第三話「始まり」
勉学に励むというよりは、その日はただ自然と時間だけが流れたような一日だった。
呆然と黒板を眺め、ノートを写し、教師の話は右から左に流れていく。
昼食を食べた記憶もなければ友人と話した記憶もなく、机に向かって、彼女の顔ばかりを見ていた気がする。
いや、見ていたという意識はなく、退屈な世界に現れた歪みを観察するが如く、何ともなしに見ていただけだったかもしれない。
世界は曖昧で、記憶はあやふやで、熱でも出したのかずっと頭がぼーっとしていた。
熱、風邪でもひいたか。気分は悪くないが、何となく寒気がすることはある。そう、希に目が合うと、視線は逸らしてしまうのだが、心を見透かされたような焦燥感が募り、ぞくりとするのだ。
「――――――――」
身を震い、脳の片隅に疼く痛みをじっと我慢する。
「―――――――っ」
どこかで、この感覚は体験したような気がする。記憶というよりも追憶。身体が、ただそんな風に妄想させる。
身体はいつまでも熱を帯びている。ぽかぽかと熱くて、熱くて、全てが億劫になる。
「――け―――」
ああ、
「―――け―――とっ」
自分で思う以上に、身体は正直だ。残酷、冷酷、無情に、無慈悲。
「――けい―――っ」
凛と、鈴が鳴ったような気がした。
「恵都!」
「えっ・・・・!?」
「えっ、じゃない」
はっとなると、目の前に見慣れた顔が並んでいた。
久遠、由良、深雪、律人。
「大丈夫か?」
鞄を脇に抱えた上条久遠がそう言うと、反対側にいた朱桐律人が額を人差し指で弾いた。
「起きろ、授業は終わった」
「・・・・え!?」
こくこくと頷く、他三人。
椅子から立ち上がって教室をぐるりと見回し、そこががらんとした空間であることを確認してから、恵都は後頭部を殴られたような衝撃できっちりと、はっと目を覚ました。
「え・・・・え、あ、あれ? 嘘う、なんでえ」
信じられない。そう呟いてから、恵都は自分の机の前に立ち並ぶ四人の姿を改めた。
右から。
上条久遠、髪を赤く染めた少し不良風の彼は気だるそうに頭を掻いて、憐れむような目で恵都を見ていた。
柏木由良、才媛と称される彼女は机に顎を載せる形でしゃがみ込んでいて、朝と同じ顔で心配そうに上目遣いに見上げている。
桐宮深雪はほどかれた黒髪を邪魔そうに掻き上げながらかすかな微笑みを浮かべ、兄の顔をまるで珍しいもののように眺めている。
朱桐律人、黒髪の彼女は、名前や口調は男のようで、その容姿は中性的だった。落ち着きなく爪先で床をつつき、苛々している。
「えー、なんだ。俺ってば寝たりなんか・・・」
「してた」
「ばっちりね」
「らしいよ」
「馬鹿みたい」
「うっ・・・・」
遅刻して、寝ていたという事実に、ナイフのように突き立てられた言葉に、恵都は自己嫌悪で思わず痛みを錯覚して胸を抑えた。
「・・・・ヤバいな。ほんとに、殺されるかも。いや、殺されたか?」
ある女性の姿を思い浮かべ、名伏し難い恐怖にぶるっと震え上がる。
その女性はこのクラスの数学を担当し、尚且つ担任。今朝、一悶着設けたばかりの、弓槻だった。
「ああ・・・・浮かぶ、目に見えて浮かぶ! あの人が満面の笑みで何か赤いものを握ってる姿が!」
入学当初に刻まれたトラウマが軽く甦り、恵都は椅子に落ちて、頭を抱えてうわ言を漏らした。
それを見ていた四人は呆れたように顔を見合わせ、揃えてため息をついた。
「あの人、サディストだから」
「犬に噛まれたと思うが吉」
「南無阿弥陀仏」
口々に憐れむ三人を横目に、今日の経過を最初から知っている由良は口を切った。
「弓槻先生、体調が悪くなったらしくてお昼には早退したよ。だからお仕置きはないよ・・・・多分・・・・きっと・・・・そうだと良いなあ」
自分も怒られる理由があることを忘れていなかった由良は青ざめ、最後には自分の希望論を口にし、壊れたように笑いながらがたがたと自身を抱き締めた。
一人の女性に恐怖の代名詞、例えば幽霊や妖怪と同列のそれを感じて震える二人は、滑稽なほどに悪夢に怯えた子供を連想させ、三人は肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「ほらっ」
流石にいつまでもこんなことを続けていることが馬鹿らしく思ったのか、唐突に律人がぱんっと手を一つ叩く。
「怖ーいお姉様はいないから、ちゃっちゃと行こうぜ。明日は休みなんだし、お前等んちに集まるんだろ?」
恵都と深雪の顔を順に見比べ、鞄を持たせ全員を教室から追い出す。律人は先頭に立って階段へと向かい、四人も反論はなくそれに倣った。
校舎の外はまだ明るく、賑やかに運動部の掛け声が応酬している。暇な生徒も、廊下に群れて取り留めのない下らない会談に興じていた。
「えー、とりあえず買い物か?」
校門に差し掛かったところで我に返った恵都が三人を振り返り、それぞれと軽く目を見交わした。
「夕食?」
と由良。
「別に何でも」
「深雪の料理なら」
久遠の言葉を律人が引き継ぎ、視線は深雪に向けられた。
彼女は両脇の言葉が耳に入っていないらしく、鞄を抱えて何かを考え込んでいる。
「お―い、深雪。帰ってこーい」
恵都が彼女の顔の前で手を振り、意識を遠い世界からこちらに引き戻した。
「え・・・・あ、何?」
ぽーっとしながら前に立つ兄の顔を眺め、小さく首を傾げる。
「何、じゃないだろ。どうしたんだ、体調悪いのか?」
膝に手をついて顔を覗き込み、恵都は心配そうに表情を曇らせた。
ただ独りの肉親なのだからそれは当たり前の感情なのだが、決して兄を心配させまいと誓った深雪にはその視線は耐えられなかった。
「だ、大丈夫! 別になんともないから!」
ぐっと肘から上を立てて見せ、深雪はにっこりと微笑みを浮かべた。
しかし、彼女はその強がりを軽く見抜いていた。
「律人、あなたは深雪と一緒に先に帰って。私たちが買い物してくるから」
じっと深雪を観察した由良はその鋭い洞察力を働かせ、深雪が少しだが体調を崩していることに気が付いた。
律人は分かったとだけ呟くと深雪の手を取り、街に向かう三人とは違う道で帰路についた。
恵都、由良、久遠の三人は、それぞれ顔を見合わせて深々とため息をついた。
「さっさと済ませて帰ろうか」
恵都が静かにそう言うと、黄昏始めた空を仰いだ二人は呆れ気味に相づちを打った。
夜の闇が近付いていた。
―・・・・ひた・・・・
街に、世界に、人々に。
―・・・・ひた・・・・
鋭く鈍く。
―・・・・ひた・・・・
冷たく温く。
―・・・・ひた・・・・
痛みは人の持つ自衛の感情のなのだから、それは眠るように全ての人に降り掛かる。
月が昇っていた。
丸々とした、明るい月が。
暗く、闇に埋もれた街を赤く染めながら。
吹く風は酷く冷たく、ただの一人もこの気味の悪い夜に出歩きはしない筈だった。
けれど、彼女はそこにいた。
仕事が残業で長引き、最終の電車でほとんど無人になった街へと戻ってきた。
駅から自宅に向かうのに、わざわざ遠回りなどしない。
いくら時間が遅くても紛いなりにも歩き慣れた道なのだから、このまま近道である公園を突っ切った方が早い。
芝生が一面に敷かれ、木々が乱雑に立ち並んでいた。
―ぴちゃ・・・・
「・・・・?」
公園の中程を過ぎたところで、どこからか音がした。
彼女はいぶかしげに辺りを見回して立ち止まり、闇に目を凝らす。勿論、何かがいるわけではなく、再び歩き始めた。
「・・・・・・・っ・・・・・・・・・っっ・・・・・・・!?」
歩いていて、次第に足は速くなり、速くなり、気付けば走っていた。
別に何かを見たわけではない。
自分がなぜ走っているのかも分からない。
ただ、本能が叫ぶのだ。
走れと、振り返るなと、逃げ切れなければ、死が待っていると。
ナイフを突き立てたような明らかな恐怖が募り、彼女は全力で疾走する。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ・・・・!」
すぐに息が切れ、苦しくなり、心臓が破裂しそうになった。
久しく走ることなどなかった上に、ハイヒールをはいているのだ。本来なら走るなどできる筈もない。
ただ走らなければいけないから、命に関わるから、身体は器用に走らせてくれる。
その瞬間までは。
「――!」
ある木の下を通ろうとした瞬間、視界の端を何が掠めた。
気付いたときには、もう遅い。
「あっ、ぎ、あああ!」
何かにつまずき、転び、天地が逆転した刹那、肩と腕と腹と足と様々なところに理解を越えた痛み激痛が弾けた。
音を立てて食い千切られる肉と血管を裂かれて噴き出す黒い液体。
「ぎ―――――あっああああ――痛ッ――い! なんっ、誰ッ、いいいやあ!? 助け―――ごめんなさッ―――・・・・・何で・・・・私が・・・・ぎッ」
腕がどこかにいった。消えた。
――バキッグチュ――
足も、腰から下も、お腹の中も、空っぽになった。
――クチュックチュックチュ――
その液体は噴水みたいで、ぴゅーぴゅーと噴き出した。
――グチャッバキッベキッ――
真っ白なチョコレートみたいなものが砕けて、壊れた。
お腹の中身がぼろぼろと溢れ出て、ぴゅーぴゅーと、ぱきぱきと、色んなものがどうにかした。
「あはははは・・・・ははは・・・痛いよお・・・・・・・・おかあ――さん・・・・・・」
煩かった生き餌は、やっと静かになって、じっとしてくれた。でももう半分も残ってない。
でも、とっても美味しかった。
柔らかくって、瑞々しくって、とっても美味しかった。
でも、まだ足りない。
もっと食べたい。
さあ、食べに行こう。
さあ、苦しくなる前に。
さあ、行こう。
もっと一杯、お腹一杯食べたいから。
――・・・・クスクス、はは、あっははは、あっはっははははははははははは! ――
―・・・・ひた・・・・
月は、赤く、赤く、世界を闇と血に染めていた。
―・・・・ひた・・・・
それは、夜闇に足音を響かせた。
新しい、悲鳴とともに。
鳴り響くそれは、ゲーム開始のサイレンだった。