第五話「夢は現と」
或いは、それは止められない事象なのかもしれなかった。
海を荒らし、空を狂わせる風雨のように。
心を潰し、人を壊す憎悪のように。
彼の地に降り立つ事象は、まるで神の御手を以て行われる奇跡のように、逸した軌跡を描き、訪れる。
残酷に空を狂わせ、人を壊し、始まりを迎える。
例えば、
このように。
「動くな!」
表情は決然と。
眼光は鋭く、声には糸を張り、噛み締めた奥歯はぎりりと軋みを上げる。「‥‥‥エアガンで俺を殺せるか」
忌まわしそうに一瞥し、自身の背に向く玩具の銃口を睨み付けた。
この場は火の手が掠め、割れた窓から熱風が吹き込むダイニングルーム。模造銃を構える者は頭を伝う血に左目を潰され、戸口から逃亡者の背の中央に狙いを定め、逃亡者は、その腕に人影を抱きながら庭に差し掛かっていた。
「動くな‥‥‥!」
「お前はそれしか知らないのか、ばぁか」
「黙れ!」
軽口に苛立ちを隠せず、引き金に掛かる指が震えていた。
「お前の勘は間違ってない。今のお前なら、それでも簡単に俺を殺せる」
それは抑揚なく、どこか機械的に呟くと、淡く小さな声で続けた。
「撃て。恵都」
朱桐律人は目を細め、背後の桐宮恵都へ視線を向けた。
刹那、熱風が部屋に吹き込み、意味もなく二人を煽る。
「深雪を、降ろせ」
慣れない痛みと出血に今にも倒れそうになる身体に鞭打ち、何とか踏みとどまって、恵都は出来る限り感情を込めて銃口を定めた。
しかし律人はまるで意に介さず、それどころか失望したように息を吐くと、辛うじて向けていた視線すらを庭に戻した。
その腕の中では意識のない無傷の深雪が、少し寝苦しそうではあるが、すやすやと寝息を立てている。
「いつもそうだな――」
「え‥‥‥?」
「――死んでしまえ、お前のような奴は」
「ッ!? ま、待て!」
「バイ、お兄ちゃん」
振り返ることもなく庭に出た律人は、最後に普段通りの言葉を吐き捨てると、恵都の制止を無視して炎に焼ける闇に静かに溶けていった。
その腕に、深雪を抱いたまま。
「‥‥‥くそ!」
行き場を失った複雑な感情に苛まれながら、恵都は、ゆっくりとその場へと崩れ落ちた。
ぼんやりとしていた。
不意に戻った意識は、最低な悪夢に肝を冷やされて、しかも目眩と頭痛を併発していた。
嫌な夢だ。荒れた街で、律人が深雪を連れ去り、その背中に恵都が銃口を向けるなんて、荒唐無稽にもほどがある。
非現実にもほどがある。
有り得る筈のない夢。それなのに、所々が妙に生々しかった。
炎の熱や、伝い落ちる血滴の臭い。吐きそうになる酔気に、捻れたように痛みを訴える内臓。
感じたこともないのに、その苦痛は夢の中でそれを現実と錯覚させた。
今にすれば、はっきり言ってB級所ではない。C級映画の、一場面だろうか。
「――――!」
声。
淡く、どこか悲しい、多分女性の声。
あまりにか細くて、消え入りそうだったので、反射的に耳を傾け意識を澄ませた。
「―――て‥‥!」
徐々に、聴こえ始める。
「ゆ―――て‥‥!」
声が明瞭さを増すに連れて、意識は覚醒する。
「ゆ――して‥‥‥!」
視界の闇が明けていき、ものの輪郭が浮き彫りになる。
「お願い、止めて、赦して!」
その声が判然とした瞬間、後頭部を金属バットで殴ったような衝撃が額を突き抜けた。
――世界は朱く、女性は透き通る白い柔肌を露に泪する。
その様は身が震えるほどに蠱惑的で、見ているだけで酔えた。
「お願い‥‥赦して‥‥イヤ‥‥死にたくない‥‥お願い‥‥‥‥」
文字通り、心身を擲っての命乞い。
その懇願がまた、飛びそうになるほどに身体も、精神をも快楽させた。
覚めた視界は濁りなく、狂おしく愛しい世界を瞳に映した。
道路も、壁も、それこそ数少ない緑さえも、悉く朱に染まっていた。美しく、麗美に。
まるで夕陽が堕ちたようだと、最初に感じた。
自分の身体は酔い、因って、精神は泥酔する。
初めてワインを飲んだとき、確かこんな高揚を感じたと記憶している。なら、これはきっとワインと同じなんだろう。
下手に高級な赤ワインなどより、余程食欲と酔いと、内向衝動を誘う。
それがあまりに心地好いからだろうか。不意に、手にあったそれを彼女に打ち下ろして見ようと思い付いた。
犯すのも愉しいだろうが、別に性欲を満たしたい訳じゃない。
ただヤりたいだけならこんなに面倒なことをしなくてもいい。
それに、求める快楽は、そんな行為では得られない。
これは、殺人快楽だ。
自分の口許が歪んだのが判った。
それは笑うというより、きっと嗤ったのだ。
可笑しくて。
愉しくて。
愛しくて。
「ひっ―――!」
叫ぼうとでもしたのか、彼女は最期に息を吸い込んだ。
声が出る前に、この手のものを彼女の豊かな胸の間に突き立て、そのまま首も切り裂いた。
温かい噴水が二ヵ所から吹き出し、雨のように降り注いだ。
暖かい、真夏の夜の夢の、雨のようだ。
「くっ‥‥‥は、はは‥‥‥あっはっはっはっはっはっはっ!」
退屈すぎて、可笑しくて仕方がなかった。
それこそ、世界を殺してしまいたいほどに。
静寂な闇に染め上げられた空に、ぽつりと浮かんだ琥珀。
それを美しいと謳うのなら、この夜空もまた美しいと言えるのだろう。
喧騒な雑踏も、静謐な風音も、きっと全てを美しいと思えるのだろう。
月を、美しいと思えたのなら。
「ああ、何て禍々しい月‥‥‥」
高層ビルの屋上から仰ぎ見る、琥珀に輝く真円の月。
それは、とてもじゃないが美しくなどない。
その輝きは血濡れたナイフのように鋭く、その圧迫感はそのままに死を胸に押し付けたよう。
禍々しいとしか思えないほどにそれは憎く、独りの夜に寂寞と見るべきものじゃない。
出来ることなら永遠に見ることなく過ごしたいと願うほどに、精神も、そして身体さえも酷く蝕まれる。
その苦痛たるは、以前ならば耐えること叶わずきっと崩壊していた。
「‥‥‥壊れてしまえばいい。私を犯す、月なんて‥‥‥」
自然と独白が口を突いていた。
心底思うその願いが。
人の身で願うことが、どれほどに罪深いかを知りながら。
ただ、懺悔するように、淡く静かに囁いていた。
「お前のせいで、夢を見た」
唐突に声が響いて、ぞわりと寒気が走った。
「‥‥‥‥びっくりするわ。いきなり背後に立たないで」
振り返ると、そこに立つ男は紫煙を吐きながら月を見据えていて、眼下を一瞥した。
「気配は特別消してない。気付かないのは、お前の注意力散漫だろう」
無感情に淡々と言葉は紡がれ、静かな会話が交わされる。
「臭いが酷いもの‥‥‥‥。それより、あなたも夢を見たのね」
「さあな」
「ふふ、まあいいわ。あなたも同じだもの」
「‥‥‥‥‥‥」
「くすくす」
可笑しそうに声をひそめて笑い、徐に手を街へと翳した。
男は視線でそれを追い、血が滴るような赤い瞳を細めた。
「この街も死人が増えたわね‥‥‥」
「ああ」
「血の臭いが消えなくて、気分もずっと悪い。それに」
「あいつが、心配か」
その言葉に、沈黙が世界を制した。空気の淀みが湛えられ、重い粘性な感触が肌を撫ぜる。
そして、長い長い考慮を終えて、噛み締められた想いが募った。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥そう、かな」
「安心しろ。あれは化物だ。例え神でも悪魔でも、この世界にある限り奴の腕から逃れることは叶わない」
「違う‥‥‥‥だからこそ‥‥」
「‥‥‥‥‥?」
怪訝に首を傾げる気配が、背後でした。男は再び紫煙を逆巻かせ、その背中を据える。
しかし、言葉は濁る。
「‥‥‥何でもないわ」
何でもない。その言葉が酷く重く男の脳裏に堕ちた。
「‥‥‥さあ、行きま‥‥‥」
――刹那。
世界が、暗転した。
深い深い微睡みの中で、悲痛な音を聴いた。
絹を裂く、硝子を引っ掻くような痛い甲削音を。
それが誰かの嘆く声だと気付いて、微睡みは更に闇を濃くした。
見たくなどない。
見るまでもない。
それは、明けない夜だ。
闇を焼き払い、連れ去る筈の朝がただ遠く、手を伸ばしても指の隙間を零れ落ちる。
それを、初めて痛いと感じた。
痛みは恐怖だ。
人間を人間足らしめる反応。ここにはそれすら在りはしなく、どこまでも虚無な穴が空いていた。
空間を突き破り、虚闇を穿ち、身体を苛んだ。
皮膚は裂けて。
腸はどろりと溶解し。
胃はぎりぎりと捻り上げられた。
心臓は鷲掴みにされ、掻き回された脳髄が末端の神経までを引き抜いた。
一面が黒さの混じった朱色に染め上がり、世界は痛みと苦しみだけに飾られた。
深い深い微睡みの中で。
深い深い泥濘の中で。
痛みだけに呻き。
苦しみだけに嘆き。
紅い海に歓喜した。
かげ。
聴け。
視ろ。
触れろ。
味わえ。
五感の全てが訴えた。
巡り廻る血は流れ、抜ける疾風は籟と世界を引き結ぶ。
明けない夜に、朝は来ない。
来るものは星の輝きと、狂気な快楽。
世界は、ぐるりと覆る。
――暗転する。
「ひっく‥‥‥ひっく‥‥‥‥うぇ‥‥‥んぅ‥‥‥えっく‥‥‥」
――泣かないで‥‥‥。
「‥‥うぇーん‥‥‥」
――泣かないで。
「ひっく、ひっく」
――大丈夫、誰もあなたを傷付けたりしないから‥‥‥。
「ひっく‥‥‥‥?」
――そう‥‥泣かないで‥‥‥あなたは泣いてはいけないの‥‥‥ね?
「‥‥‥‥だぁれ?」
――私は――。
「ぇ?」
――‥‥ごめんなさい。私は名前がないみたい。ごめんなさいね。
「どこに、いるのぉ?」
――安心して。あなたの、すぐ傍にいるから。
「どこ‥‥‥?」
――‥‥‥あなたの、すぐ傍よ。
「‥‥‥くらくて、わかんないよ」
――ええ、そうね。ここは本当に暗い‥‥‥ごめんなさいね、私からあなたは見えるけれど、あなたから私は見えないみたい。これも、極り事ね‥‥‥。
「‥‥‥?」
――さあ、もう朝が来る。
「‥‥‥あさ?」
――そう、朝が。夜を焼き払う、眩しい光があなたを照らすわ。
「‥‥‥‥やだ」
――え?
「やだ、やだよ!」
――‥‥‥‥ダメ。ちゃんと涙を拭いて、あなたはあなたの生きるべき世界を歩みなさい。
「やだよ‥‥‥ここがいいよ‥‥‥」
――‥‥‥‥私も、出来ればあなたと一緒がいい。けれど、それは赦されない。
「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだよ!」
――お願い、もう泣かないで。私はいつもあなたの傍にいるのだから‥‥‥‥‥‥。
「待っ!」
――さよなら。
今度は、光の下で逢いましょうね。