第九章 判決
「あの夜――酒に酔った母とわたしは口論になりました。怒った母はわたしを殺そうとしました。雨の降っているバルコニーに逃げたわたしを、母は追いかけてきて――そこで足を滑らせてバルコニーから落ちて死にました」
大異端審問の舞台で、彼女は語る。あの雨の夜に起こった真実を。
「わたしは母を殺した。見殺しにした。それは事実です。母はあなたを利用して、自分こそが王の権力を欲しいがままにしようとしていた。そのときのわたしはそれが許せなかった。イザベル――あなたを守りたかった」
そういうフアナの顔は悲しげで、イザベルは言葉を失った。
「……そんな……そんなことを今更」
「母の死を正当化はしません。わたしにも確かに責任はあります。しかし、あのとき母が死んでいなかったら今のあなたはいなかった」
イザベルは理解していた。自分は母を殺したのはフアナだと思っていた。だから、彼女を幽閉することを決めたのだ。
そしてそれは誤解だった。
ずっと母を殺した彼女を嫌悪していた。自分がフアナを殺さなかったのも、彼女が死ねば自分が殺したことを疑われるというのもあるが、家族を殺した彼女と同じにはなりたくなかったからだ。それも思い違いだった。
すぐには気持ちの整理がつかなかった。しかし。
「……それでも王位を譲ることは出来ないわ」
イザベルの口はそう動く。
「そうですか。母の死の事実を知った今、過去の因縁は振り払って改めて決めましょう。どちらがこの国の本当の女王か。大切なのは過去ではなく、現在、そして未来です」
フアナは対等な立場で競い合おうといっているのだ。
彼女はイザベルにとってかつては尊敬の対象だった。そして時には恐怖の対象であり、怒りと憎しみを向けたことも軽蔑したこともある。そんな彼女が今、同じ目線でいる。そのことに喜びを感じずにはいられなかった。
受けて立とう。フアナを退けて、本当の女王になるのだ。
イザベルはゆっくりと頷く。そしてフアナは口を開いた。
「わたしは異教と正教が共存する国を理念に掲げます。彼らが長年この国で培ってきた文化は、この国の財産です。正教の教えは、異教を陥れるものではない。正教も異教もお互いを理解しあうことこそが、この国の繁栄に繋がるのです」
「でもそれは、理想論だわ。現実はそうはいかない」
「おや。今、わたしの言うことを『理想』と言いましたね?」
フアナはにやりと笑う。イザベルはむきになって言い返した。
「誰もが人を恨まず、理解しあうなんて理想どころか絵空事だわ。正教と異教の間にはわたし達が生まれるずっと前から軋轢がある。それは君主が変わったくらいでは変わらないほど根深いものよ。正教と異教は共存できない。だからわたしは異教を追放することを決めた! カスティーリャの安寧のために」
かつての侵略者であるモーロ人。金貸しなどの仕事をして富みを築いているヘブライ人。正教徒が彼らを憎むのは、決して宗教の教えが違うためだけではない。何本のもの糸が複雑に絡まっているようになっているように、歴史や社会情勢が関与しあっている。それを解くのは容易ではない。ならば問題の原因となるものを一掃すればいいというのがイザベルの考えだ。
「確かにいかに優れた王でも民のすべてを守ることは出来ません。国民の三分の二を守るために三分の一を殺す――そんな選択を選ばなければいけないときもあるかもしれません」
「その通りよ」
イザベルは自信満々に返した。
「それは時に冷酷といわれることもあるでしょうね。それでも必要とあれば切り捨てることを選ぶことができることも、王にとっては必要なことだわ」
「ですが、だからといって犠牲が許されるわけではない。異端審問にかけられた何千人もの人や、追放された何万人もの人、民族の自由のために死んでいた若者や、親と引き離された大勢の子供達……本当にこれだけの犠牲が必要だったのですか?」
「……必要だったのよ。正教の教えを人に広めるためには」
イザベルの返事は少し遅かった。
「そうでしょうか。あなたは敬虔な正教徒のふりをして正教の教えや異端審問を政治に利用しているのではないでしょうか」
「……あなたの考えは最初から最後まで理想論よ! そんなもので、本当に国を変えられると思ってるの!」
「変えられますよ。変えます。――イザベル、あなたが思う良い国家とはどのような国ですか」
「それは……」
イザベルは即答できなかった。これ以上翻弄されるわけにもいかないと、必死に上手い答えを考える。
国の財力、兵力――さまざまな要素が思い浮かんだが、今問われている質問の答えとは違うように思えた。
「お金を持っている国ですか。戦争が強い国ですか。それとも広い領土や植民地を持った国ですか」
フアナに言い当てられ、イザベルは口ごもる。
「わたしは違うと思うのです。たとえ国庫がどれだけ潤おうとも、強い軍隊を持とうと、そこに住む人が自由を忘れ、不条理な暴力に怯えて生きていかなければならないのだとしたら……そんな国をいい国だなんて誰が言うでしょうか」
「……金も軍も、そこに生きる人を守るには必要なものだわ。暴力も秩序を保つためには必要。そんな腑抜けた考えじゃ、カスティーリャはすぐに他国に攻められてしまう」
気が付けば九年間、女王として国を治めていた自信にひびが入っていた。いとも簡単にそうなってしまったことに、イザベルは焦燥を覚えた。しかし焦れば焦るほど、反論が出てこない。
「資金や軍隊は国を守るために必要でしょう。わたしが言いたいのは、それらは手段であって目的ではないということです。それがなんのためのものなのか、忘れてはいけない」
言い返そうと開いた口からは何の言葉も出てこなかった。
ただ愕然としていた。政治家としての自分は、フアナに言葉だけでこんなに容易く打ち砕かれてしまう、もろい存在だったのか。
「わたしはこの国を世界中のどの国より素晴らしい国にしたい。正教徒だろうがモーロ人だろうがヘブライ人だろうが、その生まれ故に虐げられることもなく、自分の民族を誇れるようにしたい。己の信条や思想のために暴力を恐れることがなく、愛しあう家族が引き裂かれることもない、そんな国にしたい。これから先もずっとここに住む人々が幸せに暮せる、そんな国にしたい――そんなわたしの考えに同調してくれるというなら……イザベル。あなたが九年間守ってきたこの国、今一度わたしに返してくれませんか」
理想だけでは国は変わらない。そんなものは、現実を知らない夢想家のたわ言だと冷酷に打ち砕け。『イザベル女王』ならそれが出来るはずだ――そう思いながら、イザベルは言葉が出なかった。
それは心の奥底で、フアナの思想に同意したからだ。彼女ならそれができるのではと思ってしまったからだ。何もいえなければ〈達弁〉の力も無意味である。
イザベルは自分が信じられなかった。今まで女王として培ってきた自信はどこに行ってしまったのだろう。悲しみ、そして虚脱感で足に力が入らない。崩れ落ちそうになる――その時。
彼女の肩を支える者がいた。
「フアナ様。立派なお言葉ですが――わたしは、イザベル・カスティーリャこそこの国の女王であると考えます」
温和な表情でそう言うフェルナンド。しかし目は笑っていなかった。
壇上にやって来たフェルナンド。彼はフアナにとっての宿敵だった。イザベルの部屋で、彼女がフェルナンドと繋がっていることを知ってから――いや、初めて会ったその時からである。
「フェルナンド様。アラゴン王であるあなたが、カスティーリャのことについて口を出す必要はありません。それにあなたは、政治的な事柄ではイザベルに従うことになっているのでしょう」
その言葉には、イザベルと対峙していたときには無い怒りが込められている。
「口を出すなんて、滅相もございません。ですが、わたしはイザベルの伴侶でもあるのです。立ち会うことぐらいはお許し願いたい」
こんなところまでわざわざ来ておいて、何もしないつもりということはないだろう。だが、そのように言われたら、壇を下りろとは言えなかった。
フェルナンドはイザベルに語りかける。
「イザベル。目の前の人物が誰であろうと、何を言おうと、君はこの国の君主だ。そう信じる気持ちを忘れてはいけない」
そして彼は、イザベルの耳元で何かを囁いた。それを聞いて、イザベルの表情が変わった。みるみるうちに覇気が戻っていく。しかしその目は、フアナを見ていない。
「――お姉様、あなたの理想はとてもすばらしい。しかしすべての国民があなたの考えを理解できるわけではない。その理想を実現するまでの過程で、正教徒と異教徒の間に大きな軋轢が生まれることになるでしょう。あなたはこの九年間の異教徒迫害をすべて無意味なものにして、この国を混沌に陥れようとしている。それは正教徒にとっても、異教徒にとっても不幸なことだわ」
彼女はフアナに話しかけていない。フアナは瞬時に理解する。これはイザベルの言葉ではない。彼女はフェルナンドの言ったことをそのまま口にしているのだ。
「彼の言われるがままに従う――イザベル、カスティーリャの君主として本当にそれでいいんですか」
「何を言っているの。わたしは自分の意思でしゃべっている」
イザベルは自分がフェルナンドに服従しているという事実に気付いていない。そんなことはないと信じ込まされているのだ。
今フアナはイザベルを通じてフェルナンドと対峙している。
……やっと決着がつけられるというわけですね。
「混沌に陥れるようなことにはしません」
フェルナンドはイザベルに耳打ちされ、またその言葉を口にする。
「しかし正教と異教の両方が一つの国にあれば、必ずや諍いの原因になる。それを排除しないというのは、国内で起こる争いを放置するということ他ならない。――そうすれば、この国は破滅する」
――この時、フアナの〈慧眼〉は目の前の相手にのみ集中していた。
だから気がつかなかったのだ。広場に隣接する建物――その上に現れた大きな人影に。
「たとえ暴力の原因になろうと、それを排除することはしません。わたしが排除するのは暴力そのものです」
「じゃあ、この国を暴力が襲ったとき、あなたは暴力をもってそれに立ち向かわないの? されるがまま、黙って見ているっていうの?」
向けられた殺意、そして建物の上で日光を反射して光った凶器に気がついたのはアリシャールだった。それは彼の動物的な勘がなしえる業だった。
「危ない、フアナ!」
彼はフアナの腕を掴んで引っ張る。すると、彼女がいた部分に大きな矢が突き刺さった。気がつかなければ、胸に突き刺さり貫通していただろう。
人々の視線がいっせいに矢が飛んできたほうに向けられる。
立っていたのは全身に甲冑を纏った大男だった。顔は見えないが、只者でない雰囲気を纏っている。手にしている大弓は、並みの腕力ではとても引けないだろう。加えて、イザベルやフェルナンドが近くにいる状態で、弓で狙ったというのは、それだけ武芸が達者だということだ。
アリシャールは彼に見覚えがある。イザベルと最初に出会ったとき、そして昨夜監獄で会ったときに、連れていた護衛だ。一国の女王が、たった一人の護衛に選ぶほどだ。その実力はいかほどか、想像に難くない。
彼はバルコニーの手すりに飛び降りた。突如現れた大男に、バルコニーにいた貴婦人が悲鳴を上げる。彼は気にも留めずに飛び降りた。地面が震えそうな衝撃にも、彼は平気な顔をしている。
彼は背負っていた槍を抜いた。大柄な彼の身長より長い大きな槍だ。奇襲に失敗した彼は、力ずくでフアナを殺害しようとしているのだ。警備兵はといえば、常人でない力の持ち主を相手に、恐怖で固まっている。
「フアナ、あいつは俺が止める。目の前の男はお前が倒せ」
アリシャールはちらりとフェルナンドを見た。大男の登場にも動じることの無かった彼。きっと、このことを手回ししたのはこの男だ。しかし証拠が無い以上、いまそれを言ってもしかたがない。
壇を飛び降り、近くにいた警備兵からサーベルを奪うアリシャール。そして彼は、甲冑の大男に向かっていた。
敵は大男でしかも甲冑をまとっているので動きは遅い。しかも得物も長槍なので、どうしても振りは大きくなる。俊敏性では間違いなくアリシャールが勝る。懐に入り込めれば、その時点で勝利は決まったも同然だ。しかしあの大男の攻撃を一撃でもまともに喰らえばアリシャールの命はない。
鉄の甲冑を剣で切ることは出来ない。狙うのは甲冑のつなぎ目の部分だ。狙うなら腕、膝、腰、そして首。そこを目掛け、刺突を繰り出す。
しかしそれも彼には読まれているのだろう。アリシャールの動きを機敏に察知して、攻撃を守っていく。守っているだけではない。自分も槍を繰り出す機会を窺っている。
まずいな、とアリシャールは思っていた。次々と攻撃を繰り出している自分。対する大男は、必要最低限の動きでそれをかわしている。すぐにこちらが体力の限界を迎えることになるだろう。
このままではいけない、とアリシャールは飛びのく。そして〈火焔〉の力を使った。剣を使わずに使うのにはまだ不慣れだったが、幸い上手く使えた。アリシャールの腕とサーベルを赤い炎が包む。
そして彼はもう一度甲冑の男に向かっていく。今度は剣先と同時に炎が彼を攻撃する。例えるなら、剣にまとわりついた蛇が、獲物に牙を剥いているようだった。
しかし、男は炎に動じなかった。炎も甲冑の中の男までは届いている。アリシャールの炎は無意味なのでは――傍から見ていた者はそんな風にも思った。
少ししてから、男の動きに変化が出てきた。アリシャールへの攻撃への反応が、目に見えて遅くなってきたのだ。
「――熱いだろう。甲冑を脱げ」
炎は男まで届かなくても、鉄の甲冑は熱をよく伝える。今甲冑の中は、蒸し焼き状態だ。戦いどころではないはずだ。
その時、初めて大男は言葉を返した。
『あの時――洞窟でカスティーリャ軍に火をいれられた時は、こんなものではなかった』
アリシャールははっとした。それは彼がしゃべっていたのが、モーロ人の言葉だったからだ。今では国が使うことを禁止している言葉なので、アリシャールはそれを久しぶりに耳にした。
そして思い出す。かつてモーロ人が反乱を起こした時、洞窟に逃げこんだモーロ人をカスティーリャ軍は蒸し焼きにして殺したという話を。
「お前は……モーロ人……かつての反乱軍の生き残りか!」
『そうだ』
彼は甲冑を脱ぐ。その姿にアリシャールは息を呑んだ。彼の全身は、火傷で醜くただれていたのだ。おぞましい姿に民衆のほうからは、悲鳴が上がった。アリシャールの攻撃で負った火傷ではない。もっと深く古い傷跡だった。
「なぜ、イザベルのために戦うんだ」
アリシャールが彼を理解出来なかった。その傷はカスティーリャ軍につけられたもののはずだ。イザベルを恨む理由はあっても、協力する理由などない。
『生きるためだ。金で雇われて戦う――ただそれだけだ』
「どうしてだ! 昔、自由のために戦ったんじゃないのか!」
『その通りだ。そしてわたしの理想は――結果的に仲間を無残に殺してしまった。自由を求めて戦おうなどと思わなければ、彼らは死ななかったのだ。だからわたしは理想を捨てた。仲間を捨てた。モーロ人であることを捨てた。過去を捨てた。未来を捨てた。希望を捨てた』
そう言う男の顔は、狂気にとり憑かれた修羅の顔だった。
「なんで死んでいった仲間を誇りに思おうとしない!」
『死なせた仲間の死を美化することなど出来ない』
仲間を殺した敵側につく。普通なら理解できない。しかし彼にとってそれは、仲間の死という現実から決別する手段だったのだ。かつての自分を否定し続けること、非情と恐れられることも、外道と恐れられることも自分自身への罰だった。
言葉だけで彼を説得することなど出来ない。彼の人生そして苦しみの前では、アリシャールの言葉は無意味だった。しかし、だからと言って彼に負けるわけにはいかない。
――勝たなければ。自分は理想を砕かれるわけにはいかないのだから。
アリシャールの意思に同調して、剣をまとう炎は燃え上がった。
彼はそれを見て、どこか悲しそうに言った。
『お前のその力――それは無念のうちに死んでいったモーロ人の憎しみの炎だ』
「いいや。違う」
――最初に会った時、フアナは言った。
「これはモーロ人の未来に光を灯す――希望の炎だ」
『希望、か。この国のモーロ人はみんな捨ててしまったんではないか?』
「そんなことない。お前だってそうだ」
『……わたしが?』
「モーロ人であること捨てたお前が――今はほとんど使われていないモーロ人の言葉を使う。なぜだ?」
その言葉に、彼は声をあげて笑った。顔の火傷を引き攣らせながらも、心底おかしそうにしている。
『面白い! わたしに見せてくれ! その力、本物か! お前が本当にモーロ人の英雄なのか!』
頷くアリシャール。そしてまた、彼に向かっていった。
二人の戦闘が再開した。鎧を外した彼の動きは、先ほどまでより数段階軽やかだ。そしてどこか表情は前向きだ。脱ぎ捨てたのは甲冑だけではなかった。
アリシャールのサーベルは円を描くように、横から切りつける。火傷の大男はそれを槍で受け止めた。自分の槍の柄より先に剣の刃が悪くなるという算段だ。しかし、アリシャールは躊躇わず、もう一撃を、先ほどと同じように加えた。
次の瞬間、男の槍は真っ二つに折れる。アリシャールの炎で強化された剣は、それほどの威力があったのだ。しかし、勝利を確信したアリシャールが見たのは――相手の笑顔だった。次の瞬間、彼は折れた槍を両手に構えて襲ってきた。折れた槍の先が、油断していたアリシャールの右腕を掠った。
そんな熱戦に、民衆は声を飛ばした。
「いけ! アリシャール!」「負けるな、モーロ人!」
彼らが応援しているのはアリシャールだ。フェルナンドはそれが不思議だった。なぜ、彼らはアリシャールを応援しているのだろう。先ほどまで異端として裁かれるはずだった異教徒だ。彼らもそのことに疑念を抱いてはいなかったはず。それとも彼らは、イザベルではなくフアナを支持しているのか?
「彼らはわたしを支持しているわけではありません。アリシャールに声援を送る理由はもっと単純――それは、不条理な暴力でわたしを殺そうとしたあの大男が『悪』であり、それに抗うアリシャールは『正義』だからです」
――だが、民衆の信じる正義など、いくらでも偽ることが出来る。
それがフェルナンドの考えだった。民衆は愚かで無知だ。だからイザベルが女王であっても疑わなかった。アラゴン王の自分がカスティーリャを支配しようとしていることも気付かなかった。
しかしフアナは、フェルナンドの考えを見透かしていた。
「真実が明るみになれば、嘘は意味をなくします。逆に真実は何度嘘で偽られようと変わらないのです」
見れば二本の武器を手にした大男は、連続して攻撃を仕掛けていた。まるで斬撃の嵐だ。片手での攻撃も、彼の力をもってすれば絶大だ。
「不条理な暴力には抗います。しかし卑怯で凶悪な力に、同じような力で抗うのではない。わたしは暴力には、『正義』で抗います」
次から次へと繰り出される攻撃。彼はそれが単調なものであると気がついた。交互に外から内側へ切りつけるように攻撃してくる。彼もこのような戦いに慣れてはいないのだ。
アリシャールは右からの攻撃を剣で、左からの攻撃を腕で受け止めた。槍の柄と剣と腕にぶつかり、そして弾きあう。左腕のほうは嫌な音がした。骨にひびが入ったかもしれない。
両方の武器が引いた一瞬をアリシャールは見逃さない。右下から左上へ、敵の体を焼き斬る。それは最後の一撃だった。
「最後に勝利するのは『悪』ではなく、『正義』なのですから!」
その一撃で勝負は決まった。
大男はその勢いに圧され、うつ伏せに倒れる。つかさず、彼の首筋にアリシャールが剣を突きつけた。
民衆から、歓声が沸きあがった。
「そんな。彼が負けるなんて……」
イザベルの顔は真っ青だった。彼が負けるとは思っていなかったのだ。強大な力を持ちながら服従する彼は、イザベルが持つ力の象徴でもあった。
「――イザベル」
フアナは優しく彼女の名前を呼んだ。
「わたしは知っています。残虐な女王であるあなたは嘘のあなた。本当のあなたは優しい子です」
何もいえないイザベルは必死に首を横に振った。既に女王イザベルの仮面は壊れている。
彼女は自分がこの九年間で得たものを失ってしまうのが恐ろしいのだ。
ここで自分の間違いに気が付いてしまえば、自分は多くの異教徒を追放し、虐げてきた悪人だ。いや、違う。フアナが女王になろうがなるまいが、自分が今までしてきたことが変わるわけではない。
もっとも恐ろしいのは、孤独だ。
――『あの人』は自分を救ってくれた。
――家族を失っても『あの人』がいたから、わたしは孤独じゃなかった。
――『あの人』は自分こそが女王だと言ってくれた。
――もし、その期待に応えられなかったなら。
その時フアナと目が合う。もはや心を見透かす必要さえないということか、〈慧眼〉の目ではない。イザベルを見る目に浮かぶその表情は、哀れみだ。
「あなたが女王でなければ愛してくれないのなら――それは、本当の理想の王子様ではありませんよ」
イザベルは夫の顔を見た。
彼の顔に浮かんでいたのは、諦めだった。自分のほうを見てはいない。心配はおろか軽蔑の感情ですら、イザベルに向けられていなかった。
「……う……ぁ……」
言葉にならない声を漏らし、ついに彼女は、その場に膝をついた。
そんな妹に歩み寄り、フアナは胸に頭を抱き寄せた。昔のように彼女の頭を撫でる。
「あなたはよくがんばりました。もういいのです」
この場がどこかも忘れて、彼女は夢のような心地に浸った。昔に戻ったかのようだった。それはイザベルとフアナが、家族が幸せに暮すことを夢みていた頃だ。ずっと忘れていた思い出は、甘く、そして少しほろ苦かった。
やがてイザベルはゆっくりと立ち上がる。
そして民衆に向かって、言った。
「フアナ・カスティーリャはこの国の女王たる資格が十分にある。わたしは女王代理の任を降り、名実ともにフアナ・カスティーリャを女王として認めることをここに宣言する」
それはフアナが王位を奪還した瞬間だった。