東部戦線への出向
砲手席に座る。
ここに座るのは、およそ三ヶ月ぶりだろうか。
パッド付の照準器を覗く。
このⅣ号戦車H型442号車は、倉庫に眠っていたほぼ新品の戦車で、埃で汚れておらず、罅もはいっていない、まっさらな照準器だ。
砲塔旋回ハンドルはやや硬い。あとでオイルを差そう。仰角調整ハンドルの動きは滑らかだった。
床の同軸機銃のペダルを踏む。カタンという空撃ちの音がした。
砲の発射レバーもピカピカで、あとで刻み目をつけてサンドペーパーで磨く必要がありそうだ。そうしないと、汗ですべる。
塗ったばかりのペンキの匂い。
グリース油の匂い。
いわゆる新車の匂いが、この442号車からしていた。
弾薬ケースを担いで、砲塔の側面ハッチから、若い兵士が入ってくる。
支給される砲弾を受け取りに行っていた、装填手だ。
頭に叩き込んでおいた資料だと、こいつはリヒャルト・テッケンクラート二等兵。戦車兵訓練所から出てきたばかりの新兵だが、訓練所の成績では主席。問題児やいわく付の人物が多いこの『ならず者小隊』では珍しいまっさらな経歴の男だった。
「あ、ども。砲手の方ですね。私は、二等兵リヒャルト・テッケンクラートであります」
と、俺に挨拶してくる。真面目そうな奴だ。
「おう。砲手をやるディーター・クラッセンだ。よろしくな」
と、照準器に目を向けたまま、応じる。
沈黙が流れた。
何事かと装填手の方を見たら、鼻筋にそばかすが散った赤毛のひょろっとした男が、ぽかんと口を開けて、こっちを見ていた。こいつが、主席卒業者のテッケンクラートらしい。
「もしや、あのディーター・クラッセン軍曹でありますか?」
などと、要領の得ない事を言ってくる。
「どのディーター・クラッセンが知らねぇが、俺はディーター・クラッセンだよ」
顔を紅潮させて、しゃっちょこばる装填手は、ガツンと頭を壁面にぶつけた。
「し、失礼しました。私の兄がアフリカ軍軍団におりまして、『砲撃の名手』のお噂を聞いていたものですから」
俺は「そうかよ」と答えて、照準器の調整に戻る。
「ンガディシオ渓谷。その戦場に、兄も居ました」
ンガディシオ渓谷。
水の無い、乾いた砂の河。
迫ってくる英国軍。
後方には、補給基地。
その進路を遮るのは、俺が乗っていたⅣ号戦車とその僚機二台のみ。
英国軍はクルセーダー巡航戦車六台とマチルダ歩兵戦車が合わせて十二台。随伴歩兵は、およそ一個中隊ほどだっただろうか?
俺たちは、地形を巧みに使って、その進行を半日にわたって食い止め、補給基地の撤収までの時間を稼いだのだった。
その戦闘で、俺の乗っていたⅣ号戦車は、クルセーダー巡航戦車を五台、マチルダ歩兵戦車を三台撃破した。
だが、飛び込んできた機関砲弾によって、仲間はみなミンチになってしまい、俺だけが奇跡的に無傷で生き残ったのだ。
いい奴から死んでゆく。卑怯者と悪運が強い者だけが生き残るのだ。死んだ奴らこそが英雄で、俺はそれに含まれない。
「兄は、補給部隊に居て、クラッセン軍曹が時間を稼いでくれたおかげで、逃げることが出来たと言っていました。あなたは、ヒーローです」
やめろ! 俺はそんなんじゃない。
だが、言葉は出なかった。敗色が濃い独軍。そんな時に徴兵された若者は、何か縋る者が欲しいのだ。
「あ、そろそろ、集合時間ですよ。行きましょう、軍曹」
俺らの親玉になるパイパー中佐の訓示が始まる。
ポルシェ・ティーガーの乗員五名、Ⅳ号戦車の乗員五名、山猫の乗員四名、BMW R75のメンバーが合計六人。この二十名が、『ならず者小隊』の構成員となる。
パイパー中佐は、正直に戦況は悪化していると告げた。
景気のいい大げさなニュースで、士気を鼓舞するのも限界に来ているのだろう。それほど、ノルマンディに上陸されたのは痛かったのだ。
独軍はずるずると後退している。
仏国は、ほぼ奪還されていた。独国の同盟国である墺国の国境にも、米軍を中心とした連合軍が迫っていて、頑強に抵抗していた伊国北部の部隊も、降伏は時間の問題だった。
「東部戦線が停滞するのは、冬だ。戦車の履帯ですら噛まないべちゃべちゃの雪が降るのだよ。物量で押す彼奴らには鬼門なのさ。つまり、短期間だが、二正面作戦を余儀なくされていたわが軍は、背面を気にせず、前面の敵に集中できる。その時期を狙って、補給線が伸びきった連合軍を叩く。戦場は、航空機支援が届きにくい『アルデンヌの森』。ここにくそヤンクスを誘い込み、機甲部隊の戦とはどういうものか、再教育してやろうではないか」
まったく、うちの大将は煽るのが上手い。英雄の素質ってやつか。
山猫の悪童ども、うちの装填手の顔を見てみろ。心酔していやがる。
「およそ三週間の演習。その後、後退する東部戦線の援護と督戦のため、ポーランド方面へ一時的に派遣される。そこで、実戦テストをしてくれたまえ。帰還は十二月初旬だ」
パイパー中佐は、「百の演習より一の実戦」という考えらしい。
精鋭のSS機甲師団とは名ばかり。寄せ集め所帯であることを、理解している。そこで、実戦を経験することによって、仲間同士の協調や、実戦での『戦の勘』を育んでもらおうというのだろう。
問題は、欠乏する燃料と弾薬だが、この第一SS機甲師団は、物資の優先補給が受けられることになっており、他の部隊よりは多少マシな状況だった。
演習といっても、手押し車に乗り、砲撃演習は発砲音を『口真似』でやるというのだから呆れる。
いい歳をした兵隊さんが「ばーん」「ばきゅーん」とか言っているのを想像すると、情けなさに泣けてくる。
戦車兵の質の低下が問題になっているが、この体たらくでは……な。