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第一章 トルデシーリャスの狂女

 イスパニア半島が南の大陸からやってきた異教徒・モーロ人の侵略を受けて、おおよそ八百年。それはイスパニア半島における回教徒の繁栄と衰退、そして正教と回教の攻防の歴史だった。一度は半島のほぼすべてを奪われた正教は、八百年という時間をかけて国土を奪還していく。


 半島南端の最後のモーロ人の国家・グラナダ王国を滅ぼしたのは、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合王国だった。正教徒の君主、カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンドの婚姻によって結ばれたこの連合は半島随一の強国を作り上げた。グラナダ王国の歴史は連合王国成立からわずか三年で終止符を打たれる。イスパニア半島の長きにわたるモーロ人の隆盛を思えば、あまりにあっけない幕引きであった。


 正教徒である二人の君主が望んだのは、『血の純潔』――すなわち、正教徒による半島の完全支配である。

 半島に住まう者には正教以外に二つの宗教があった。八百年前に半島に侵略して以来定住する回教徒のモーロ人、そして古くから半島に住むヘブライ教を信仰するヘブライ人である。

 正教のよる国家統一の名の下に、正教の両王は彼らに問うた。 


 改宗か追放か。さもなければ、剣か。


 多くの者が追放を選んだ。この国はすでに自分達異教徒が生きていける国では無い――そう思ったのだ。両手で持てるだけの家財を持って港に集まった彼らには、高い船代を払わねばならず、残った家財はすべて国に没収されるという条件も甘んじて受け入れざるを得なかった。海を越えたまだ見ぬ異郷の地に一縷の希望を抱きながら、彼らはイスパニア半島を出て行った。

 追放を選ばなかった者――もしくは選べなかった者は、正教への改宗を強要された。かれらは従来からの正教徒と比べれば、極めて社会的に弱い立場であった。

 剣を取った者はごく少数だった。グラナダ陥落により、モーロ人の敗北は揺るぎないものになっていた。強大な連合王国に歯向かって勝ち目が無いと、多くの者は考えていたのである。


 しかし、いまだに剣を捨てずに戦うモーロ人の青年がいた。



 トルデシーリャスの森を一人の青年が進む。ちょうど成人したくらいの年頃だろうか。浅黒い肌を持ち、精悍な顔立ちをしている。幅の広い頭布を、頭、そして肩から背中にかけて巻いていた。腰には曲

刀。皮のブーツをはいた足の運びはしなやかで、森に住む獣を思わせる。


 彼の名はアリシャール。トレドにあるモーロ人街で生まれ育った青年だった。

 木立の陰に身を潜ませながら、アリシャールは修道院のほうを見る。修道院の朝は早い。修道士たちはとっくに一日の仕事を始めていることだろう。しかし十分距離があるので、青年のことにも、少し離れたところにつないできた馬のことも気づく様子は無い。


 逆のほうに視線を向ければ、小さな小屋が建っている。そここそ青年の目的の場所だった。

 ――トルデシーリャスの修道院に王女が幽閉されている。

 最初にそんな噂を聞いたのは、もう何年も前のことだった。前国王・エリンケ四世の長女、フアナ。第一王位継承者である彼女には、狂気の血が流れていた。近親婚を繰り返す王族にはしばしば現れることとされており、それは父王が死んだ後も癒えることがなく、むしろ悪化の一途をたどった。


 狂った彼女に政治を乱されるわけにはいかないと判断した妹のイザベルは、フアナを幽閉した。それから九年。正気を失った彼女は、ぼろと異臭の中で孤独に生きつづけているのだという。カスティーリャの女王は自分だと信じて。

 彼女の命を奪うことが、アリシャールの目的だった。彼自身、フアナに恨みはない。しかし、フアナ殺害を命令した人物はアリシャールがフアナの命を奪えば、彼の同胞の今まで通りの生活を保障すると言った。それはアリシャール達がカスティーリャで安泰を得るために残された最後の道だった。

 決意を固めて、彼は剣を握る。最初は夜が来るのを待とうと思っていたが、この様子ならその必要もない。ほんの一瞬でことは終わるだろう。


 小屋に近づけば、若い女の歌声が聞こえてきた。フアナが歌っているようだ。アリシャールも昔耳にしたことがあるような気がする歌だ。幸せだった昔のことを思い出しているのか――と少し考えて、アリシャールは首を横に振った。

 今から殺す者のことをあまり考えてはいけない。同情すれば、剣を振るう手が鈍ってしまうだろうから。自分は彼女を狂気という苦悩から解放するのだ――そう考えることにした。

 静かに戸へ手を伸ばす。しかし鍵がかかっている。中からなら開けられるだろうか、と戸をたたいてみた。

 小屋の中で人が動く気配がしたが、戸は開かない。

 フアナを閉じ込めておくための場所なら外から鍵がかかっているのは当然だ。予想はしていたが、鍵を壊す必要があるらしい。

 アリシャールは腰の曲刀を抜いた。刃には聖典の言葉が刻まれている。彼がそれを指先でなぞると、赤い炎が迸った。聖典の言葉を刻んだ剣を媒介に炎を生み出す。


 種も仕掛けもなければ、曲芸の類でもない。人智を超えたその力は、彼が引く『英傑の血』がなし得る業だった。古い時代の英雄やすぐれた統治者は、使う力は様々でも皆共通してこの血を引いていたという。時代の移り変わりとともに、血は薄まり、王族貴族であっても力を受け継ぐ者はほとんどいなくなったというが。


 彼は炎を纏い、数倍の力を持った曲刀を戸と壁の間に突き刺し、錠を破壊した。勢いよく戸をあけ、中に飛び込む。


 そして目の前に立っていた女の肩をつかみ、床に押しつける。そのまま女の体にまたがり、彼は剣先を彼女の白い喉元に突きつけた。


「……最後に言い残すことはあるか」


 フアナは思っていたより、ずっとまともそうな身なりをしていた。修道女のような格好だ。長い間日に当たっていない肌は白いが、それを除けば彼女自身は健康そうだ。床に広がる鳶色の髪は、手入れがされているようにも見える。正気を失い、排泄物にまみれて生きているという噂とはあまりにもかけ離れていた。

 アリシャールはほんの少し心が動いたが、引き下がろうとは思わなかった。彼女を殺すほかに、仲間を救う方法はない。それにフアナはもしかしたらまともに見えるだけで精神は異常なのかもしれないとも思った。


 フアナは口を開く。


 命乞いをするつもりなのか、それとも神に祈るのか。泣き喚かれるかもしれないし、怒鳴り散らされるかもしれない。だが、何を言われてもこの刃を振りおろす。――そのつもりだった。

 彼女は冷静な顔で、よく通る声で言った。


「わたしを殺すのは止めたほうがよいですよ。そうすればイザベルはあなたを殺します」


 それは予想しない言葉だった。彼女はほとんど動揺していない様子で、むしろ声は知的にも聞こえた。なにより驚いたのは、なぜそのようなことを言えたのかということ。


「なぜ……俺がイザベル女王の命でお前を殺めようとしていることを知っている?」


 確かにアリシャールにフアナ殺害を命令したのは、フアナの妹であり、彼女に代わりカスティーリャを治めてきたイザベル女王だ。

 しかし彼女はずっと、この小さな小屋に幽閉されているはずだ。アリシャールのことはもちろん、国内の情勢すら知らないはず。それなのに、どうしてそんなことが言えるのか。


「そんなこと知りません。でもわたしは直接あなたの恨みを買った覚えはないのです。誰かが――例えばわたしをここに閉じ込めた妹があなたを差し向けたと考えるのが当然でしょう? イザベルは長い間ここに私を閉じこめておきながら、わたしを殺さなかった。それはそんなことをすれば、政治的な理由で私を殺したことをまっさきに疑われるから。それを否定するため、イザベルは素知らぬ顔であなたを処刑するでしょう。あなたがイザベルと内通しているというのなら、なおさら危険因子を排除したいと思うはずです」


 アリシャールは驚いて言葉がでなかった。一瞬、それも刃を向けられた中でそこまで考えを巡らせたというのか。

 アリシャールは確信していた。彼女は噂で聞いたように狂っていない。おそらくそう仕立てられたのだろう。アリシャールに彼女の殺害を依頼した人物に。


「剣をおろしなさい。イザベルに忠誠を誓っているというわけではないのでしょう?」

「なぜそう思う」

「もしそうなら、その事実が明るみになったときに困るのはイザベルですから。それとあなたは純粋な正教徒には見えませんね。イザベルは極端に異教徒を嫌います」


 彼女の言葉はきっと正しい。アリシャールにも頭ではそれが理解できた。しかし、彼は武器をおろすことができなかった。


「俺達が生き残るにはこの道しかない」

「いいえ。もう一つ道があるわ」


 彼女は熱を帯びた曲刀に白い指をのばした。


「――すばらしい力。世が世なら、歴史に名を残す英雄か一国を統べる王になっていたかも知れない。その力、わたしに貸しなさい。わたしはあなたの同胞が生きていくことができる、そんな国を作りましょう。あなたの力が、モーロ人の未来に光を灯す――希望になるのです」


 それは今まで考えたこともないことだった。

 モーロ人が生きることのできる国を作る。そのために正教徒の王に力を貸す。それも相手は狂女と呼ばれる女である。

 アリシャールは立ち上がり、彼女の顔を凝視していた。体を起こした彼女は微笑を浮かべていた。まるで、待ちわびた時がきたとでもいうように。


「……そんなこと、できるのか?」

「本当のカスティーリャ女王は、このわたしですから」


 フアナはまっすぐのアリシャールを見つめる。フアナは蒼い瞳をしている。それはどこまでも深く、吸い込まれそうな海の蒼と同じだ。彼女の目は、アリシャールの心の奥底まで見通しているかのようだった。

 彼女を生かすか殺すか。

 彼女の言うことを信じて良いのか悪いのか。

 逡巡の後、アリシャールは決断した。



 その日、修道院の離れの小屋から炎があがった。

 修道士が気づいた時には、火は小屋全体を包んでいた。森に広がれば山火事になる。彼らはすぐに消火にとりかかった。

 ほどなくして火は収まった。沈火した後、中から黒こげになった女の死体が発見された。



「今頃、修道士達は火を消しているころでしょうか。それとも、偽物も私の死体を見つけている頃? なんにせよ、うまく騙されてくれているとよいのですが」


 アリシャールが引く馬に揺られているフアナは、のんきにそんなことを言っていた。

 そろそろ日が沈む頃で、二人が行く山道は人気がない。もしすれ違う人がいれば、修道女とその護衛の改宗モーロ人にでも見えただろうか。

 彼は返事をする気になれなかった。偽の死体に使ったのは、近くの墓地に埋葬されていた死体だ。何の罪もない女の墓を掘り返したのだ。相手は正教徒だが、そういうことは問題ではない。宗教関わらず忌むべき行為だろう。思い出しただけで気が滅入る。腐敗した体を持ち上げた感覚が、まだ手に残っていた。

 しかしイザベルに一時的にもフアナは死んだと思わせるためには、そうしなければならなかった。フアナは割り切っているのか、ほとんど気にしていない様子だ。それがまた憎らしい。


「正義感があってまじめですね。信頼します」


 わざわざ心中を明かさなかったが、フアナはアリシャールの考えを読みとっていた。


「俺はお前を信頼できない。もしものときは、お前を人質にとる」

「賢明ではありませんね。そんなことをしたら、イザベルはわたしとあなたを無きものにすることを考えるでしょう。わたしを女王にしてモーロ人を保護する政策をする手伝いをしたほうが建設的ですよ」

「もしそんなことができたらな。お前にイザベル女王を退ける、具体的な考えはないんだろう」

「あたり前じゃないですか。わたしは九年間あの小屋から出ていないどころか、ろくに他人と話もしていません。毎日食事を運んでくる修道女もわたしと必要以上の会話をすることを禁じられていたようです。わたしより貧民街の子供のほうがよっぽど世間を知っているでしょうね」


 そんなに自信満々に言わないでほしい、と思いながらアリシャールは溜息をつく。彼女の耳にも届いていたはずだが、気にせずフアナは独りつぶやく。


「イザベル『女王』ですか……。わたしはお父様からいただいた王位を、彼女に譲った記憶はないのですが」 

「お前が幽閉された直後、イザベル女王は『女王代理』を名乗っていた。彼女は十三歳だったというのもある。その後、アラゴン王フェルナンドと婚姻を結び、グラナダを侵略した。長年の正教徒の悲願を達成した彼女を、誰もが認めざるを得なくなった。今では名実ともに、イザベル女王がカスティーリャの君主だ」


 ふむふむと頷きながら、フアナは話をきていた。


「もっと教えてくださいますか? イザベル女王の偉業を」


 彼女の言い方は少し気に障った。それはモーロ人にとって衰退の歴史だったからだ。しかし、まずそれを話さないことにはイザベルを退ける方法など考えられない。

 長い間の幽閉生活で彼女は少し足を悪くしていた。体が使えなくならないよう小屋の中で定期的に運動するようにはしていたらしいが、旅をするには支障がある。都市につくまではしばらくかかる。

彼女の素質を見極め、今後のことを考える時間はありそうだった。



 二人が向かったのはトルデシーリャスから一番近いトレドという都市だった。二人が生まれた街であり、イザベル女王の居住地もここだ。

カスティーリャでは特定の都市に宮殿をもたず、社会状況にあわせて移動するという形をとっていた。実際、グラナダ陥落の前後数年間は、イザベル女王はここより南の都市に住まいを構えていた。

 今のところトルデシリーシャスの修道士たちは、フアナが生きていることに気づいていないのか、追っ手はない。しかし、すでに彼女が生きているのに気づかれていて、捜索は秘密裏に進められているという危険も拭えないので警戒を怠るわけにはいかなかった。

 気がかりだったのは、フアナが「自分を殺せばイザベルはあなたを殺す」と指摘したことだ。それは自分がフアナを逃がしたことに気づかれたときも同じだろう。どちらにせよ、フアナ暗殺を企てたことを知っているアリシャールを野放しにしておくとは思えない。どれだけ警戒してもしすぎることはない。

 修道女のふりをすれば、旅をすることも都市に入ることもたやすい。しかし問題はそのあとだ。まさか教会に向かうわけにもいかないが、女一人で宿に滞在し続けるのは怪しまれる。


 道中アリシャールは、トレドに着いてからは巡礼の旅の途中を装い、宿屋を移っていけばよいのではと提案した。しかしフアナはそれではすぐに、自分の居場所がばれると提案を却下した。


「それよりもだれか信頼できる方に匿ってもらうほうがよいでしょう。心当たりはありませんか」

「……お前を匿えば、その者も危険にさらされる」

「それでも匿ってくれる者がほしいのです。危険を承知で、自由のために、ともにイザベルと戦ってくれる人が。まさかわたしとあなたの二人きりでことを成し遂げることはできないでしょうから、協力者は必須です」

「この国にお前が望むような協力者はそう多くない」


 国に残ったモーロ人は、多くが国外に逃亡しようと思ってもできなかった者だ。家族に老人や病人がいるもの、貧しく旅費も用意できなかった者――皆貧しく、浮浪者のような生活をする者も少なくない。そうでなければ、以前から正教徒に協力的だった者だ。


「多くはない、ということは心当たりがないわけではないのでしょう」


 その指摘は正しい。協力者と言われたとき、真っ先に思い浮かぶ人がいた。しかしその人は、アリシャールが最も危険な目にあってほしくない人だった。



 翌日の日が暮れる頃に、二人はトレドについた。

 イザベル女王の住むこの都市は、半島で一、ニを争うほど栄えている。国中から人や物が集まり、そしてここから国中に流通する。数百年前に建てられたもの大きな教会が、都市のあちこちに見られ、この都市の歴史を感じさせた。

 そんな都市の中でも寂れた路地を、二人は歩いていた。

 並ぶ建物は、他の路地とは違いモーロ風の家屋で、通りから中の様子が見えにくいような作りになっている。しかし半島の気候に合わせて、雨が多い時期に風通しがよくなるような窓も見受けられ、いわば東西の文化が融合した造りだ。そんな建物も、最近人が出入りした形跡がない。

 アリシャールがまだ幼い子供だったころ、ここには多くのモーロ人が住んでいた。今でもその頃のことは鮮明に覚えている。けんかばかりしていた隣の家の夫婦。いつも店の奥で居眠りをしていた薬屋の主人。一緒に遊んだ少年達。彼に剣を教えた師もこの辺りに住んでいた。


 貧しい者はいたし、悪事を働く者もいた。しかしどこか暖かい場所だった。今となっては過ぎ去りし日の思い出だ。みんな国外へ追放されてしまった。立ち並ぶ家はどれも空き家ばかり。建物が取り壊され、空き地になっているところもある。見かけるのは、モーロ人かどうかも分からない、ならず者ばかりだ。もしフアナ一人で歩いていたら、すぐにでもおそわれていただろう。


 アリシャールは一軒の民家の前で足を止めた。寂れたこの路地で、そこだけは明かりが灯り、中から子供の声が聞こえてきた。

 戸を前にして、今更ながらアリシャールは迷った。戸をたたいてもよいのだろうか、と。ずっと来たいと思っていた場所だ。しかし、それ故にめったなことでは来まいと心に決めていた場所だ。

 フアナはアリシャールの顔をのぞき込んで、顔色を窺う。


「迷っているのですか? 安心してください。協力してくださる方のことは、できるだけお守りすると約束しましょう」


 アリシャールはその言葉を素直に喜ばなかった。責任は自分にあるし、彼らを第三者に守ってもらうつもりもない。


「お前に守られるまでもない」


 そうは言ったが、心が少し軽くなった。アリシャールはまだフアナのことを心から信じられずにいる。長い間、自分達を虐げてきた正教徒だからというのもある。騙されているとは思ってなかったが、彼女の飄々とした態度は、なにか腹の底に隠しているのではないかと感じずにいられなかった。

 しかしフアナが九年もの間幽閉されたまま逃走しなかったのは、彼女に協力者がいなかったからだ。アリシャールを失えば、彼女はイザベルから逃れる術を失う。そうしないためにも、彼女はアリシャールとその仲間は守ろうとするだろう。

 戸をたたくと、中から懐かしい声が返ってきた。

 中から杖をついて出てきたのは中年の女性だ。褐色の肌には皺がおりたたまれ、頭髪は白髪が目立つ。だが若い頃は美人だったのだろう思わせる顔立ちだ。

 女は口を開けたまま固まり、二人の顔を見比べた。そして二人の腕をつかんで、中に引き込んだ。

 眉をひそめた顔を近づけて、アリシャールに唾をとばしながら言った。


「アリシャール! 今までどこほっつき歩いてたの!」

「すいません。しかし、俺はあなたと縁を切ったわけで……」


 彼女の勢いにたじたじとしながらそう言うと、彼女はアリシャールの右頬を思いっきり叩いた。

「縁を切る? 次にそんなことをいうと、殴るよ!」


 もう殴ってる、と言おうとして、彼女の目が潤んでいるのに気がついた。頬が痛いのも忘れて、思わずアリシャールの口もとに笑みがこぼれていた。


「ひさしぶり。元気そうで良かった。……母さん」



 家の中には十人ほど子供がいた。モーロ人風の服装は禁じられていたから正教徒の格好をしていたが、肌の色などからモーロ人だと分かる。みんなアリシャールの周りに集まり、「お兄ちゃん!」と嬉しそうな声をあげる。


「なるほど、あなたのお家ですか」


 フアナは家の中を見渡した。広さはある程度あるが、質素な生活が窺える。食事の時間だったのか、おいしそうなスープの匂いが鼻孔をくすぐる。


「もう三年は帰っていない」

「三年も? まぁそれをいうなら私は十年近く実家に帰っていませんが……トレドを離れていたのですか?」

「いや。そういうわけじゃない。母さん達は改宗したが、俺はしなかった」


 そうすれば、彼の使う〈火焔〉の力――『英傑の血』の力を失うと思ったからだ。この力は英傑と呼ばれるにふさわしい素質をもつものにのみ受け継がれるという。肉体はもちろん、固い意志と不屈の精神を持っていることがなにより重要だ。信仰を捨てたとき、力を失う――アリシャールにはそんな気がしてならなかった。同時に、家族に何かあったときこの力が彼らを守る切り札になると予感していた。


「それは賢明な判断です」

「残念だが、そこまで強い力じゃない」


 アリシャールは自分が並みの人間以上の力を持つと自負している。しかし、訓練された兵士に束になってかかられたら、ひとたまりもないだろう。


「戦士としてだけではありません。あなたには人を引きつける力がある。歴史に残る大事を成し遂げる素質がある。イザベルはそれを恐れているのでしょう」


 母も笑いながら言う。


「アリシャール。あんたはこの三年間ちっとも帰ってこなかったけど、あんたの噂はわたしの耳にも届いたよ。正教徒と異教徒が揉めていると現れて、いざこざを仲裁するモーロ人がいるってね。『モーロ人の英雄』だなんて呼ぶ人もいる。息子が英雄だなんて、わたしも鼻が高いね」


 それこそ英雄譚によくあるように誇張された話だと思った。言われるような、すごい力が自分にあるのか、半信半疑だった。もしそうなら、モーロ人はなぜここまで追いつめられたのか。

 せめて十年早く生まれていたら、同胞のために戦うこともできたかもしれない。アリシャールが成長し、イスパニア半島のモーロ人の危機に気づいたときには、事態はもう取り返しのつかない局面まできていたのだ。ここに来るまでの、この路地の寂れ具合がそれを物語っている。

 そんなことを考えていると、十歳くらいの少女が彼の袖をつんつんと引っ張った。アリシャールの妹――とはいっても血がつながっているわけではない。彼女も、他の子供達も母親が身を預かった孤児だ。


「アリシャール兄ちゃん。その姉ちゃん、お嫁さん?」


 純粋な目で尋ねられたので、アリシャールは思わずたじろぐ。


「いや、そういう訳では……」

「それはわたしも聞きたいねぇ。嫁さんだったら嬉しいんだけど」


 彼女は再会の喜びから一転、まじめな顔で息子を、そしてフアナを窺う。口では軽いことを言っていても、その目には警戒心がこもっていた。

 他の子供達も、彼女を見ていた。彼女が正教徒の修道女の格好をしているのも、興味を引く一因だろう。正体は修道女以上に本来ならここにいるべきでない人物だが。

 視線を一身に集めたフアナは、一歩前に進み出た。そして胸に手をあてて、やうやうしく一礼した。


「お初にお目にかかります。私の名前はフアナ。フアナ・カスティーリャです。この国の女王です」


 アリシャールが見れば、母は目を瞬かせていた。ほかの子供たちは首を傾げたりしている。多少言葉の意味を理解した者は、怪訝そうに顔をゆがめた。その反応は当然だと思ったが、アリシャールはなんと説明してよいのか分からなかった。

 沈黙を破ったのは、母親の声だった。優しい目で子供達を見ていた目には、鋭い眼光が宿っていた。


「冗談だか本気だか知らないがね……。ここにいる子たちは、モーロ人に追放命令が下ったときの混乱の中で、親とはぐれたりして、身よりを失った子達だ。無理矢理親から引き離されて、正教徒の施設にいれられて、そこから逃げてきた子もいる。それもこれも全部、この国の女王様が決めたことのせいさ。それを知ったうえで、そんなことを言ってるんだろうね?」


 アリシャールを育てるため、そして子供達のためアミナは必死に働いてきた。その結果、足を悪くするほどに、懸命に。そんな彼女の言葉は重い。

フアナはそれに、真剣に応えた。


「知っている、とは言えません。長い間世間を離れてくらしておりました。アリシャールから話を聞いただけでは、知っているなんていえません。だから、わたしを信じろなんていいません。そして私の力が及ばぬばかりに、ここにいる子達――いえ、多くのあなた達の仲間が苦しんだのは確かでしょう。だからこそ、わたしはあなた達を救わなければなりません。――しかし、わたしを信じられないのも無理はないことです。だから、わたしをここに連れてきたアリシャールのことを信じてください」


 彼女はアリシャールのほうに視線をやった。子供達も期待と不安が混ざった目でアリシャールを見ていた。

 彼らの気持ちに応えなければ。そう強く思う。


「みんな聞いてくれ。――彼女は味方だ」


 そして母を見る。


「ずっとモーロ人が生き延びるための道を探してきた。その末に出会ったのが彼女だ。イザベル女王が王位についている限り、俺たちは虐げられ続けるだろう。それに立ち向かうという意味で、フアナとの利害は一致している。もう一度、自由を取り戻すために戦ってほしい」

「……なかなかおもしろい嫁さんをつれてきたじゃないか」


 そう言った母は、右手でフアナの手をとり、その手を胸の上にあてた。モーロ人式の挨拶だった。


「わたしの名前はアミナ。わたし達はあなたとともに戦う。我々の神に懸けて誓おう」


 子供達はお互いの顔を見合わせ頷きあう。家族を失った寂しさの中、身を寄せあって暮らしていた彼らにとって、フアナとアリシャールの言葉は希望に満ちて聞こえただろう。


「『英傑の血』を引くモーロ人の英雄のお母様に協力していただけるのは、本当に心強い限りです」


 フアナの言葉にアミナは苦笑した。


「いいや、アリシャールは父親似だ。その特別な力もね。もっとも何も言わずにアリシャールが生まれる前に死んでしまったから、あの人がなんでそんな血を持ってたかも詳しくは分からず仕舞いさ」


 とはいえ、彼の誠実な人柄は間違いなく母譲りであった。それは周りの子供達の彼女を見る目から分かる。

 しかしそんな中、暗い顔で子供達の輪から離れていこうとする者がいた。アリシャールは見覚えがない少女だ。歳は十二、三歳くらい。肌の色や顔立ちから、モーロ人でないことが分かる。アリシャールは彼女を呼び止めた。


「待ってくれ!」


 少女はばつが悪そうな顔で振り返る。アリシャールは彼女に歩み寄り、床に膝をついて肩に手を置いた。


「君に会うのは初めてだと思う。俺はアリシャール。君の名前を聞かせてほしい」


 彼女はなにも言わずに、目を反らしたまま。困っていたアリシャールに、アミナが助け船をだした。


「その子はエンマ。ヘブライ人の子だ。ちょっと前に正教徒の聖職者のところから逃げだしてここに来たんだ」


 ヘブライ人は回教徒が侵略するよりも前から半島で暮らす異教徒だった。独自の宗教を信仰するため歴史的に迫害を受けてきた民族である。彼らもモーロ人とともに追放命令を受けた。


 エンマはアリシャールに、いやほかの者たちに壁を作っている。それも彼女の生まれを考えれば仕方がないことだ。幼い彼女もヘブライ人であることを理由に苦労を強いられてきたのだろう。たとえ自分達を迫害した正教徒ではなくとも、周りの人間に不信感を持ってしまっても仕方が無い。

 しかしここで暮らす限り、彼女もアリシャール達の戦いに巻き込まれることになる。だから、少しでも納得してほしかった。


「なにがあっても君のことは守る。君に害をなす者は、共に立ち向かう。だから信頼してほしい」


 アリシャールがそう言うと、エンマは彼のほうを見た。やっと心を開いてくれた――そう思ったときだった。

 初めてエンマが口を開いた。


「じゃあその剣で正教徒達を全員斬り殺してくれる?」


 一瞬、アリシャールは言葉を失った。エンマは暗い瞳でこちらを見ている。計り知れない彼女の苦しみがそこに宿っていた。


「……違うエンマ。憎しみあうだけではなにも得られない。守るために戦うんだ」

「守るべきだったものは、もう奪われてしまったわ。この国に正教徒がいる限り、戻ってくることはない」


 エンマはそう言うと、奥の部屋へ姿を消した。



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