過去と未来と 2
椿の体がふわりと浮かぶ。
大和も風を纏い、空へと舞い上がった。
少し高く飛ぶくらいならともかく、高度を保ったまま移動するというのは、見た目以上に困難だった。
「集中力が途切れる前に言って下さいね。いきなり長距離の移動は体に負担が掛かりますから」
「……ああ」
大和は頷き、背の高い木の枝を軽く蹴った。
それは飛翔――というより、跳躍といった方がいいかもしれない。
一山越えるくらいは……と思ったが、実際にやってみると、かなり厳しい。
――ただそれでも、地上を走るよりは速かった。
鬼と戦う前に力尽きたのでは意味がない。極力、風の力は抑え、速度はそのままに――大和は宙を駆ける。
「それはそうと……鬼を止める手立てはあるのか?」
はっきり言って、自分ではまるで歯が立たない。
悔しいが、あの鬼との力の差は歴然としていた。
「手は……あります。ですが、それには貴方の力が必要です」
「俺の力?」
「はい。あの鬼……白鬼を倒す為に」
椿の言葉に大和は眉根を寄せ、
「……白鬼?」
椿は頷く。
「あの鬼の通り名です。彼には名前がありません。いえ……彼の名を知っている者が居ない……と言った方が良いのかもしれませんが……それが一番通っている呼び名です」
「……名前が無い……」
「あの鬼がどこで生まれ、どこから来たのか……それを知る者はいません。ただ分かっているのは恐ろしく強いという事だけ……」
「…………」
大和は椿を見据え、
「それで……どうやって倒すんだ? 俺の刀は……あの鬼には届かないぞ」
「……そうですね」
どこか遠くを見るような眼差しで、椿が言い切る。
「今のままでは無理でしょう」
「…………っ」
自分でも分かっている事なだけに、大和は言葉が出ない。
「ですが……」
彼女は大和の方へ向き直り、
「貴方の刀は……あの鬼に届きます。貴方が……真の力に目覚めれば」
大和は瞬きし、
「真の力……?」
「貴方の力はまだ不安定です。それはまだ貴方の力がすべて解放されていないから……」
椿は大和の目を覗き込む。
「貴方は……自分の持つその力……その先に踏み込む事を恐れていませんか?」
「!」
大和は顔を上げた。
その顔に、僅かに動揺の色が見え――椿は薄く笑んだ。
「鬼の力は強大です。それに対して恐れを抱くのは当たり前の事です。恥じる事ではありません。むしろ、その力が恐ろしいモノであると自覚する事……その上で、力を己のモノとする強い意思が必要なのです」
「…………」
「力を恐れず、力に溺れず……自分自身と向かい合って下さい。貴方なら必ず力を自分のモノに出来ます」
そう言って、椿は鋭く囁いた。
「そして……それが出来なければあの鬼と戦う事は出来ません。それを心に留めおいて下さい」
◆◇◆◇◆
鬼は無言で窓から見える景色を眺めていた。
日が傾き、辺りが妖気に包まれていく。
『…………』
ちらと、攫ってきた女の方へ視線を向ける。
女は、狐の術でよく眠っていた。口を開けば、喧しいことこの上ない。自分の女にするつもりで連れて来たが、珍しくまだ手を付けていなかった。
鬼は再び外へと視線を転じる。崩れ落ちた城。沈む太陽を眺めながら、ふと昔の事を思い出す。
この辺りは昔から妖が多く住み、度々人間達と衝突を繰り返していた。その争いの最中、この地に舞い降りた鬼。
鬼は人間を根こそぎ喰らい尽くし――やがて、その小さな国は滅びた。
そして――
滅びたその国で、一人の女と出逢った。
だがその時、二人が言葉を交わす事はなかった。
彼女と再会したのは、それから一月ほど経ったある日の晩。
小さな村を襲い、村の近くにあった湖のほとりを歩いていた時の事――
「……お待ちなさい」
『…………』
凛とした声が響き、鬼はそちらに顔を向ける。
『……何だ? お前は』
視線の先には、女が一人。
女は術師が纏う法衣に身を包み、手には錫杖を携え、厳しくこちらを睨み据えている。
「襲われた村に残されていた妖気と貴方の妖気……貴方ですね……この辺りの村や町を襲っている妖魔は……」
女の言葉に、鬼は事も無げに言う。
『……だったら何だ?』
「私は……貴方を退治しなければなりません。貴方はあまりにも多くの罪を犯しました……村を焼き、人々を喰い荒らす妖を見過ごす訳にはいきません」
『!』
女の錫杖が光を放つ。
それを見て、鬼は胸中で独りごちた。
(この女……退魔師か)
それもかなりの使い手。
今まで出会ったどの術師より、強力な法力を持っている。彼女の術が発動する前に、鬼は術の範囲外まで大きく飛び退き、ふわっ……と、湖の中央に降り立つ。
鬼は、湖に波紋を生み出し、水面に浮いたまま僅かに口元を緩めた。
『……ふっ……』
「何がおかしいのです」
鬼は天を仰ぎ見る。
『……罪……か』
緋月の下、水面に浮かぶ鬼の姿は美しかった。
喩える必要もない程に。
目を細め、どこか嘲るように鬼が口を開く。
『では訊くが……罪とは何だ? 俺はどんな罪を犯した?』
「……えっ……?」
こういう事を訊かれるとは思わなかったのだろう。女に僅かな動揺が見られた。
鬼は続ける。
『人を喰う事は何故いけない? 仁道に悖るからか? それはそうだろう。俺は妖だ。始めから人の道など歩んでおらん。道を外れていて当然だな』
「…………」
それを聞いて、女が眉をひそめる。
鬼は笑った。
『俺は腹が減ったから飯を喰っただけだ。それを罪だなどと言われてはかなわん』
「…………!」
女は弾かれたように目を見開く。
「人は……食べ物じゃありません!」
怒りを露にする彼女に対し、鬼は至って冷静だった。
『そうか? 俺にとっては食糧だが……お前達も腹が減れば肉や魚を喰うのだろう? それと何が違う』
「なっ……」
鬼はふふっ――と含み笑いを漏らす。
『お前達は牛や鶏を飼い慣らし、それを喰っているのではないか? 自分達で育てたモノを喰うのが良い事なら……女に子を産ませ、その子を喰うのは良い事か?』
「……何て事を……!」
思わず錫杖を握る手に力が入った。
怒りで我を忘れそうになる。だが、冷静さを欠いては負けだ。
鬼は不思議そうな表情をしてみせる。
『何故怒る? お前達のしている事と大して違いは無かろう?』
「…………」
『お前達の世にいくつ掟があるのか知らぬが、妖の世にはひとつしかない。“弱肉強食”――これが唯一絶対の掟だ』
鬼はゆっくりと水面を歩く。
『その一族の間で掟を定めるのは勝手だが、そんなモノは一歩外へ出れば通用せん。どんな掟があろうとも、弱い者は喰われるだけだ』
鬼が歩くたび、湖には波紋が広がる。
『お前は俺に罪があると言ったが……ではお前達はどうだ? 獣を殺し、妖を殺し、その者達が住む土地を踏み荒らす。それは罪では無いのか? お前達の罪は誰が裁く?』
「…………!」
『人の罪は人が裁く……妖の罪も人が裁く……人はそんなに偉い生き物かのう?』
鬼はくつくつと笑う。
『人は知恵がある。おまけに器用だ。だが、それほど賢い生き物には見えんな』
水面から地面へと足を着け、鬼は女の方へ歩み寄る。
だが彼女の体は不思議と動かなかった。
ただじっと、鬼を凝視する。
『妖の中には人間の血肉しか受け付けぬ者もおる。人を喰う事を禁じてしまえば、其奴らは餓えて死ぬしかない。仙人ではないのだ。霞を食って生きる事は出来んだろう』
やがて鬼は、彼女のすぐ側まで歩み寄ると手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
『人が餓えるのは哀れだが、妖が餓えるのは構わぬと言うのであれば……二者の間に話し合いの余地など無かろうな』
「…………」
彼女は無言で鬼の手を払い退け、距離を取る。
鬼は気にした様子もなく、軽く肩をすくめた。




