫した声に二人は無言でうなずいた。
子供たちの寝る部屋に来た二人は、戸の隙間から様子を窺う。アミナが戸を開くと、いかめしい顔の男が立っていた。
男は黒い制服に身を包んでいる。それは異端審問所の警吏の制服だ。同じ制服の部下を数人引き連れていた。
男は書状を突きだして、相手を威圧するような声で言った。
「アミナ・アルレオラ。お前に異端の疑いがかけられている」
「異端だって? あたしがなにをしたっていうんだい?」
「お前は改宗したにも関わらず、回教の信仰を捨てなかった。それどころか、身よりのない子供を集めて、異端の教えを広めたのだ」
アリシャールははらはらしながらそれを見ていた。物音に気づいたのか、子供達が目を覚まして、アリシャール達の後ろに来る。フアナが騒がないようにと彼らをなだめた。
アミナはふんと鼻で笑って、警吏の言葉を一蹴する。
「嘘っぱちだね。なんの証拠があっていっているんだか。あたしはアンタら正教徒に追放されたせいで、親とはぐれた子の面倒みてるだけさ。教会に楯つこうだなんて恐ろしいこと、これっぽっちも考えたことないね」
「言い訳はやめろ」
そう言って、警吏の後ろから出てきたのは一人の神父だ。神経質そうな目に薄い唇。暗がりのせいか、顔は青白く見える。
「わたしはルイス・ベルガンサ。修道院でヘブライ人の子供の教育係をしている。先日その修道院から逃走した子供がいる。十三歳の女子だ。お前がこの子供を匿っているという話を聞いたが、それも嘘か?」
「それは……」
紛れもない事実を突きつけられ、さすがの彼女も口ごもる。
「詳しくは、詰め所で聞こう」
警吏はアミナの腕を無理矢理つかむ。彼女は必死にそれに抵抗した。
「やめて! あたしがいなくなったら子供たちはどうなるのさ!」
まずい。そう感じたアリシャールの背中には冷たい汗が流れる。このまま彼らに連れていかれれば、アミナは自白を強要されるだろう。自白しなければ、拷問にかけられる。
――今すぐ飛び出して、母を助けなければ。
そう剣を握る彼の手に、フアナは制止するように触れた。そして小さな声で言った。「アリシャールはここで見ていてください」
そして。
「お待ちください!」
叫ぶようにそういって飛び出すと、警吏とアミナの間に割って入った。
「そのご婦人は異端審問にかけられるような方ではありません!」
切実な表情で、フアナはそう訴えた。いきなり現れた彼女に戸惑い、おどおどと警吏は聞いた。
「修道女様……? なぜこのようなところで……」
「じつはわたし、ここから離れた修道院にいたのですが、おそろしい異教徒によって誘拐されたのです」
警吏は彼女の言葉を微塵も疑わず、憤った。
「なんと! そのような者がまだこの国にいるのですか!」
「ええ、とても狡猾な男です。わたしも何度身の危険を感じたことか……しかし、わたしは何とか隙をみて逃げ出すことに成功しました。見知らぬ土地で、右も左もわからない私を拾ってくれたのが彼女です。――そんな彼女が異端者だなんて!」
彼女ははらはらと涙を流していた。痛切な言葉といいとても演技とは思えない。狡猾はお前のことだろう、と母のことも忘れて言いたくなった。
警吏は彼女に同情していうようだった。しかし、己の任務を思い出したかのように眉をつり上げる。
「で、ですが修道女様。それとこれとは話が別でして……我々はとある有力な筋から、彼女は間違いなく異端だと密告を受けているのです」
「ああ、なんということでしょうか……」
フアナはくずれるように床に膝をつき、すがりつくように懇願した。
「ならばせめて、子供たちにお別れをする時間をください。異端の徒とはいえ母は母なのです」
「しかし……」
「どうかご慈悲を! 主も弱者に寛大であるようにとおっしゃっているではありませんか」
後ろにいる部下たちまで憐憫の表情を浮かべている。奥の部屋から子供たちが見ているのにも気づいているだろう。ついに警吏は折れた。
「明日の朝、改めて来る。決して逃げようなんて思わないことだ!」
警吏の言葉に、アミナは自嘲気味につぶやいた。
「どうせどこにもいけないさ」
彼女は自分の足を忌々しげに見ていた。
警吏達が帰った後、子供達はアミナのまわりに集まって泣いた。幼い子供達もなにが起っているのか理解しきれていないようだが、明日になればアミナがあの恐ろしい男達に連れていかれるということは分かったらしい。アミナは気丈にも明るく彼らに応えているが、心中は穏やかではないだろう。
気分が沈むのは、アリシャールも同じだった。
しかし落ち込んではいられない。母を助ける方法を考えなければならなかった。彼女を逃がすことはできそうもない。異端審問所は一度異端の疑いをかけた者は、地の果てまで追いかけるのだという。足の悪い彼女を連れて逃げきるのは難しそうだし、なにより子供達を預けるあてがない。
同じようにアミナを助けることを考えていたのであろう、フアナが尋ねてきた。
「無罪が認められることはあるでしょうか」
「難しいだろう。異端審問官をつとめるのはおそらくロドリゴ・トルケマダ。彼はモーロ人やヘブライ人の血を見るのをなによりも楽しみにしているとまで言われている冷酷な審問官だ」
「なるほど……」
フアナはぶつぶつとなにかつぶやきながら考えている。なにかアミナを助ける妙案を思いつけるとしたら、頼りは彼女しかいない。
「……イザベルの罠だろうか。あいつらは俺のことは言わなかった」
「アミナを捕まえれば、必ずあなたが姿をだす。そうすれば彼女の釈放を条件にとりひきができます。要求するのはあなたの命か、わたしの命かはわかりませんが。だから、あなたがアミナを助けにいけば彼女の思うつぼです」
「黙って見てろと言うのか?」
アリシャールは苛立ちをフアナにぶつけそうになるのを、必死に堪えていた。
「アミナのこととは別に、あなたには頼みたいことがあります」
「じゃあ母さんはどうなるんだ。お前がでていけば、それこそイザベルの思うつぼだ」
「もちろんそうでしょう。だから代わりにアミナを助けてくれる人物が必要です」
そういって彼女は、アミナと子供達のほうを見た。
「だから、アリシャールはわたしのお願いを聞いてくれますか?」
「エンマのせいだ」
そう言ったのは、大声で泣いていた少年だった。
「エンマがここにこなければ、母さんはつれていかれなくて済んだ!」
少年はエンマを睨みつける。彼女は少し離れたところで、顔をしかめているだけだった。
アミナは厳しい顔で、彼に注意した。
「なにを言うんだい。エンマだって大事な家族だろう?」
「でもエンマはモーロ人じゃない」
「そんなことを言ったらだめ……」
「いいわ」
エンマの一言で、その場が静まり返った。少年の怒りのこもった目からも、アミナの気遣うような眼差しからも、ほかの子供達の不安そうな顔からも目を背け、エンマはつぶやく。
「……ここはわたしの居場所ではなかったということね」
彼女は家の外へと駆けだした。追いかけようとするアミナ。それを押し止めたのはフアナだった。
「彼女は私が連れ帰ります。みなさんはもう眠ったほうがよいでしょう」
エンマが思い出していたのは、先ほどやって来た神父のことだ。彼のことはよく知っている。
ルイス神父はエンマのいた修道院でヘブライ人の子供の教育係をしていた。彼はいつも正教の信仰について同じ内容を繰り返し話し聞かせた。退屈だったが、子供達は、黙ってそれを聞くことしかしない。そうするのが、ルイス神父の話を一番早く終わらせることができるからだ。
話を聞く子供達は日が沈むまで働かされたあとで、疲れきっていた。特に今日は雨の中野外で働かされたので、疲労はいつも以上だ。いつも食事は満足にもらえなかったので、せめては早く眠りたい一心だった。冷たい床にずっとじかに座らされているのも辛い。
「なにか質問は?」
彼はいつも最後にそう言う。いつも通り、少しでも早く休むために、誰も何も言わない。エンマも普段であればそうするところだった。しかし。
「……なぜヘブライ人やモーロ人が正教徒より劣っているのでしょう。神様はわたし達人間を平等に作ってはいないのでしょうか」
その日に限って、手をあげて発言したのだ。なぜ自分でもそんなことをしたのか、彼女自身にも分からない。かねてから考えていた疑問ではあったが、それをルイス神父に言ってどうするというのだ。彼が、いや彼ら聖職者が自分達ヘブライ人の子供のいうことなどまともに取り合ってくれるはずがない。
隣の少年はエンマを煩わしそうな目で見ている。逆の立場なら、自分もそうしていたかもしれない。
「確かに人間は本質的には平等である。しかし、間違った教えを信じた彼らは報いを受けなければならないのだ」
意外にもルイス神父は、エンマの言葉を無視したりはしなかった。子供達に正教の考えを分からせる機会だと思ったのか。
「それでは、改宗したヘブライ人やモーロ人が差別の目を向けられるのはおかしいのではないでしょうか」
「過去に間違った教えを信奉していた事実は変わらないのだ」
「それでは……」
エンマは部屋の一番隅にいる少女を指差した。歳は四歳くらいでこの場にいる誰より幼い。いきなり指を差されて、口をあけて驚いている。
「そこにいるハンナは生まれてすぐの赤ん坊の頃からここにいます。生まれながら正教の教えだけを信じて育てられました。彼女には罪はない。それなのに両親と離れ離れになるという悲しみを背負わなければいけないのでしょう」
「それはハンナの両親がヘブライ教を信じたからだ」
「それはハンナの両親の罪であって、ハンナの罪ではありません。赤ん坊は生まれてくる場所を選べないのですから」
それはハンナだけではない。ここにいる子供達、みんな同じだ。もしこんなことになると分かっているなら――親と引き剥がされ、こんなところに連れられてこられることが分かっていたなら、誰もヘブライ人の親の元になど生まれてきたくは無かった。
しかしエンマが何よりも辛かったのはそうやって親を――自分の生まれを憎まなければいけないことだ。
「……そもそも、正教徒の教えが正しくて、ヘブライ教や回教が間違っているとは誰が決めたんですか。誰もが自分の信じているものこそが一番素晴らしいと信じたい――それだけじゃないんですか」
そこまで言ってエンマはやっと自分のしたことに気がついた。隣の少年の目は恐ろしいものを見る目でこちらを見てくる。聖職者の言うことに逆らった者がどうなるか――ここにいる子供達は恐怖とともによく知っている。
どんな罰が待っているのか、考えるだけで手が震えた。
食事抜きを言い渡されるくらいならまだ良いほうだ。一晩庭の木に逆さ釣りにされるかもしれない。いや、もっと恐ろしいことをされるかもしれない――
ルイス神父は静かにこちらを見ている。それがかえって恐ろしかった。
「……今日はこれで終わりだ。エンマ、お前はここに残りなさい」
それ以上何も言わずに、彼は話を終わらせた。子供達は逃げるように部屋を出て行く。残ったのはルイス神父とエンマだけだ。
「……わたしの部屋に来なさい」
その言葉にびくりと肩を震わせる。
考えるより先に直感した。逃げなければ、と。
ルイス神父の部屋に向かう途中――エンマは用を足しに行くと嘘をついて、逃げ出した。修道院を抜け出すことは以前から考えていた。危険が大きすぎると思い実行できずにいたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
修道院は高い塀で囲まれている。門もこの時間には鍵が閉められているだろう。しかし、一箇所、塀のそばに木が生えている場所がある。小柄な子供なら木を登って枝を伝って塀を越えられるのだ。
恐怖で疲れは吹き飛んでいた。木の下まで来たエンマは、上へと登っていく。
「いたぞ!」
その時神父の声がした。見つかったのだ。エンマは慌てて枝を伝っていく。下を見れば神父が木を上ってこようとしていた。塀のところまで来て、エンマはあることに気がついた。
……どうやって塀から降りればいいの?
塀の高さはエンマの身長の倍以上はある。下に目をやれば暗闇のせいでもっと高く、恐ろしく見える。ここから飛び降りれば最悪死ぬ。良くても捻挫や骨折は免れそうにない。そうなれば逃げ出すどころの話ではなくなる。
今戻れば、少しは罪が軽くなるのでは――そんな思いが頭の中を過ぎる。
……いや、今を逃したら駄目だ。
そうしたら、たぶんもうここから逃げる機会はやってこない。だったら、いちかばちがだ。
エンマは目を閉じて飛び降りる。浮遊感、そして衝撃。目を開けて確認する。着地した足は痛むが、普通に動いた。よく見れば、地面がぬかるんでいる。そういえば今日は夕暮れ頃まで雨が降っていたのだ。幸運なことに、雨でぬかるんだ地面が衝撃を吸収してくれたのだ。
そのとき枝の折れる音と共に神父の悲鳴が聞こえた。エンマが伝ってきたあの枝は、大人の体重には耐えられなかったのだ。これもまた幸運だ。エンマは見えない誰かに逃げろと言われているような気がした。だがぼんやりしている暇はない。彼らはすぐに門のほうから回ってくるだろう。
とりあえず森の中へと逃げ込んだエンマは、そのままトレドを目指し一晩中歩いた。道に迷えば、このまま野垂れ死ぬことになっただろう。しかし、奇跡的に都市までたどり着くことが出来た。
トレドに着いてからは、昔のヘブライ人の知り合いの家を訪ね歩いた。自分のことをかくまってくれるかも知れないし、父母の行方も知っているかもしれない――そう思ったのだ。しかし、彼らは既にこの都市にいなかった。どこの家を訪ねても、もう空き家になっているか、それか正教徒が住んでいると言われた。
「……知らないね。たぶん随分前にトレドを出て行ったんじゃないかい」
最後に思いあたった知人のことを近くの市場で聞いたとき、忘れていた疲れがどっと押し寄せてきた。空腹は限界に達しようとしていて、体に力が入らない。一晩歩いたせいで足は棒のようだ。
そして唯一の希望を失い、エンマは途方に暮れた。
その時、この都市の自警団と思しき男が目に入った。自分は追われる身だし、ぼろぼろの服で一人歩いている子供は怪しまれるかもしれない。そう思って、そばの路地に入って身をひそめた。少ししてからのことだ。
「ご主人、このへんで修道院から逃げ出した子供を見なかったかい?」
そんな会話が聞こえてきたのだ。
……自分のことだ!
どきりと心臓がなる。まずい。まさかそこまでして、彼らが自分を追ってくるとは思わなかった。逃げなければ。いや、そんなことしてもすぐに捕まる。庇ってくれる人もいないのだから。
その時路地に杖をついた中年の女が入ってきた。褐色の肌や顔立ちからモーロ人だと分かる。女は焦った顔で、エンマの腕を掴む。
「あんただね? なにぐずぐずしてるんだい。はやくここに入るんだ!」
エンマはそばにあった空の樽まで引っ張っていかれた。ここに隠れろということらしい。彼女はエンマの尻を持ち上げて中に入る手助けまでして、蓋も閉めてくれた。
「――ヘブライ人の子供だ。性別は女。どうやらヘブライ人のことを聞いて回ってるらしいんだが……」
「その子供ならさっきまで、そこにいたぞ?」
「何! どっちに行った?」
そんな会話が聞こえてくる。エンマが樽に隠れてすぐ、男は路地にやってきた。
「おい、お前! さっきこの路地で少女を見なかったか?」
さっきの女は返事をする。
「いいや、猫の子一匹見てないね……まさかこのわたしを『少女』と間違えたって? はは! そりゃ嬉しいね」
女のふざけた言葉に、男は怒る。
「そんなわけあるか! 早くどこかに行け!」
男はそのまま、まさかエンマがすぐそばで聞き耳を立てているとも知らず歩いていった。
しばらくして、女は樽を開ける。樽の中で顔を真っ青にしているエンマを見て、彼女はにっこりと笑った。
「安心しな。わたしはこの通り、生粋のモーロ人。一緒にいればアンタがヘブライ人だって疑いやしないよ」
そう言って彼女は、自分が肩にかけていた布を、エンマの頭に巻いてくれた。
――彼女の名前はアミナ。彼女に事情を話したエンマは、彼女の家で暮すことになる。
アミナはエンマのほかにもたくさんの子供の面倒を見ていた。ただし、ヘブライ人ではなくモーロ人の子供だ。エンマも子供達もその違いに気がつく。しかしアミナは気にしなかった。
何もかも幸運続きだった。修道院から逃げられたことも、トレドにたどり着けたことも。捕まるかと思った寸前、アミナに出会えたことも。
アミナはエンマに、自分のことを母親だと思うように言った。他の子供達は、みんな彼女のことをお母さんと呼ぶ。しかしエンマには彼女を母だとは思えなかった。モーロ人だからというのもあったし、自分の母親は、自分を生み育ててくれた母だけだと思っていた。
アミナはそんなエンマの気持ちに気づきながら、ほかの子と同じように分け隔てなく接した。本当の母のように優しく抱きしめてくれた。時には厳しく叱ってくれた。
アミナはエンマが長らく忘れていた、人の優しさとはどういうものなのか思い出させてくれた。修道院での暮しに比べれば、なんと幸せな生活だろう。ここでは暴力に怯える必要はない。ここでは自分が信じるものを口にしても誰も咎めない。
しかし彼女の心は満たされなかった。
エンマは忘れられなかったのだ。今もまだ修道院にいるヘブライ人の子供達、そしてどこにいるかも分からなくなってしまった家族のことを。
複雑な思いエンマを持って暮らしてきたエンマ。彼女は今、また危機に立たされていた。
自分の命の恩人が、自分のせいで殺されてしまいそうになっている。しかしエンマは、そんな現実に対して、立ち向かうすべを知らない。
ただ独り、悲しみと苦しみを抱いて、震えることしかできなかった。
フアナが見つけられた時、エンマは道の端でなにをするでもなく、しゃがみ込んでいた。
「まさか本気で出て行くつもりではないのですよね。早く帰って寝たほうがいいですよ」
エンマはフアナをじっと見てきた。彼女が来たことが意外だったのだろう。しかしすぐに視線をそらした。
「眠りたくない。ここに来てから、毎晩夢を見る」
「嫌な夢ですか?」
エンマは首を横にふった。
「家族と一緒に暮らしていた……幸せだった頃の夢。父は裕福な商人だった。わたしは何一つ不自由なく育てられたわ。両親と湖に行ったことも、母と語った夢のことも、私の誕生日にもらったプレゼントのことも……財産がすべて取り上げられた今では、すべてがもう戻らないものだけど」
――守るべきものは奪われてしまった。
彼女はそう言っていた。国外に追放された彼女の家族は今頃貧しい生活をしているだろう。死んでしまっていてもおかしくない。どこにいるかも分からないから、きっと再会もできない。
「アリシャールは奪われたものを取り返すために戦っています」
エンマは顔を上げる。フアナは悠然とした面もちで、彼女を見下ろしていた。
「……わたしに剣を握れと?」
「それでもいい。知識を身につけるのでもいいし、金を稼いで買い戻してもいい。女なら美しく成長して、体を使うという方法もありますよ」
なんとも俗物的な物言いだった。本当に高貴な身分の人物なのかと疑いたくなる。
「残念ながら今の私にはなにもないわ。それにあの男のようにも考えられないし……彼のことも苦手」
憎しみ合うだけで何も得られないという言葉。エンマにはそれが綺麗ごとに聞こえたのだろう。フアナにも彼女の気持ちは分かる。
誰だってアリシャールのような正義感を持っているわけではない。同胞のことを思えば思うほど、それを奪った者達が許せないのだ。
「ですが、あなたにもできることはありますよ。あなたは親と離れて今日まで虐げられながらも懸命に生きてきた。その経験は、あなたの財産です。きっと武器になる。……あなたはアミナを助けたくありませんか」
「え……」
アミナの名前が出て、エンマは少し戸惑ったようだ。しかしその質問に嘘はつけない。
「……彼女には感謝している。助けられるなら助けたい」
喉の奥から振り絞られた言葉。それは間違いなくエンマの本心だ。
言葉にしてみれば、胸の奥から熱くなった。彼女が殺されるかもしれないなんて理不尽だ。助けたい。でも自分にその力はない。
フアナはエンマをみて、微笑を浮かべた。
「その言葉が聞けて良かった」
フアナはしゃがみ込み、エンマの両肩に手を乗せた。そして、正面から彼女を見据える。
「あなたが、アミナを救いなさい」
「……どうして私が」
「わたしは知っているのです。あなたにはそれができると」
「なぜそういいきれるの? いい加減なことを言っているのなら許さないわ」
エンマは不思議だった。なぜフアナはこんなに自信満々なのだろう。
彼女は客観的に自分をみて、そんなことはできないと判断していた。自分は同じ年頃の子供と比べれば少しばかり大人びているとはいえ、ただの子供だ。アミナを助けることを考えるなら、アリシャールの力を借りて国外へ逃れるほうがまだアミナが生きる可能性がある。
「信頼されていないようですね。では一つ教えましょう。アリシャールに流れている『英傑の血』――私にも流れています」
「……そんな!」
「不思議なことではないでしょう。わたしは由緒正しき王家の生まれですから。そしてそれ故にイザベルに恐れられたのです。ただしアリシャールほど派手な力ではありません。人の本質――たとえば考えていること、あるいはその根本に潜むものを見透かす力。わたしはこれを〈慧眼〉と呼んでいます」
「証拠は……」
「子供達がアミナの周りに集まっていたとき、あなたは離れてそれを見ていた。――苛ただしかったのでしょう? 一番つらいのはアミナのはず。どんな人間だって突然の死を突きつけられて恐怖しないことはあり得ませんからね。あなたはそんな彼女の気持ちも気づけず、ただ悲嘆に暮れる彼らを軽蔑していた」
図星だ。だがエンマはすぐに彼女を信じることができなかった。
「それくらい予想するのはそう難しくないわ。それにそのことはアリシャールに言ってないのはなぜ?」
「男に信用されるには、自分のほうが優れていると思わせるのが一番ですから」
フアナが笑っていたので、エンマは背筋が凍る思いがした。騙していることに罪悪感はないのだろうか。アリシャールは彼女のことを信頼しているかは分からないが、こんなことを隠しているなんて考えていないだろう。
彼女の言うことに、従っていいのだろうか。
本当に彼女は信じるに値するのだろうか。
わからない。わからないが、フアナに底知れぬ恐怖を感じていた。
「ですがなにもしないのでは、あなたが軽蔑したモーロ人の子供達と同じです」
「……」
自分はどうしたらいいのだろう。アミナを助けるため、フアナがなにをするつもりなのか、それすら分からない。
「考えても結論はでないでしょう。立ち向かう覚悟を決めたなら、今日は眠りなさい」
フアナはエンマを抱擁した。長年の幽閉生活のせいか、その腕は細かった。彼女は優しく、エンマの口元でささやく。
「おやすみなさい。良い夢を」
――家に戻って眠りについたエンマは、その夜夢を見た。
父の仕事仲間であるヘブライ人の家の晩餐会に呼ばれたときのことだ。たくさんの料理がならぶテーブル。煌びやかな室内。父も母も、他のヘブライ人達も、そしてエンマも、みんな笑っていた。
その記憶は悲しいほど幸福だった。