終わりの始まり
息が詰まっていた。
ぶん殴られた鼻から、大量の鼻血が流れていて、呼吸ができないからだ。
ドブの悪臭を放つ水で、いつもジクジクと濡れている地面に接している背中が冷たい。
匂いは最悪だが、殴り回されてカッと節々が熱い体には、なんだか心地よかった。
鼻から息が出来ないから、口で呼吸をする。
荒呼吸とともに零れたのは、笑い声だった。
「ざまぁ、見やがれ」
そう一言つぶやくと、また笑う。
汚い地面にズダボロになって転がっているのは、一人の少年だった。
やせっぽちだが、背は高く、十四歳という年齢より大人びて見える。
服は古着だが、彼にとっては晴れ着だった。
今日は、学校の転入初日。
ちょび髭伍長から独裁者に成り上がった男の肝いりで始まった、『優秀な男子を養育する学校』に晴れて入学する日だったのだ。
彼は、私生児。
父親は誰だか知らない。
母親は、洪国から流れてきた旅芸人の女優。混血だが、ジプシーの血が濃く出ていた女性だった。
その少年は、その母親とそっくりだった。大きくウエーブした黒髪が特に。
『優秀な男子を養育する学校』は、アーリア人こそが至高の民族であるという、『優生学』を標榜した教育方針で、金髪碧眼の子弟が多かったのだ。
整った顔立ちとはいえ、黒髪の少年は、いわれもない差別を受ける可能性があり、事実、それは実行されたのであった。
貧民街出身という事も、差別を助長していた。制服が、古着だったという事も。
「薄汚いジプシーめ!」
「淫売の子!」
「貧乏人!」
「ここで、生きていたければ、這いつくばって靴を嘗めろ!」
そんな言葉で罵られながら、殴ったり蹴ったりされたのだ。
だが、少年は屈しなかった。
哀願もしなかった。
泣かなかったし、恐怖の色も見せなかった。
上級生ばかりであったにも関わらず、手足が動く限り、戦ったのだった。
地面に倒れたが、心は折れていない。
むしろ、死にもの狂いの抵抗にあって、怯んでいたのは、上級生たちだった。
彼の「ざまぁ、見やがれ」は、彼らの怯えた目に対して上げた凱歌だ。
仰向けに倒れた少年の視界からは、左右にのしかかるように、黒々とビルが建っていた。
しょっちゅう逆流する下水が、発酵して熱を出し、マンホールの隙間から湯気を出している。
貧民窟。
ここは、そう呼ばれる場所で、少年はここで育ったのだ。
ビルの隙間から空。
こんな薄汚い街でも、仰げばこんな青い空を見ることが出来る。
少年は、空に手を伸ばした。
―― 遠い ――
美しく青い空は、あまりにも遠い。
少年は、空に向かって差し伸べた手を、握り拳に変えた。
「いつか、こんなところ、抜け出してやるからな」
青い空へ。
陽の当たる場所へ。
自分が必要とされる、どこかへ。
少年の名は、ディーター・クラッセン。
後に『砲撃の名手』と呼ばれる砲手になる少年だった。
************************************************************
どこかで、殷々と砲声が響いていた。
まるで、遠雷の様に爆撃の炎が上がり、煌めいてゴロゴロと爆発音が巨竜の唸り声の如く響いている。
地上からは、アイスキャンディを思わせる曳光弾。
空で何かが光ったのは、高射砲に爆撃機が墜落炎上したからだろうか。
昼間荒れ模様だった天候は、いまは沈静化している。
空には星と月。
時化模様の風に空気が洗われたか、海を走る戦車である珍兵器『ペンギン』の新しい本拠地である港町メール・レ・バンまでおよそ五十キロの地点のこの海岸線は、奇妙なほど空気が澄んでいた。
『幸運の七番』こと、俺の乗機P-07の燃料は尽きた。
姿勢を制御する小さな水中翼も折れた。
砲弾は全て使い切った。
砲身は焼けて、グリースが流れてしまっていた。
照準器はひび割れ、もう役に立たない。
装填手のバウムガルテンは、細かい鉄片を顔中に浴びて重傷を負った。
指揮官のシュトライバー大尉の左足は、ほとんど千切れかかっていて、これもかなりの重傷だ。
俺の背中は、シュトライバー大尉の血を浴びて、それが乾きパリパリと音を立てている。そして、鉄くさい匂いがしていた。
最後にP-07から降りてきたのは、操縦手を務めたコンラート・ベーア曹長だった。
針金で舵を固定し、自爆装置を作動させてきたのだった。
本来は、シュトライバー大尉の仕事なのだが、彼はまともに立てない。従って、この嫌な役目は次席指揮官のベーアの役目だった。
まるで、咳き込むようにエンジンが唸った。
この鋼鉄のペンギンが、まるで意思を持っていて、別れを告げたようだった。
「あばよ、相棒」
思わず、別れの言葉が口をついていた。
はじめてコイツを見たときは、絶望しか感じなかった。
独軍の使役馬と呼ばれる傑作戦車、Ⅳ号戦車に無理やり浮きをつけて海上に浮かべただけの機体に見えたのだ。
だが、俺はこれに乗り、戦った。何もかもが手探りだったが、奇妙なことに俺は楽しかったのだと思う。
俺は、戦車兵。海は専門外だが、航空支援もないまま敵の補給線を断つという、困難な戦を戦い抜いたのだ。
備砲の癖も、自分のものにしていた。いつしか、この醜悪な陸海の混血児には愛着が湧いていた。座席の固ささえ、もう懐かしい。
腑抜けた海軍野郎だと思っていた、シュトライバー大尉も航海士あがりのベーア曹長も、今では戦友と言える。
だから、声を殺して泣いているベーア曹長に気付かない振りをしてやることが出来た。
船乗りにとって、船は我が家。文句ばかり垂れていたベーア曹長も、いつしか『ペンギン』に愛着が湧いていたのかもしれない。
戦車乗りにとっても、戦車は我が家のようなもの。
俺みたいな、寄る辺なき根なし草にとっては、特に。
ゆらゆらと漂うように、沖に進むP-07。
月が海面を照らし、その光の絨毯の中を進む鋼のペンギンを見ていると、不意に視界が霞んだ。
慌てて、袖口で涙を拭う。
一緒に戦った連中は皆死んでしまった。
絶対死なないと思っていた不死身の男、僚機P-08の艇長バウマン大尉も、火焔の中に沈んだ。
陽気だった、彼の部下とともに。
まるで子供だった新兵たちも死んだ。
虚しさだけが、俺の心に乾いた風を吹かせる。
鈍い爆発音。
一度だけ、P-07が月光の中で跳ねた。そして、あっという間に沈んでゆく。
結局、ノルマンディーの上陸作戦は、連合軍側の勝利に終わった。
欺瞞作戦に踊らされ、カレーとノルマンディーに兵力を二分してしまったのが、敗因。
ついに、本土に上陸されてしまった。
堀は越えられてしまった。
あとは、内陸での戦いが続くだろう。
負傷兵を輸送するトラックに、上手い事乗せてもらった我々は、メール・レ・バンに半日かけて辿りついた。
主戦場から離れていたここも、爆撃だけはされたようで、ペンギンの作戦本部に割り当てられた漁協の建物は跡形もなく消え失せ、ペンギンの総指揮官である、威張りくさったSS野郎のホフマン大佐は「報告のため」と称して、さっさとベルリンに行ってしまったらしい。
さすが、エリート様だ。逃げ足は天下一品ってところか。
指揮官代行として残っていたのは、兵站を担当する胃痛持ちの士官で、彼は撤収の作業に追われていた。
先行して帰還させたはずのP-21はここにはおらず、誰も口には出さないが、どこかで撃沈されたのだろうと、思っていた。
おふざけ野郎の機銃手エーミール・バルチュ伍長は、
「異世界に転移したんだぜ、きっと」
などと言っていたが、その気持ちは分かる。どこかで彼らが生きているのだと信じたいのだ。どこか、子供じみたところのあるバルチュ伍長は、彼ら少年兵の『近所の悪いお兄さん』的な存在で懐かれており、彼も少年兵たちを可愛がっていた。だから、悲しくて仕方ないのだ。
乗機を失った我々は、することがなくなってしまった。
ベーア曹長は、顔面全体を負傷し失明の恐れがある装填手のバウムガルテンの入院手続きをし、その軍医の紹介でドレスデンにある眼科専門医に診察してもらうように交渉していた。
アルフレード・シュトライバー大尉は、千切れかけた左足の神経を繋ぎ合わせ、血管を結ぶ大手術を受け、何とか切断という事態は免れたらしい。
ただし、障害は残るらしいので、このまま軍務を続けられるかどうかは微妙だろう。
ほどなくして、ペンギンのP部隊は解散ということになり、ベルリンに逃げ……じゃなかった、報告に行ったホフマン大佐が何か手腕を発揮したのだろう。
さすが、エリート様だ。今後、ペンギンが活躍する場がないのをお見通しとはね。
たった三人だけ残った、ペンギン部隊の生き残りには、それぞれ転属命令が届いた。
バルチュ伍長は、国防軍の防空部隊へ。
ベーア曹長は、准尉への昇進辞令と士官の教育課程への命令書が届いた。
俺は、武装親衛隊のエリート部隊『第一SS機甲師団』への転属命令が届いた。反抗的だった俺が、武装親衛隊入りとは恐れ入るが、えり好み出来ないほど、人員不足という事なのだろう。
俺は、再び戦車乗りに戻るらしい。
お約束通り、第一話を十二月中にお送りします。
滑り込みセーフでありますが、十二月は十二月ですぜ(悪い顔
正月三賀日はINが難しいので、続きはそれ以降になります。
初のスピンオフ作品ですが、楽しんで頂ければ幸いであります。
それでは、良いお年を!