第八話「悪戯」
前話と繋がっていますが、時系列は飛んでいます。
その補完はまた後になりますのであしからず。
私は人を辞めた。
辞めたのだ。
だからどんなことをしても何も感じない。
人としての心を、感情を手放したのだから。
人は辞めた、
辞めたのだ。
今更、戻る訳にはいかない。戻れない。
人に戻れば、私は善悪を区別してしまう。
したくなくても、しようとしなくても、人としての私はきっと無意識にそれを判別し区別する。
喩えどれ程に重くても、人に戻れば必ず罪の意識に苛まれることになる。
無駄なのに。
下らないことに参加している時点でもう何度繰り返しても足りないというのに、私はきっと必ず善悪の判断で罪悪感に押し潰される。
人に戻れば、私は堪えられず壊れていく‥‥‥
そして、目覚め。
最悪の目覚めだ。
浮遊感、虚脱感、倦怠感、絶望感、そして諦観。
様々な、凡そ負のそれと呼ばれる感情と感覚が丸々煮詰められたような、吐き気を越えた不快感に覚醒した筈の意識は未だ朦朧と陶酔していた。
ふと気付くと、私はふかふかのクッションに顔を埋めて、ソファに俯きで寝込んでいたようだ。
息苦しさに思わず呻き、ぐっと腕に力を込めて上体を持ち上げた。
圧された視界は朧で、掠れてはいるが、辺りの暗さは見て取れた。
私は、どうしてこんな場所で寝ているか。
ぶるっと身を震い、自分を抱くように両肩に手を回して、もそもそとソファに座り直した。
「‥‥‥‥‥?」
ずっしりと頭が重い。
割れるようにというか、鋭い痛みに吐き気がして辛く、しかも何だか息苦しい。
軽くノビをして零れた涙を指で拭い、冷たい床に降りた。フローリングが気味よく軋み、シンシンとした仄かな闇が僅かに震える。
私はリビングにいた。
閉め切られたカーテンの隙間から一縷に日の気配が射し込んでいるだけで辺りは暗く、辛うじてものの輪郭が感じ取れる程度だったので、カーテンを開けた。
途端、白い陽光の眩しさに目がくらんで、手で影を作って外を見た。
空は青くて雲は白。石組みの塀とそれに囲われた我が家の庭が視界を占めた。
日を浴びて、今度は欠伸をしながらまたノビをした。
太陽の位置から昼が間近であることが予測でき、そう言えば軽い空腹を思い出した。というか私の寝起きは甘いものな気分なのだ。
確か冷蔵庫に昨日のプリンがあった筈だ。よしよし、美味しく頂こうかしら。
私は左足を引いてキッチンに振り返る――振り返ろうとして、息を呑み、反射的に飛び退いた。
ガンッ、と強かに窓硝子に背中を打ち付けて、ついでに後頭部まで打っちゃって。
「いっっっっったぁ――!?」
思わず頭を抱えて裏返った悲鳴を絞り出し、口の中でも何度もそれを繰り返した。
そしてそれを見たそいつは、えらく愉快そうな声でこんな風にのたまいやがった。
「何を独りで遊んでるの?」
「うっさい! お前がいきなり現れるからでしょうが!」
振り返った私の目の前、僅か鼻先に現れた無礼な青年は、上城神楽。
現在の相棒にして、色々と世話をしたりされたりしている関係の男だ。
蒼い染髪に黒い瞳、赤で統一された薄手の服は最低限以外の肌と、傷を覆っていた。
彼の身体には、理由は知らないが大きな古傷があった。背中一面から、左手にまで伸びたとても大きな傷だ。
彼は、その手のビニール袋を足下に置きながら、取り出した缶ジュースを投げて寄越した。
「ごめんごめん。ちょっと放心状態みたいだったから、こう‥‥ほら、悪戯心がね?」
神楽は自分のものを開けて一口飲んだ。外見から、多分紅茶だろう。
私もそれに倣い、缶の蓋についたつまみ、プルタブを引き開け――
「あっはっはっはっは、あはッは、ははは!」
「‥‥‥‥おいこら」
中身が炭酸だったら、投げ渡されて中身が振られていたらどうなるか判るだろう。しかもご丁寧に、どうやらあらかじめ充分に振られていたらしく、それは、私が蓋を開けるのを待ってましたとばかりに噴水よろしく吹き出した。
つまり、私は頭から炭酸ジュースをひっ被ったのだ。
口の端を舐めるとかすかにオレンジの味がして、私は笑い転げている神楽をきっと睨み付けた。
「お前最低! て、あーぅわー‥‥‥最悪、べとべとするぅー‥‥」
私は適当に羽織っていたぶかぶかの服の下を掴み、糖分のべたつきをせめて肌から離した。
炭酸は被るものじゃない。飲むものだ。それを被るのだから、当然害が生じる。べとべとべたべた気持ち悪い。
「はははは、可愛い悪戯だろ? そう怒らないでよ」
企みが成功したことがよっぽど嬉しいのか、彼はそれこそ子供のような笑みでそう言った。
「あのねぇ‥‥‥‥――ッ!?」
不意に、彼は私の手を引いてソファに座り、隣の私にずいっと身を寄せて耳元に口を近付けた。吐息が、くすぐったく首を撫ぜる。
「――ごめんね。好きな子のスカートをめくりたくなるのは、男の性だから」
いきなり声色を変えて甘く囁き、そして、今尚頭から頬を滴り伝い落ち続けるジュースをそっと、舌先で舐め取り始めた。
「ん‥‥ぁ――!?」
まるで愛撫でもするように丁寧にゆっくりとするものだから、恥ずかしい声が抑えられない。
神楽は、私の上に重なるようにしてまたがり、上では優しくしてくれているのに手では強く私を押さえ付けていた。
「ん‥‥‥ぁっ‥‥‥んくぅ‥‥は‥‥‥ぁぁ‥‥‥」
頬から目の辺りへ舌が動き、そこから反対側へとゆっくりと移る。
顎から首筋、鎖骨や、胸元近く。
なのに、唇や――他の所には、一向に触れようとしてくれない。
それがまるで、お預けをくらっているようで切なく、寂しくて、おねだりしたくなる衝動を辛うじて抑えていると、今度はそれが羞恥な声として洩れていく。
「ん、美味しい‥‥」
また耳元で囁き、彼はくすくすと声を潜めて笑いながら、艶っぽく流し目をしてきた。
「ぁ‥‥‥!?」
ぞくりと背中が疼いて、快感に堪えるために踏ん張っていた足から力が抜けていく。
「くす、くすくすくす、可愛いですよ‥‥‥‥‥my master‥」
私の――ご主人様――。
「ぁ――ッ!?」
まるで事もなげに告げられたその一言で、私の中の何かがゴトリと落ちたのを自覚した。
「――はい。おしまい」
「ぁ‥‥‥?」
「あははは、とろけてるね、雫玖」
「――!?」
急に彼の視線が私の身体を這い、自分がどんな格好をしているのかに気が付いた。
サイズ違いの服ははだけて、スカートは完全に捲れ上がり、上も下も下着が露出していた。
「誘ってるの?」
「違ッ!?」
「嘘ウソ。ほら、着替えは用意してあるからシャワーを浴びてきて?」
「うぅぅー‥‥」
彼はいつの間にかある服とタオルを示し、にこにこと笑みを浮かべた。
私はあせあせと乱れを正しながら、一度彼の顔を睨み付けてから着替えを持ってシャワールームに向かった。
御堂雫玖がリビングから出ていくのを見送って、上城神楽は改めて深くソファに座り直した。
さっきの悪戯のせいで床が炭酸まみれになっていて、それを浴びた彼女が座ったからソファも少しベタついている。
彼はそれを一瞥してため息を吐き、背もたれに体重を掛けながら若干の後悔の念に駆られていた。
「少し、やり過ぎたかな‥‥‥」
誰に言うわけでもなく淡く呟き、苦笑して、火照った身体の熱を努めて仄かな闇に冷やした。
――さっきの悪戯。
途中までは、確かに冗談だった。単に悪戯のつもりでやり始めた。
だから、抵抗されればすぐに笑いながら辞めて、謝るつもりだった。
なのに雫玖は抵抗どころか受け入れてくれて、少しずつ、少しずつ、とめどを失って行き過ぎるところだった。
ぎりぎりで理性が働いて何もせずに済んだが、もし後一瞬遅ければ、もし欲求に負けてキスでもしていれば、僕は止まらずに最後まで――彼女を、襲っていた。
一目見たとき、絶対に傷付けない汚さないと決めたのに、それを反故にするところだった。
彼女は雫玖だ。
澪緒じゃない。
彼女は飼い主で、彼女のようなペットじゃない。
これは、自分で決めたことだ。
約束を破るのは、相応の理由があれば仕方がないと何とか納得できる。
しかし、自己の決意はそうはいかない。
決意は覚悟だ。
覚悟がなければ約束を結べないし、まして破ることなどできやしない。
そう――
「あがったよー」
「ぅわ!?」
「ひゃ!?」
不意にリビングに響いた声に上城神楽は飛び上がって驚き、声の主もそれに対して飛び上がった。
「し、雫玖!?」
「びっくりしたー‥‥‥どうしたの神楽?」
「どうしたの? じゃないよ全く‥‥‥心臓がばくばくいってる」
「何もそこまで驚かなくても‥‥‥」
見ると、ソファの後ろに風呂上がりでほかほかしている御堂雫玖が立っていた。
頭からタオルを被り、激しく鼓動する胸を抑えた彼女は、純白のワイシャツに真新しい赤のスカートとという姿で、足下には真っ白なニーソックスをはいていた。
「さっぱりした?」
上気した雫玖の頬の水滴を指で拭ってあげながら、彼はにっこりと笑みを浮かべた。雫玖は、少し憮然と相づちを打つ。
「したよ。気持ちよかった。でももうあんなことは止めてね」
「あんなこと?」
髪をふきふきそう言った雫玖に、神楽は笑んだまま小首を傾ぐ。
「あんなことって、どっち?」
「どっち‥‥て‥‥‥ッ――!」
その言葉の意味を悟り、ほんの少し前の情事を鮮明に思い出した彼女は、ゆだつようにぼっと顔を赤く染め、タオルでそれを隠した。
「ひ、昼間からあんなの‥‥‥困るよ‥‥‥」
消えそうな小声で、ぽつりぽつりと呟く雫玖。
「それじゃあ今夜、続きする?」
「――‥‥‥!?」
神楽は何の臆面もなくしれっとそう囁き、そのまま彼女の耳元に口を寄せた。
「‥‥‥冗談だよ」
息を吹き掛けて、彼は楽しそうにころころと笑う。
「も、もお! 私はその手の冗談は苦手なんだよ!」
彼女はタオルの端を両手で持つと、言いながら彼に向かって振り抜いた。彼は楽々とそれを取り、彼女の手を引く。
「うわぁ!?」
体勢を崩した雫玖は前のめりに背もたれに倒れ、しかし神楽にその勢いを殺されながらふわりと彼に受け止められた。彼は、雫玖を自分の股の間に座らせて、タオルを頭に被せた。
「ちょ、ちょっと!?」
「お姫様は、ご自分で頭を拭かずともよろしいのですよ?」
科白口調でそう告げて、彼は雫玖の長い髪を丁寧に拭き始める。
雫玖は、何も言わずにそれに身を任せた。
顔は、風呂上がりというだけじゃなくてほんのりと赤く、時々悩ましげな声を洩らしている。
「気持ちいい?」
「ん‥‥‥うん‥‥」
雫玖はどこか夢心地に頷き、しおろしく股に手を入れて肩を縮めた。
「‥‥‥さっきはごめんね。少しやりすぎた」
ふと、神楽が申し訳なげに言った。
「‥‥ん、どっち?」
「まずは最初。過ぎた悪戯だったね。ごめん」
彼は静かに謝罪の言葉を口にして、髪を少し持ち上げた。
「もうしちゃダメだからね」
「うん――‥‥‥はい」
目を閉じて仔猫のように喉を鳴らしながら雫玖が言い、彼は親に叱られる子供のように殊勝に反省する。
「次は?」
「うん、あれもやりすぎた。ちょっと調子に乗った」
「昼間からすることじゃないよね」
「はい。ごめんなさい、ご主人様‥‥‥」
「うむ。よろしい」
最後に少し科白口調を交え、雫玖がこくりとすると二人はどちらともなく笑い合って、お互いの体温を感じ合いながら目を見合った。
――高く、重く、鋭く、それは、突き破るように鳴り響く。
「‥‥‥!? な、何!?」
「銃声だ。近いな」
平穏な空気を無惨にも引き裂いたその乾いた破裂音に二人は笑みを消し、腰を上げて僅かだけ身構えた。
「銃声? 面倒臭い。どうする?」
身を低く構え、壁に立て掛けてあった既に手に馴染みつつある木刀を手に取る雫玖。神楽は、後ろ腰のホルスターからナイフを抜いている。
「銃声がしたってことは撃ったってことだ。この状態で無駄弾撃つのはあり得ないから、多分誰かと殺し合ってる」
「真っ最中なわけね」
「というわけで選択肢は二つ。外に出て状況を確かめるか、家の中に閉じ籠って身を守るか」
言いながら神楽はくるりと振り返り、背後にいた雫玖を見た。
言葉こそないが、それが試す目であることは彼と二日間を供にした雫玖には、容易に感じ取れた。
「そうだなぁ‥‥‥本当はじっとしていたい所だけど、あまりにも現状が判らなさすぎ。ここはアクティブに外かな」
僅かに考えてから雫玖が率直に述べると、神楽はにっこりと笑みを浮かべて立ち上がった。
「じゃ、行こうか」
短く述べて、二人は息を潜めて玄関を出た。
外は昼。
太陽は頭上にあり、冷たい風が吹いていた。
何かすみません。