第七話「御堂雫玖」
ここから視点は変更になります。訳の判らない小説で御免なさい。
目が覚めた砌、不愉快な感情が私の胸に募った。ただでさえ貧相で悩んでいるというのに、最近は余分なものばかりが膨れて困っているのだ。
ベッドヘッドの目覚まし時計を掴み、目の前に持ってきた。時間はまだ朝の六時を過ぎたばかりと早く、しかし頭はかっちりと覚醒していてもう眠気もない。
となると、起きるしかない。私はもそりと体を起こし、足を下ろした。
縁に腰掛ける形で私は暫しぼんやりして、頭の空白を埋めていく。
今日は何月か。何日か。何曜日か。
確かめて、今日が土曜日であることに至った。しかし、休みの日にわざわざこんな早起きをするとは、つくづく自分の真面目さが恨めしい。
部屋の電気をつけて、私は取り敢えず着替えることにした。
クローゼットからシャツとスカートを引っ掴み、パジャマをベッドに脱ぎ捨てる。
鏡の前で長い黒髪に櫛を通しながら、私は自分の茶色の瞳をじっと見据えた。
ここ何日か睡眠時間が不充分だったからか、疲れの色がある。今日くらいはゆっくりと寝ておきたかったけれど、十年続く習慣を打ち破るのは中々どうして難しい。
ふと、瞳が揺れた。
反射的に鏡に肩を押し付け、そのままずるずるとへたり込む。
別に力が抜けたわけではない。ただ、立っていることが億劫になって、こうしていなければ後ろに倒れていたかもしれないからだ。
「やっぱ無理しすぎた、かな‥‥‥」
誰に言うわけでも独りごちて、鏡の冷たさに背中の熱を冷やしながら櫛をベッドに投げた。
私が思う以上に、私の体には昨夜の疲労が残っているらしい。このまま眠れば楽な筈なのに、どうしてそうはしてくれないのだろうか。
不毛な愚痴だ。そう思って、自嘲気味に笑ってしまった。
やっと少し仮眠が取れそうに軽く意識が薄れようとしたと同時に、不意に扉がノックされた。
「はいはーい、起きてますよー」
鏡から離れて絨毯の上に寝転がり、そう告げた。
「わ!? な、何やってるのよ」
扉を開けて、足元に臥せっている私を言いながら踏みつけるのは、姉の春日だった。
「何か用?」
「あ、うん。起きてるみたいだったから、ちょっと」
どうやら、洩れた電気を見付けて来たらしい。
「あのさ、辞書貸して」
「‥‥‥‥こんな時間から勉強してるの?」
再度、時計を確かめる。二十分は経過したが、それでも三十分にさえなっていない。
「テスト前だしね」
「暇なだけでしょ」
「ま、まぁ、否定はしな‥‥‥」
「できないだけでしょ」
「もう、さっきからうるさ」
「はい辞書」
言い合っている間に本棚から引っ張り出した辞書を二冊、姉の胸に押し付けると、豊かな反発が返ってきた。薄手のシャツなものだからモロだ。
「もう、話は最後まで聞いてよ‥‥‥‥」
泣きそうな声でぼやきながら姉はつま先を返す。
私はそれを呼び止めた。
「何?」
今の悪ふざけが余程癪に障ったらしく、彼女はムスッとしている。
私は勉強机の隅の小物入れから取ったものを投げ、慌てながら受け取ると、姉はそれに目を落とした。
「飴。糖分は効くよ」
勉強をしているなら、と渡した透明な包みの飴と私を見比べ、姉の顔がみるみるとほんのり赤らんでいく。
そして、びしりと私に指を立て、こう言い捨てて部屋を出ていった。
「男前すぎる!」
「意味が判らん‥‥」
誰もいなくなった扉にそう呟いて、私も飴を口に放り込んだ。
それは適当に取ったもので、確かオレンジ風ホワチョコメロンパン味だったか。特殊な趣のある味だな。
私が満足すると、隣の姉の部屋から何か聴こえたような気がして耳を澄ませたが、どうも空耳のようだった。空気は、シンとしていた。
「‥‥静かだなぁ」
誰に言うわけでもなく呟くと、その振動は静寂に呑まれ消えていき、寒気がする程の寂寥が繰り返した。
空気は微動もせず、空間は固定され、まるでこの部屋が世界から切り離されたような訳の判らない不安に駆られる。
そう。意味の判らない、訳のない不安に。
下らないと知りながら、或いはだからこそ私の本能のようなものが恐怖と不安を錯覚し、心臓の鼓動を速くする。
深呼吸して、肺を新鮮な空気で満たす。頭がはっきりして、手足の末端までの感覚が普段通りまで回復する。
ただそれだけの行動で脳の芯がぴりぴりとひいらぎ、不思議とそれが心地好くて、意識は微睡み始めた。
うつらうつらと闇が視界を覆い、鋭角な神経が敏感に夢の世界にトリップしていく。
色々なものが擬似移行して、深く濃い闇が思考を侵す。
私は、そうして安息の世界に堕ちていったのだった。
一日のテレビ放映が終わった後の、まるで砂嵐だった。
ノイズが延々と耳を満たし、少しずつ少しずつ、思考と感覚とを削っていく。
心に空洞が出来たように淡く白くなり、全てに対して何も感じられなくなっていく。
虚脱感ではない。
倦怠感でもない。
ただ何かが億劫で、考えることも行動も、全部がどうでもよくなる。
辺りは白い闇に覆われ、濃霧が立ち込めていた。そして、その霧に、何かの映像が映り込む。古い映画を映すように、時折ノイズの過る映像が淡々と流れる。
そこは見たことのある部屋で、一人の少女と男性がベッドの上にいる。
着衣していて、端から見ていて恥ずかしくなるくらい初々しく、向かい合う二人だ。
ああ、そうだ。覚えている覚えている。
スカートの裾を握り締め、はにかんでいるのはまだ中学生にもならない頃の私で、向かいにいるのは学校の若い先生だ。
そう、覚えている。これは私が初めてされたときのことだ。
少女、つまり私が先生の腕の中で甘い囁きに赤らみながら応じ、万歳して上着を脱がされた。
羞恥心に駆られる少女を落ち着かせる為に彼は額に口付けし、そして下のスカートも脱がせていいかと問い掛けている。
好きな人に甘く囁かれてノーと言える程、少女は大人じゃない。
されるがままに下着姿になり、真っ赤になりながら誉められる心地好さに悪寒にも似たものを感じていた。
額に優しくキスされて、それは少しずつ下りてくる。唇にされた瞬間に舌が口に入り込み、身体はその気持ちよさにぴくりと反応し、切なさにしっかりと彼の胸に飛び込んだ。
背中に回された彼の腕がブラのホックを外すのにもぞもぞして、抵抗もせずにそっと目を閉じてそれを待った。
成長途中の胸が人前で空気に晒されると羞恥は膨れ上がり、しかし彼の手が下に降りるのに悦びすら感じている。
程なくして、少女は生まれたままの姿になって、ベッドに仰向けに倒された。被さる彼とは吐息が掛かる距離で、それが恥ずかしくて思わず顔を隠してしまう。
男性は囁き、服を脱ぐ。肌を愛でる彼の手の感触は心地好く、そして同時に、唐突に恐怖を感じるのだ。彼の荒れた息と、豹変に。
今日はやっぱり止めてと願い、懇願しても彼は受け付けず、少女の腕と足を抑え、口に少女の下着を詰め込んだ。
抵抗なんて出来ず、その日、その次の瞬間には、少女は子供ではなくなった。
今にして思えば、このときの苦痛と快感が切っ掛けだった。
あの日から少女の中には、苦痛に快楽する何かが生まれた。
適度な痛みにとろけ、責められる事に悦を感じるように。
少女の抵抗が弱まり、されるがままになった頃、ノイズ混じりだった映像がいきなり消えた。
まるで蝋燭の火を吹き消したように、濃霧と供にそれはすーっとどこかへとなくなった。
記憶は、静かにその巻き戻しを終えていった。
不快感で目覚めた。
胸騒ぎのような、意味もなく心臓の辺りがざわつく感覚。
身に覚えのない恐怖とも興奮ともつかない感情が不意に沸き上がり、自分でも驚く程すんなりと、自然と思考が展開されて視界が拓けた。
つけていた筈の電気は切れ、周囲は暗い。
部屋――いや、恐らくこの家全体の内包する空気が鈍く、生理的な嫌悪感を感じさせる程にねっとりとしていた。
餅と言えば喩えが悪い。
人が口にするようなものの粘性ではない。それは、或いは不当なゴミ捨て場に滲み出した得体の知れない液体のような感触で、悪辣な臭いすらを錯覚させる。
異常というなら異常だ。彼が行方不明になってからは久しく感じることはなかったが、昔のこの家では日一日ごく当たり前な空気。
だから、恐怖と供に私の身体にあの頃の緊張感が戻り、反射的に息を潜めて身構えていた。視覚は無意味だと知っていたから、聴覚に意識を集中した。やたらとノイズが多いが、努めて家の中だけに耳を傾ける。沈黙は金という諺があるが、ここまで黙られると無価値も甚だしい。
――カタ‥‥‥‥
音。それは判る。二階じゃなく、恐らく階下。
カタカタと連続しているのは、ものを弄っているというよりもひっ散らかしているイメージだ。
空き巣? いや、春日か母さんがいる筈だ。そのどちらか?
――ガタンッ!
違う、殺気染みた緊張感が滲んだ音はどちらでもない。やっぱり空き巣かな。まあ確かめて見れば‥‥‥。
軽く周囲を見回して武器になるようなものを探した。ドライヤーや手鏡、デスクライトくらいか‥‥‥いや、確かクローゼットにあれがあった筈だ。
私はそっとクローゼットを開け、服の影に隠れたそれを手に取った。
「久々かな、これに触れるのも‥‥‥」
それは、既に忘れて久しい木刀。小振りながら重量があり、しかし今の私がぎりぎり自由に出来る重み。打撃の威力や振りの速度を換算しても、多分これが今の限界だ。昔は小さい癖に重くて気に入らなかったが、高校生になった今なら頼れる武器だ。
てか、日常のどこでこんなものを使えって言うんだ。昔、誰かに護身用にともらったが、中々理解に苦しむ。
私は気配を潜め、抜き足で一階へと向かった。
――思えば、この時に死んでおけばどれ程に幸せだったろう。
一階は、沈黙していた。静寂ではない。それと言えるほど、空気は澄んでいなかったのだ。
世界が澱んでいた。少なくとも、私の知覚できる周囲はいつもとはかけ離れていた。
臭いだ。この、鉄や錆の生々しい臭い。
これは――
「――血の臭いだ」
私は更に神経を尖らせ、木刀を構えて身を低くした。
リビングの扉に手を伸ばし、臨戦態勢を取る。
ただ、そこを開くだけの単純な動作が、物凄く躊躇われた。
本能の警鐘が動悸を激しくして、緊張で渇いた喉に無意識に唾を呑む。
ゆっくり、注意深く中を覗き、恐る恐るリビングに踏み込んだ。
そして、それがこれから私が犯し続ける過ちの、発端だった。
そう。
私はその中で、あんな行為が行われているとは思わなかったのだ。少しでも予想出来ていれば耐えられた筈の事なのに、だから、意表を突かれたから、私の身体は硬直し胃液で喉を焼いたのだ。
私は戸口でまず身体をくの字に折り曲げ、疼いた腹を押さえ、手で口を覆った。
だがしかし、それで治まるような吐き気ではなく、その光景は私の身体から自由を剥奪した。
床に四つん這いになって、せり上がってくるものを全て吐き出した。
「かッ‥‥‥はぁッ‥‥‥ッ!?」
それでも尚、楽になれない。
吐くものがなくなっても、全身の感覚が麻痺しても、脳が現実を否定しても、沸き上がった感情が全てを支配しても、その苦痛は治まる事を知らず更に深く私の神経を犯し始めていた。
甘ったるく、淫靡で、生々しい。
「お姉――ちゃん‥‥」
「逃げて。雫玖」
姉は、貫かれながら尚、自我を保ち、私を妹として認めてくれた。
そして――
私は、人を辞めた。
私は理解した。
逃れようのない運命を。
私は、ゲームに巻き込めたのだと。
人を人と思わぬ、ふざけたゲームに。
――この地獄に於いて、殺すことは、唯一私を生存させる方法だった。