震える手
まるで軽騎兵の『輪乗り』の様に、奇声を上げて山猫の悪童たちが潜んでいた藪の中から走り出て来て、その場でぐるぐると回っている。
通信機から女性器に関する卑猥な歌を、彼らが合唱しているのが聞こえた。
「馬鹿野郎ども、トラックの護衛はどうした!」
マイクに向かってテルオー曹長が怒鳴る。
「え~あ~、エンジンにトラブルがありましてぇ~、修理していたところ、たまたま交戦中の442号車を発見。そのまま、伏撃を行う事にしてのでありま~す」
間延びした声で、悪童どもの頭グッテンマイヤー伍長が応じる。
白々しい言い訳を聞いて、『山猫』の連中がどっと笑ったのが聞こえる。
まるで麻薬患者の禁断症状の様に、ブルブルとテルオー曹長の手が震えていた。顔色が悪く、唇もわなないていた。
俺は、砲手席から身を乗り出して、テルオー曹長の手からマイクを取り、
「糞ガキども、馬鹿騒ぎは終わりだ。位置に戻らんと、ケツを蹴り上げるぞ」
と言った。
またもや、連中から奇声が上がって、
「黒豹にケツ噛まれるぞぉ」
「いや~ん! こわ~い! にげろぉ~!」
などと言いながら、瞬く間に走り去ってゆく。まったく、馬鹿どもめ。
「余計な事してすんません。奴ら同郷なもんで」
そう言いつつ、マイクをテルオー曹長に返す。彼の様子が少し気になったが、今は後続のT-34とKV-1に追いつかれない事が肝要だ。
加熱した砲身が、寒風に冷やされてキンキンと音を立てている。
よくぞ無事で切り抜けたものだ。
照準器で戦場を見渡す。
破壊されたBT-7とM5A1スチュアートの残骸が、荒涼とした露国の大地に横たわっていた。
俺は死を対価に居場所を作った男だ。
の結果がこれだ。
「お見事でした」
装填手のテッケンクラート二等兵が、袖で汗を拭いながら言う。
こいつは何もわかっていない。
大学出の坊ちゃんには、これがゲームか何かに見えるのかも知れないが、現実だ。
「ところで、『黒豹』って何です?」
そんな呑気な事を聞いてくる。
―― 煩わしい
コイツに罪は無いが、俺が思ったのはそれだ。
「うるせぇ、口つぐんどけ」
後ろ前に被った軍帽を、鍔を前にかぶり直しながら、ぶっきらぼうに答える。
「よし、Uターンして向きを直せ。クラッセン軍曹は後方警戒。戦車、前進!」
普通の様子に戻ったテルオー曹長が、淡々と命令を下す。
俺は、旋回ハンドルを回して砲塔を後ろ向きにしながら、懐のふくらみに、今になって気付く。
鉱山技師の居留地で拾った熊のぬいぐるみだった。
落とさない様に、懐にねじ込んだのだが、顔だけが上着に合わせ目から出ていたのだ。
「一緒になって、砲撃していたみたいでしたぜ、その熊公」
俺の方を見ないで、通信士のメリエ伍長が言う。
見下ろしたそれは、俺の目から見ても、心なしか凛々しい顔に見えた。
「戦場を潜ったからな。男になったんだろうよ」
なるほど、この無理な出向は、パイパー中佐の不安の表れか。
本番前に、実戦の勘を戻させる意図があるのだろう。
俺の様な復帰組には、昔の勘を。
テッケンクラート二等兵の様な実戦不足には、更なる経験を。
キンキンと砲身の鋼が冷えてゆく。
砲は人を殺さない。
その後ろにいる兵士の意思が、敵を殺すのだ。
俺は殺し過ぎた。
俺の両手は血まみれだ。
積み重なる「死」が俺の居場所を作る切符ならば、ずっと俺は殺し続ける。
誰かの意思が、俺を殺すその日まで。
軽戦車たちが墓標となった戦場が遠くなってゆく。
たなびく黒煙は、まるで野辺の送りのようだった。
敵の本隊に追いつかれることなく、我々は安全圏に逃れた。
カルガモ作戦の要、LWSと橇はなんとか合流地点にまで辿りつき、民間人救出の一連の作戦行動は終わったのだった。
鉱山技師はトラックに、トラックの荷物は橇に、入れ替えの作業が行われている。
俺は、しばらくの間相棒だった熊のぬいぐるみを持って、その作業場に向っていた。
「あ、シュタイフ!」
小さな女の子が一人、俺の方に駆けてきた。
俺はしゃがみこんで、その熊のぬいぐるみを差し出す。
「君のかい?」
俺の近くに来た途端、もじもじと人見知りした少女に、俺はとても居心地が悪い。
「こいつ、戦車に乗ったんだぜ」
少女の方にぬいぐるみを差し出しながら、言葉を繋ぐ。
BT-7と撃ち合った時より、尻の据わりが悪い。
「本当!」
下を向いて、靴先で地面を捏ねていた少女が、やっと俺の方を見て、目を輝かせる。
「ああ、一緒に悪い奴らをやっつけた、英雄だよ」
俺は思いついて、第一SS機甲師団の徽章を熊の赤い短衣に留める。
「こいつは、勲章だよ」
少女が、熊のぬいぐるみを抱きしめる。
「すごい、すごい、勲章だって!」
遠くで、心配顔でこっちを見ている若い母親が居た。
俺は安心させるように、彼女に微笑む。
母親は、真っ赤になって俯いてしまった。
「ありがとう、おじさん!」
少女が駆けて行く。
おじさんか……。
彼女の母親が、俺に向って頭を下げた。
俺は、軍帽にちょっと手をやって、それに応えた。
「後家殺しっすね」
いつの間にか近くに来ていた『山猫』の頭目、グッテンマイヤー伍長が呟く。
「そんなんじゃねぇよ」
立ち上がって、伸びをする。
緊張の連続だったので、背中が強張っていた。
「いいタイミングで来てくれた。助かったよ。ありがとうな」
山猫が命令違反してでも駆けつけてくれなかったら、442号車は損傷を受けていた。
退却戦の途中で擱座するのは、撃破と同意語だ。
「や、やめてくださいよ。そんな人じゃあないでように」
戸惑う悪童に、裏拳を打つ。
「どんな人だと思っていやがる」
大げさに痛がるグッテンマイヤー伍長に言う。
「……で、どうでした? テルオーのクズは?」
何しに俺の所に来やがったと思ったら、心配していたのか。悪ぶってるくせに、色々と気を使う奴だ。テルオー曹長より早く禿ちまうぞ。
「普通に、有能な車長という印象だな」
手の震えを思い出す。それが、棘の様に刺さっていた。
悪童どもの無礼な態度に怒っていたのか、それとも別の理由があるのか……。
「そうですか。まぁ、警戒を怠らない様にしてくださいよ」
口に咥えた爪楊枝をぷっと吐き出しながら、薄く笑ってグッテンマイヤー伍長が立ち去る。
悪童を見送りながら、腰のワルサーP38のグリップに指を這わせる。
「シュトライバー大尉さんよ。アンタならどうするね?」
俺の呟きは、露国のどんよりした空に消えて行った。