第二話「違和感」
学校は授業中らしい静けさに包まれ、校庭にも廊下にも人の姿は見られなかった。ただいくつかの教室の前を通る際に、くぐもった教師の声が聞こえるだけ。
「ギリギリ、一限目か」
桐宮恵都は音を立てないように抜き足で廊下を進み、自分の教室を目指していた。
「アウトだけど、ある意味セーフかな?」
恵都の隣をあるいていた桐宮深雪は歌うようにそう言うと、どこか愉しそうな表情で、かすかな笑みを浮かべ軽やかに跳ねていた。
優等生な彼女にとっては、単なる遅刻でも悪戯をするような愉快さがあるのだろう。恵都は心の中で微笑みながら、ぴたりと、不意に立ち止まった。
「・・・・・・?」
チリッと、肌が痺れた気がした。寒気のような、しかし僅かに痛みにも似た感触。ほんの刹那に感じただけでもう感覚はないのだが、なぜだか、やけに気になった。
「恵都? どうかした?」
恵都とは別の教室である深雪はその扉に向かいながら、立ち止まって首筋をさすっていた彼の背中に声を掛けた。彼は棘の刺さったような曖昧な顔で首を振る。
「そう? なら、また後でね」
彼女はそう言うと、後ろの扉から申し訳なさそうにして教室に入っていった。
「・・・・・」
一人残った恵都は、澄んだ沈黙の中に茫然と立ち尽くしていた。
日常に身を浸している筈なのに迫る、世界から存在を否定されたような疎外感。
子供染みた愚かな妄想。
恵都の心を、誰もいない廊下の空気がしくしくと侵食する。
「・・・・・・っ」
忘れていた何かが頭を掠め、白と黒の光が目先を過った。
震え上がる身体を自分で抱き締め、肩をぎゅっと掴む。
バタンッ。
「あっ・・・・・」
いつの間にか手放していた鞄を、半歩だけ後ずさりしたかかとが蹴り、はっと我に返った。
何かを思い、考えたような気が曖昧にするが、思い出せない。
額、頬、首、胸、背中、足。全身に冷や汗の流れる感覚がある。
季節的には少しは暑い筈なのに、背筋を氷が滑り降りる。
「あ、授業・・・・・」
ぼんやりと曇る意識が現実を手にした。鞄を脇に抱え、恵都は自分の教室の前へと向かった。
一限目の授業。記憶が正しいのなら、数学だ。担任は、遅刻を許しそうもない厳しい女性。
けれど決して性格が歪んでいるわけではなく、尊敬に値する人格者。
恵都は自分の頬を叩き、寝ぼけていたらしい頭を起こした。
「・・・・・うし」
改めて気合いを入れ直し、引き戸の取っ手に手を掛けた。しおらしくするのは自分らしくない。
恵都は勢いよく扉を開け放ち、中に踏み込んだ。
「おはようございまーすっ!」
びしっと手を上げて、クラスを見渡しながらいつもより遅いあいさつをする。
「重役出勤、ご苦労様」
唐突な恵都の登場に唖然とするクラスの友人よりも早く彼に反応したのは、眼前で仁王立ちしている赤いスーツを完璧に着こなした女性。
髪は肩口までで黒く、その物腰はきっちりとしている。
「あ、はははは、おはようです。弓槻先生?」
長身な彼女の湛える満開の笑顔を見上げながら、恵都も曖昧に微笑んだ。
「ええ、おはようございます、桐宮恵都さん?」
笑っている筈の彼女の顔に悪寒に近いものを感じ、恵都は思わず生唾を飲んだ。
「っわ!」
頭を抱えて反射的にしゃがんだ恵都の頭上を、殺気のみなぎる風が一陣走った。
「・・・・・席に着きなさい」
残念そうに深くため息をついた彼女は教卓へと戻っていき、恵都は、床に伏せたまま暫く固まっていた。
「・・・・お、おはよ」
着席した恵都に恐る恐るあいさつをしてきたのは隣の席の、心配そうにする友人だった。
「ああ、おはよう、由良」
茶髪の少女は由良と呼ばれ、僅かに目をぱちくりさせた。
「ん? どうした」
鼓動を落ち着かせるために深く肺を満たした恵都は、由良の異変に気が付くとひそひそと声を掛けた。
彼女はまだ驚いたように恵都の顔を見つめている。
「由良?」
「えっ?」
再び名前を呼ばれて、ようやく由良はその目に現実を映した。
「大丈夫か?」
数学の教科書を机に並べ、一段落をつけた恵都は見つめてくる視線をそのままに返した。
「え・・・・と」
由良はきょろきょろと挙動不審に周囲を見て、我に返ったように改めて恵都の顔をまじまじと見つめた。
「あの、由良?」
「へ? あ・・・ああ、おはよ」
にっこりと微笑んで、確かな口調であいさつをした。
「あいさつはさっきしたけど?」
周囲がうんうんと頷くほど当たり前のことを確認するように言うと、由良は一瞬きょとんとしてからテンパった様子でそうだよね、とごまかすように笑んだ。
「も一回訊くけど大丈夫か?」
身体ごと横を向いて、まっすぐにそれを問う。由良はたじろぎ、しかし何も異変はないと言葉を貫いた。
「ん、ならいいけど。遅刻した俺が言うのは若干おかしいけど、まだ朝なんだから無茶するな?」
恵都は上目遣いに由良の目を見上げてから、手で隠すようにその耳元に口を寄せた。
「ところで、あれ誰?」
窓辺の一番前の席を盗み見て、そこに座る見覚えのない顔を確かめた。「外人? 転校生?」
そこには少女がいて、その白金の髪はふわふわと長く、容姿は曰く日本人離れした甘美性があった。形容するなら、西洋人形のような、という言葉が合うのだろう。
「うん。転校生。外国人ていうか、クォーターらしいよ」
ひそひそと言葉を返し、由良もその転校生へと視線を向けた。
彼女は真面目に黒板の方を向き、教卓の弓槻の話に耳を傾けて、ノートをとっている。
「ふーん、名前は?」
まっすぐに転校生に目をやって、恵都が何ともなしに訊く。
「え、気になるの?」
「はい? 何が?」
由良の意味の不明な言葉にきょとんとして、恵都は少し怪訝そうに目を細めた。
由良はこれ見よがしにため息をつき、呆れ気味に首を振る。
「いや、何でもないです。気にしないで」
「ん?」
全く何が何ともわからず、腕を組んで深く首を傾げた。
「えと、名前だっけ?」
「うん」
話題の矛先を無理矢理に変更しようと試みると、彼は単純についてきて、それと予想できていた由良もさすがに拍子抜けしたような軽い失望感にちくりと頭を刺された。
「名前、ね」
「そ、名前」
「えっとね・・・・っ」
不意に由良の顔がひきつり、さーっと音が聞こえそうなほど血の気が引いていく。
「由良・・・・?」
視点は恵都を通り越し、その後ろの少し上に向けられていた。
恵都はゾクゾクといやな予感がするのを肌で感じながら、恐る恐る振り返る。
瞬間、ほんの少し前の経験が走馬灯のように脳裏を駆けめぐった。
「あら、どうしたの?」
仁王立ちする、やはり笑顔の弓槻。言葉は優しいが、口調は厳しい。
その裏にはマグマよろしく炎が煮え繰り返り、蛇よろしく黒い闇が舌なめずりしている。
「私は気にせず、続けていいわ。ねえ、桐宮恵都さん、柏木由良さん?」
表情も口調も変えずに、男女平等な静かな怒りを視線に込める。
「あの・・・・先生」
「怒って・・・・ます?」
由良の言葉を恵都が継ぐ頃には、周りの席だけでなくクラス全体が凍り付いていた。
緊張の糸が千切れる寸前まで張り詰め、地獄目前の二人の肌を切るように巻き付く。
「怒っているかって? くすくすくす、愚問だと思わない?」
両眸の奥がぎらりと光り、鋭い何かが鈍くにじるように広がった。
「えーとですね、はい」
「愚問ですよね」
北風より鋭利な冷たさの風がどこからか吹き、またクラスがぴきんと凍る。
「・・・・・・・・」
笑顔満開の沈黙。
「・・・・いいわ」
「・・・・え?」
滲んでいた殺気がしぼみ、弓槻はすっと音もなくつま先を返す。
クラス中の呆気に取られた声は完璧に一致し、その視線が揃って教壇に向けられる。
弓槻は黒板を背負い、教壇に手をついていた。顔には笑顔が張り付いたままで、しかしどこか鈍ったような何かが隠されている。
「・・・・」
状況の呑めない茫然自失のクラスを他所に、恵都は脳裏に引っ掛かる違和感に首を傾げていた。