玉手箱の真実 ―乙姫が浦島太郎に玉手箱を渡した本当の理由―
「亀爺、亀爺はおらぬのか?」
透き通るようなきれいな海の中にそびえる建物。
その建物の名は「竜宮城」と呼ばれている。
その竜宮城の一室で若くきれいな少女が声を上げた。
亀爺と呼ばれた年齢を重ねた大亀は、自分の出せる歩行速度を目一杯出してその少女へと駆けつける。
しかし、悲しいかな、亀の歩く速度では少女の期待には答えられなかったようだ。
「遅いのじゃ。妾が呼んだらすぐに来いといつも言っておろうが! この役立たずがっ!!」
ヒステリックに声を上げた少女が手に持っていた一本鞭を振り下ろす。
ビシっという音が響いたかと思うと、硬いはずの亀の甲羅に傷が入った。
少女の持つ一本鞭は竜宮城に伝わる宝物であり、その気になればさらなる破壊力を生み出すことができる一品である。
そのことを知る大亀は、いかに理不尽であろうとも耐えるしか方法はない。
「申し訳ありません。乙姫様。もうしわけ、ああっ、もっと!!」
再び振り下ろされる鞭を受けた大亀が恍惚の声を上げる。
このように鞭によるお仕置きは今回が初めてではない。
いつしか、大亀はその痛みに耐えるために、痛みを快感へと変える術を身につけていたようだ。
もっとも、そのことが原因でむしろ叩かれる頻度が増えてもいるのだが。
「全く、この変態亀が。いい加減にするのじゃ。
それはともかく、亀爺には仕事を命じる。
お主は今から地上に向かい、男を連れてくるのじゃ。
ただの男ではダメじゃぞ。若くていい男を連れてくるのじゃ」
「はあ、はぁ、はぁ。
か、かしこまりました。乙姫様。
この亀爺、かならずや乙姫様のお気に召すイケメンを連れてまいります」
いつ、どんな命令がなされようとも、乙姫の命令は絶対である。
大亀はいくつもついた甲羅の傷を癒やす暇もないまま、竜宮城を出発して男を探しに出かけたのだった。
※ ※ ※
「おい、みんな、あれを見ろよ。亀が倒れてるぞ」
とある海辺で遊んでいた少年の一人がそう言うと、近くにいた同じくらいの年の子どもたちがその指差す方向へと目を向ける。
するとたしかにそこには亀が倒れていた。
お互いが見つめ合い、コクンと頷きあった。
その亀は子どもたちの体よりも大きいため怖さもあったのだが、それゆえに何があっても対処できるように全員で取り囲むようにして近づいて行ったのだ。
五人の子どもたちがその亀を囲む。
「すごい大きいな。こんなの見たことねえや」
「これって亀だよね? おばけみたい」
「ねえ、上の方を見てよ。傷だらけだよ」
その通りだった。
まるで山のように盛り上がった甲羅を見上げるようにして観察すると、その甲羅は幾筋もの傷がついていた。
岩のような分厚さの甲羅が深くえぐれている。
一体何があったのだというのか。
もしかすると、この亀を痛めつけたものがそばにいるのかもしれない。
そのことに気がつくと、無意識にゴクリと唾を飲み込んでいた。
この場にいては危険かもしれない。
そんな意識が子どもたちの間に広がった、まさにその時、後ろから声をかけられたのだった。
「おい。お前ら何やってるんだ?」
タイミングが悪かった、そう言うしかないのだろう。
その声はごく普通の若い男によって発せられたものだったにも関わらず、子どもたちは全員が飛び上がるほど驚いてしまったのだ。
そして、その内の1人が叫んだ。
「に、にげろ!!」と。
子どもたちは声の主を確認することもなく、全速力で駆け出した。
まさに脱兎のごとく、あっという間にその姿が見えなくなるほど遠くへと行ってしまった。
足を取られやすい不安定な砂浜であれ程の速度で走ることができるのは、普段からここらで遊び回って鍛えられていた足腰あってのことだろう。
そして、バババッと逃げ去ってしまった子どもたちの姿がなくなると、そこには倒れて動かない大亀と声の主だけが残されることとなったのだった。
「なんだ? 一体どうしたんだよ。そんなに驚くことないだろうに」
顎を右手の人差し指でポリポリとかくようにしてつぶやくのは子どもたちに声をかけた人物。
そのつぶやきは誰かに向けて発したものではなかったのだが、それを聞くものがここにはいた。
亀だ。
浜辺に打ち捨てられたようにして巨体を晒していた大亀はその声を聞いていたのだ。
その亀というのはもちろん乙姫から亀爺と呼ばれていた大亀だ。
大亀は海の中を泳いで地上までやってきたはいいものの、亀の頭にもいくつかあるの傷口に塩水がしみて、その痛みから今まで気を失っていたのだった。
どのくらいの時間、意識を失っていたのかは分からないが、ちょうど起きたときに声が聞こえたためそちらへと顔を向ける。
すると、亀はその両目を見開いた。
見たこともないほどの美青年が目の前にたっていたのだ。
目の前にいたのは若い男性。
この近くに住むのか、着流しのような格好をしている。
肌の色は程よく日焼けした小麦色で、服の中に収まる肉体は引き締まっている。
しなやかな筋肉がつきつつも、そのボリュームは多すぎるということもなく、スラッとしていながら力強さを感じるという芸術的な肉体だ。
さらに顔も恐ろしいほどに整っている。
サラリとした長すぎない黒髪に少し潤んだような黒目、そして髭などは今まで生えたことがないのか、むきたてのぷるぷるしたゆで卵のような肌。
長い年月を生きてきた大亀にとっても、かつてこれほどの美男子を見たことはなかった。
思わず胸がキュンとときめいてしまったのは内緒だ。
だが、さすがは年の功と言おうか、いくら驚いたところですぐに立ち直ることが出来たようだ。
これほどの美男子が他に見つかるはずもない。
大亀は自身が乙姫より受けた命令を遂行するために男性へと話しかける。
「あの、あなた様が助けてくれたのですか。ありがとうございます」
「え? 助けた? なんだ、あいつらにいじめられてでもいたのか。そいつは悪かったな。俺からあとで叱っておいてやるよ」
「ありがとうございます。あの、それで少しお伺いしたいのですが、あなた様のお名前をお聞かせ願えますでしょうか?」
「俺の名前? ああ、別にいいぜ。俺は浦島太郎だ。よろしくな、大きな亀さん」
「浦島様とおっしゃるのですか。いい名前ですね。ああ、素晴らしいお名前です。
そうだ、助けてもらったお礼をせねばなりますまい。
私がお仕えしている竜宮城へとご案内致します。
ぜひともお礼をさせていただけませんか?」
「いや、別にいいよ。そんなお礼をしてもらうほどのことをしたってわけでもないしな」
「そんなことをおっしゃらずに。
ここでお礼もせずに帰れば私は不義理な亀として笑われてしまいます。
ぜひ、お礼をさせてほしいのです」
何度も断る浦島太郎だが、それでも食い下がってくる大亀に対してついには折れてしまう。
本当に助けたと言うほどのことをしたつもりもなかったのでお礼など必要ないのだが、根負けしてしまった。
最終的には「そこまで言うのであれば」といい、大亀の言う竜宮城へと案内されることとなる。
浦島太郎は根が優しかったというのもある。
あまり人の多くない小さな村で生まれ育っただけに、人と人との付き合いで断り続けることなど出来ない性格でもあったのだ。
もっとも、今回の相手は亀なのだが、人の言葉を話しているのでつい深く考えずについていくことにしたのだが。
そうして、浦島太郎は大亀の傷だらけの甲羅の上にまたがるようにして、竜宮城へとられられていった。
傷口を触れられると喘ぐような声をだす大亀に一抹の不安を抱えながら海に中へと潜っていったのだった。
※ ※ ※
「でかしたぞ、亀爺。あれ程の男を連れてくるとは。
ろくに仕事もできんようなら亀鍋にでもして食べてやろうかと考えておったのだがな。
褒めてつかわす」
大亀が浦島太郎を連れて竜宮城へとやってきたのを見て、乙姫はたいそう喜んでいた。
海を司る竜神の一族であり、その長き歴史のなかでも絶世の美少女と呼ばれる乙姫でさえ見たことがないほどの美青年を連れてきたのだから、喜ばないはずもない。
それほどに浦島太郎は魅力的だったのだ。
遠目からひと目見ただけで乙姫の心は浦島太郎の虜となってしまった。
「まともに男も連れてこれぬとは何事だ」と亀をいじめるつもりだったのだが、もはや老いぼれ亀のことなどどうでもいいとばかりに張り切りだす乙姫。
竜宮城に仕えるすべてのものに命じて、浦島太郎をもてなす宴を開くことにしたのだ。
かつて永遠のライバルと呼ばれたかぐや姫から奪い取った天の羽衣へと着替え、宴の会場へと歩いていく乙姫。
いつもの傍若無人な姿を知るものにとっては信じられないほど緊張している。
宴のための食事を用意して運んでいた女たちはその姿を見ても、乙姫だとは信じられなかったほどだ。
「し、失礼するのじゃ。
この度は妾の配下である亀爺が世話になったようじゃの。
妾からも礼を言おう。よくぞ、亀爺を助けてくれた。ありがとうなのじゃ。
好きなだけ食べて、飲んでほしいのじゃ」
すでにもてなしを受けていた浦島太郎がいる部屋へとやってきた乙姫。
スススっと上座に座る浦島太郎の前に出て、流れるような動きで腰を降ろしたかと思うと、指をついて頭を下げた。
腰よりも長いサラサラの髪が垂れる。
それを見て浦島太郎は息を忘れたかのように乙姫を見つめる。
浦島太郎は幼いときから小さな村でしか生活したことがない。
すでに、これまでに出された料理やお酒だけでも驚きっぱなしであったのだが、そこに乙姫が現れて思考回路が停止してしまった。
幼さの残る、けれど大人の女性の一歩手前の美少女。
鼻筋がスッとしていて、唇は少し肉厚でプルプルと震えている。
眼は二重になっており、そのクリクリとした黒目は愛らしい。
床についた指の先は綺麗に整えられた爪が伸びていて、その指は洗い物などしたことがないというのが分かるほどきれいな肌だ。
そんな幼さのある少女ではあるが、肉体はあなどれない。
抱いたら折れてしまいそうなほどの細い腰だが、その上には豊かな胸が備わっている。
大人と少女のいいところを両方持つような、まさに成人男性にとって理想の女性像とでも言うべき女、それが乙姫だったのだ。
あまりの美しさに驚くなという方が無理だというものであろう。
「ささ、浦島殿。どんどんお飲みくださいませ」
そう言いながら酌をしてくれる乙姫に見惚れながら、浦島太郎は竜宮城での歓待を大いに楽しんだのだった。
※ ※ ※
「あの、乙姫様。そろそろ家に帰りたいのですが」
浦島太郎が竜宮城へとやってきて数日が経過していた。
あれから、浦島太郎へと歓迎の宴は毎日ずっと続いている。
朝から晩まで今まで食べたことのない美味しい料理とお酒、美しい芸者による舞などの見世物は浦島太郎を大いに楽しませていた。
だが、もともとは毎日遊ぶこともなく仕事を続ける生活をしていた浦島太郎にとって、その生活はどこか現実味のないものでもあったようだ。
そろそろ家に帰って働かないといけない。
それに家には最近腰を痛めた父などの家族が待っている。
働き盛りの浦島太郎がいつまでも遊んでいるわけにはいかないのだ。
そう考えたからこその帰宅発言だった。
「気にすることはないのじゃ。
ここを自分の家と思って、ゆるりと過ごすと良いのじゃ」
だが、それを聞いた乙姫は言葉通りには受け取らなかったようだ。
きっと、宴の盛大さに驚いて遠慮しているだけだろうと考えているようで、浦島太郎の発言は真面目な美青年の謙遜のようなものと考えてしまっていた。
そもそもの話として、乙姫は自らのような美しい女性がそばにいるのにそこからいなくなるなどということは考えられなかったに違いない。
何と言っても、今この瞬間も乙姫は浦島太郎へしなだれかかるようにしてピッタリと体をくっつけているのだ。
もはやこの男と片時も離れることはないと言わんばかりである。
「いや、すみません。
ほんとにもう帰らないといけないんですよ。
妻も心配しているでしょうし」
その言葉が乙姫の耳に届いたとき、宴の会場となっている大広間にピキリと何かが割れるような音が響いた。
浦島太郎以外のその場にいる全員の顔が青ざめる。
舞を踊っていたものも、楽器を奏でていたものも、配膳をしていたものも、すべての眼が乙姫へと向けられる。
それと気づいていないのは、浦島太郎ただ1人のみだ。
「そ、そうじゃったのか。
それはすまんことをしたのう。
妾も悪いことをしたものじゃ。
ならば、明日にでも亀爺に送らせるように言っておくのじゃ」
全員が固唾を呑んで見守っている中、その予想に反して乙姫は落ち着いた様子で浦島太郎へと返答している。
どういうことだろうか。
あのヒステリックな乙姫が随分とおとなしいではないか。
みんながそう思っていた。
なぜなら、この数日の歓待の宴の間だけでも「浦島太郎へと色目を使った」と言われて処分されたものがたくさんいるのだ。
癇癪を起こした乙姫が浦島太郎ごと、この場にいる全員を亡き者にしても誰も何も言えない。
だが、乙姫はそれからは浦島太郎を引き止めることこそなかったものの、終始笑顔でもてなし続けていた。
※ ※ ※
「そうじゃ、浦島殿。
地上へと帰る前にこれを渡しておこう。
おみやげに持って帰るのじゃ」
翌日、朝になって浦島太郎が大亀に送られて地上へと帰る直前に、乙姫が浦島太郎に声をかけた。
手に持つ物は艶やかな黒色の箱に赤い紐がくくりつけられている。
「乙姫様、ありがとうござます。
これは何でしょうか?」
「これは玉手箱というものじゃ。
この竜宮城に伝わる宝物のひとつじゃな。
じゃが、注意点がある。
これは決して開けてはならんのじゃ。
よいか、浦島殿。決して開けてはいかんぞ」
開けてはいけないものをお土産に渡してくるというのはどういうことだろうかと頭を悩ませた様子の浦島太郎だったが、素直に頷いている。
ここに来てからは何不自由なく、最高のもてなしを受けてきたのだ。
今更、変なものを押し付けてくるわけがないだろうとでも考えたのだろう。
「分かりました」と言いながら、大事そうに玉手箱を受け取って、亀の甲羅にまたがった。
浦島太郎は竜宮城にいる大勢から手を振られて、それを何度も振り返りながら地上へと戻っていったのだった。
行きと同じように海中を移動して、しばらくすると水の中から顔を出す。
きれいな青空が広がり、その先には砂浜が広がっていた。
わずか数日とはいえ、その砂浜のことを忘れるはずもない。
ここは間違いなく、浦島太郎の地元近くにある砂浜だった。
その砂浜に到着すると大亀に降ろしてもらう。
太陽の光で熱くなっている砂の上に立つと、ウーンと伸びをして体をほぐす。
たった数日だというのに随分と久しぶりに帰って来たようにも感じるのだろう。
早く家に帰りたいという気持ちが膨れ上がったのか、その伸びが終わると同時に浦島太郎は足早に歩き始めた。
「だれだ、おめえ? ここはおらのうちだっぺ」
「は? いや、そんなわけないだろう。ここは間違いなく俺の家だぞ。俺の家族をどうしたんだ! 何勝手に人んちを使ってんだよ」
だが、家についた浦島太郎を待っていたのは仲の良い父でも最愛の妻でもなかった。
全く見たこともない男が、我が物顔で生活している。
普段は温厚な性格だが、さすがに急な展開で浦島太郎も声を荒げてしまった。
その声が聞こえたのだろうか。
村のあちこちからこちらの方を伺う人が何人かでてきて、こっちに近づいてくるものもいる。
だが、この村人も浦島太郎にとっては味方にはならなかった。
なぜなら、その人物も見たことのない男だったからだ。
おかしい。
小さな村で共同体のように生活してきた浦島太郎にとって、村の中で見たこともない人が何人もいるはずがない。
浦島太郎が「どういうことなんだ」と考えても答えは出てこない。
「どうしたんよ。何の騒ぎだ?」
「ああ、聞いてくれよ。この男が、ここは自分の家だって騒いでんだべ」
「自分の家だぁ? あんた、なんかの間違いじゃねえのか? ここはこいつ、田吾作の爺さんも、そのさらに爺さんも住んでた家だべさ」
「な……そんな馬鹿な……」
思わず口をつぐみそうになってしまった浦島太郎だが、なんとか反論をしていく。
だが、他にも騒ぎを聞きつけてやってきた村人たちも、この家は間違いなく田吾作なる人物の家であると証言していく。
それと同時に、集まった村人は浦島太郎にとって誰ひとりとして見たことがないのだ。
ここが浦島太郎の住んでいた村なのかさえ怪しくなってきた。
そう思って家や畑などを見てみるとたしかに多少の違いがあるようにも見えてくる。
が、村から見える海や山などの景色は生まれてからずっと見てきた浦島太郎の記憶の中にあるものと同じだ。
村の中の人間はすべて入れ替わっているが、村の場所は同じであるということになる。
もう浦島太郎には何が起こっているのか、さっぱり理解できなかった。
暫くの間は呆然と立ち尽くしてしまう。
しかし、その姿を見て手を差し伸べてくるものもいた。
「あの、お兄さん。住む家がないならうちに来ない?」
「ちょっとあんた。何抜け駆けしてんのよ。
兄ちゃん。うちに来るといいよ。
うまい飯を食わせてやるから」
「あんたも馬鹿言ってんじゃないわよ。
あんたの料理なんかまずくて食えたもんじゃないさね。
ほら、兄さんも元気だしなよ。あたいが一晩中でも慰めてあげるからさ」
あっという間に村中から集まってくる女性たち。
若い娘から夫を亡くした妻のほかにも、老人から子どもまでもが浦島太郎を取り囲んでいる。
左手にはいまだ穢れを知らないであろう少女がガッシリと手を握って体を寄せていた。
だが、さすがにそのような言葉につられてついていくほど浦島太郎は軽い男ではない。
どこかで、家族や愛する妻が浦島太郎の帰りを待っているはずなのだ。
なんとか、礼をいいつつもその誘いを遠慮して、浦島太郎は村を出た。
とにかく、家族を探さなくてはならないと、付近の村にも足を運び手がかりを求めにいったのだった。
※ ※ ※
その後、幾つかの村を回って話を聞いていった浦島太郎だが、それは恐ろしい現実を突きつけられただけだった。
ここは間違いなく彼の地元である。
であるのに、浦島太郎の住む村どころか、隣村などをはじめとしてすべての村から知り合いがいなくなっていたのだ。
思い出せる限りの人を訪ね歩き、知っている名前がないかどうかを聞いていったのだが、そのほとんどが徒労に終わった。
だが、最後にようやく、現状を知る手がかりを手に入れることに成功した。
それはこの地を治める家のことについてだった。
その家がここらの村を治めているのだが、その当主の名が違ったのだ。
浦島太郎の知る当主の名前を持つ男は確かに存在したが、それははるか昔のことだったらしい。
つまり、ここは浦島太郎が住んでいたときからもっと時間が経過した場所なのだということが分かった。
このことに気がついたとき、浦島太郎は絶望した。
体を痛めた父はどうなったのだろうか。
愛した妻はきちんと生活できたのだろうか。
自分が竜宮城での歓待の宴を楽しんでいる間、どれほど家族が辛い思いをしていたのかと考えると、それだけで浦島太郎は胸が張り裂ける思いがした。
それからどれほどの時間が過ぎたのだろうか。
もはや浦島太郎には時間の感覚さえわからなくなっていた。
気がついたときにはすべてを失っていた。
あまりにもその残酷な現実は到底彼の心に受け入れられなかった。
だが、そこでふと手にある重みに気がつく。
それは漆黒の箱だった。
表面は傷一つなく、ツルツルに磨き上げて艶のある塗料で塗り上げている。
箱のふちの部分は高級そうな金色になっており、その箱が開かないように締め上げている赤い紐もよく見ると上等なものだった。
「この箱は開けてはならない」
竜宮城でこの箱を手渡した乙姫はそう言っていた。
そういうということはそれだけの理由があるのだろう。
だが、現状を打破するには「なにか」が起こらなければならない。
何故か自分が住んでいた時間とは別の村へと帰ってきてしまっていた浦島太郎は、頼れるものが竜宮城しかなかったのだ。
浦島太郎は今もまたあの大亀が姿を現さないだろうかと考えて、何日も砂浜に座って海を眺めている。
それでもその姿は一向に現れないため、ついにその約束を破ってでも「なにか」が起こることを期待したのは、仕方のないことだといえる。
パカリ、と玉手箱を開けた。
浦島太郎がおそるおそる箱の中を覗いた。
だが、玉手箱の中には何もなかった。
どういうことだろうか、と浦島太郎が箱を持ち上げていろいろと調べてみようとしたその時、モクモクと煙が発生した。
浦島太郎は周りを見ることもできなくなってしまい、狼狽している。
玉手箱を地面へと投げ捨てて、煙を振り払うように手を振っているがそれは実現しない。
しばらくの時間、煙はモクモクと出続けていた。
その時間は短かったのか、それとも長い時間だったのか。
それは誰にも分からない。
だが、ようやく浦島太郎の周りから煙がなくなる。
そして、ホット一息吐いた浦島太郎が異変に気がついた。
腕だ。
浦島太郎の腕がしわしわになっている。
あれほど芸術的な肉体美を誇っていた浦島太郎の体は全身がシワだらけとなり、さらに筋肉も落ちていた。
ガクリと、膝から崩れ落ちる浦島太郎。
息はゼーゼーとかすれて目も良く見えない。
なんとか這いずるようにして移動し、近くにあった桶に水を汲んで覗き込んでみると、信じられないものが映し出されていた。
老人だ。
覗き込んだ桶の水面に映っていたのは、浦島太郎が見たこともない老人の顔だった。
だが、腕を動かしてその顔を触る動作をしているのは、間違いなく浦島太郎の腕だ。
そう、ここに映し出されている老人は浦島太郎その人だったのだ。
「ヒューヒュー」とかすれた声が響く。
老人の顔がさらにどんどんと老けていく様子を水面は映し続けている。
加速する老化。
「そんな……馬鹿な……。ちくしょう」
かすれた声で、かすかに聞き取れるかどうかという音量で浦島太郎がつぶやいた言葉は不可解な自分の現状を呪う言葉だった。
※ ※ ※
「それで亀爺。玉手箱はきちんと回収できたのじゃろうな?」
「はい、乙姫様。間違いなく、ここにございます」
大きな亀が指のない前足を器用に使って玉手箱を差し出す。
それは漆黒の箱で、乙姫が浦島太郎へと渡したものと同一の箱だった。
その箱を受け取った乙姫は、何のためらいもなく箱を開ける。
中からはモクモクと煙が出てきた。
「スーハースーハー。
うーむ、やはり浦島ようなきれいな男の精気は美味いのう。
数百年分は若返ったのではないかな?」
玉手箱から出てくる煙を全身に受けながら、それでも取り乱すこともなく、むしろ気分が良さそうに深呼吸をしている乙姫。
浦島太郎のように肉体が老化していくことはなかった。
いや、その表現は正確ではないのかもしれない。
竜宮城に伝わる宝物のひとつである玉手箱は、最初に蓋を開けたものから精気を吸収する効果があるのだ。
つまり、浦島太郎が玉手箱を開けた際に周りに広がった煙は玉手箱の中から出てきたものではない。
箱を開けたことを条件として「浦島太郎の体から出てきた煙」を玉手箱が箱の内部へと吸収したのだ。
体から出る煙というのは「若さ」や「美貌」などの要素を抽出したものだ。
この若さや美貌を抜き取った煙を玉手箱へと取り込み、次に箱を開けたものはその精気と呼べる煙を吸い込むことで美しく若々しい姿を保つことができる。
事実、この玉手箱の能力を使うことで乙姫は数えることも出来ない程の長い年月もの間、その美しさを保ち続けているのだ。
「さて、亀爺よ。また、男を探しに行ってもらおうかの。
今度はもっといい男を連れてくるのじゃぞ」
竜宮城に住む絶世の美少女乙姫の男探しは終わることなく今日も男を探し続けている。