第十ニ話「fragment」
陶器のような透き通る真っ白な肌と、月光を宝石の装飾のように散りばめた長い黒髪。
隙間から覗く俯いた虚な黒眸と、華奢な肢体を包む無垢のワンピース。
その少女は、白亜の壁に磔にされていた。
水平より少し上に広げた手を一振りずつの剣で縫い止められ、宙に浮いた足はまとめて切っ先に貫かれていた。
ワンピースの下から肌を伝う液体は指先を滴り、湛えられた水溜まりを一定のリズムで叩く。
「クスクス‥‥‥」
かすかな笑う声。
潜む、快感の滲んだ愉悦の笑いが、仄かな闇から響く。
その主たる影は磔の少女を足下から見上げ、水溜まりの中にぺたんと座っていた。
「クスクス‥‥クスクスクス‥‥」
異質な声の主であるまだ横顔にあどけなさを残す少女は、愉しそうな声で笑いながら、液体に身体を浸していた。
頭上の彼女と同じ天使を思わせる清楚なワンピースを染め、か細い下肢を濡らす。
「可哀想‥‥可哀想なお姉様‥‥クスクスクス」
静謐と、決壊した感情が崩壊した狂気を止めどなく流す。
ほとばしらせ、駆らせ、顔の左目を斜めに横切る包帯を赤く、そして涙で濡らしていく。
まるで悦ぶように泪し、悲しむように笑みを刻んでいた。
───雨垂れの音が、その贄を祝福する。
二人の巫女。
そして片割れ。
一方は血を捧ぎ、一方はその血を喰らう。
血とは、即ち根源。
無形を型成す万物の魂であり、或いは両儀を生む太極であり、液化した命そのもの。
滴り、血の張った水鏡を叩く、雨垂れの雫。
───下弦の月は蒼白く皓々と、歪んだ偽りを水面に揺らす。
響くものは、荒い呼吸の延長線。
乾いた笑みが、狂い憑いたように谺していた。
目蓋を開く間隙に目を覚めし、いつもより清々しい目覚めに驚いた。
膝上の白いスカートにブレザーを着込み、椅子の上で赤いニーソを履く。ちょっとはしたいないかとも思ったが、別に誰が見る訳でもないので気にしない。
姿見の鏡で最後に身嗜みを確認して、そっと廊下に出た。
肌寒さに軽く身震い。
平均的な私でも、床はキシッと軽く軋むようだ。
「平均的‥‥うん、大丈夫。ない訳じゃないから‥‥」
気にしないようにしても軽く自己嫌悪。
そう言えば、みーちゃんが好きな人を想っていればすぐに大きくなるって言ってたっけ?
女の子の胸には夢と愛情が詰まっているのだっ!
───なんて、男の人が周りにいる所でこぶしを突き上げて言ってくれたが、あれってセクハラだよね。
因みにセクハラとはセクシャルハラスメントの略だ。そんなことする人は最低だよ。
閑話休題。
冷蔵庫から取り出した卵を片手に、私は今更ながら考えた。
和食か、洋食か。
いや、愚問か。
日本人の朝は白いご飯にお味噌汁、お漬け物に焼き魚と決まっている。後はお好みで卵焼きを。
「‥‥何を言ってるんだ私は」
首をふりふり。
まあ、朝は和食じゃないと元気出ないのは事実だけどね。
「と言うわけで、気合い入れて作りますか。六人分だから作り甲斐があるね」
炊飯器の稼働を確かめながらエプロンを装着、フライパン片手に卵を持って料理開始───というところで。
「うりゃ!」
「うひゃい!?」
やにわに両脇がこそばゆくなり、ぞくぞくっと背中に寒気が走って思わず変な悲鳴が出た。
「ふっふっふっ、いい声で鳴くねぇ」
愉快に笑いながらもつーっと背中を指でなぞり、そいつはクスクスと声を潜めた。
「か・ぐ・らぁぁ‥‥」
振り返り、急いで手を払ってやる。
膝をついていた神楽は、心底から可笑しそうにしながら立ち上がった。
───手を、払った。
違和感に両手を見る。別におかしくはない。
ぐっぱと指を閉じたり開いたり。
あら。
「‥‥‥‥あ‥‥‥あぁぁあ!? 卵ぉ!?」
何で手を開ける。ものを持っていた筈なのに。
はっと我に返った途端にしゃがみ込み、床を撫でる。
しかし、そこには別に殻もなければ中身もなく、うっかり落としてぶちまけた訳ではないらしい。
そりゃそうだ。フライパンもないのだから落ちたら音がする。
じゃあ。
そこにある足から太ももを伝って視線を上げてみると、彼は、にっこりしながら両手に持ったそれらをこれ見よがしに左右に振っていた。
「落とすなよ?」
「なら脅かすな!」
項垂れて深く安堵の息を吐き、胸を撫で下ろす。
食べ物には八百万の神様が宿っているのに、全く危ない。
あまりの驚きにちょっと痛いくらい心臓が暴れて、私が心臓発作で死んだら多分に神楽のせい。
「何の用よ、神楽。私は忙しいんだけど?」
「僕だって別に暇じゃないんだけどね。ただ、気持ちほど手持ち無沙汰なだけだよ」
それを世間一般は暇と言うのだが、敢えては言うまい。
「手が空いてるなら朝食の準備、手伝う?」
「良いですよ、お姫様」
「誰がお姫様だ」
適当な会話をしながら私達はキッチンに並ぶ。
手早くさっき立てた献立を説明し、分担作業で私は卵焼きを作り始めた。
ちらりと隣を見ると、鼻歌混じりに包丁を扱う神楽。時折、くるくると回して遊んでいるが、注意しなくても落として怪我をする、何てことは多分ないだろう。
無意識に、癖のようにやっているようだから。
「あ、ねぇねえ雫玖ぅ」いやに艶かしい声色で神楽が囁いた。
「聴いてるからそんな声出さないで」
「あのさぁ、今日はどうするの? 外行く?」
横顔に視線を感じる。神楽が見ているのだろう。私は手元から目を離せないので、申し訳ないが言葉だけを返す。
「予定は未定だけど。目的もなく死線をくぐってみる?」
「えーやだなぁー」
「私もヤ。珍しく意見が合ったわね」
「んーでも、消極的じゃあゲームには到底勝てないよ?」
「ぁ───」
唐突な、あまりに予想だにしない明確な意図を宿した言葉。
ゲーム───つまり、勝敗を賭けた二者による対峙。
意味も、理由も、そして目的も。
凡そ人の行動の原理となる全てが欠落しているこの現状で、一体なぜそんなものに臨むことが出来るのだろうか。
考え込んでしまい、会話が途切れた。
辺りはシンと静まり、耳の奥に何かのチャージ音のようなキーンという音が響く。
「‥‥惑ってる?」
ふと、言葉に詰まる私の胸中を悟った神楽が、泣きじゃくる子供をなだめるときのように頭に手を置き、髪を撫ぜながら静と顔を覗き込んだ。
私は、横からの彼の目に見つめられて閉口。
ほんの少しだけ、首を縦に振った。
「そっか」
そう言って満足げに目を細めると、彼は口をつぐんで朝食の準備に従事した。
やはり、私には彼の真意が図り知れない。
私達の知り得ないことをいくつも知っているその知識と、立場。
私を守ろうとする反面、求められなければ多くを呈示しないその矛盾。
生きろと言外で告げ、そのくせ私を死地に放り込もうとする発言と行動の相違。
瞳、表情、身振り、口調と声色。
まるでそよと吹く風に揺れる、地に根付く野花のようなたゆたい。
不確かで、水鏡に映る偽りの月が揺れるような、場合によって形を変える霧のような性格。
天然と言う訳ではない。
計算でもなく、打算でもなく。
言うなれば、理解。
その場にふさわしくない態度で必要とされる言葉を用いる逆説的な行為。
ルールを知らない単なる愚か者なのか、或いは常識常套の遥か外にある天才なのか。
どちらにせよ、彼は敵じゃない。しかし味方でもない。
今は、恐らくたまたまこちらにいるだけの話。
或いは、何かの目的の為の手段と過程。
それなら、彼は信頼に値しないのか。
それは否だ。私は頭では彼の抱く諸刃の危険性は理解しているが、無意識に無償の心を、信用を寄せている。
彼は、何を差し引いても頼りになるし、強く知識人だ。
何より、私達とは違う。
大人、だ。
思い遣りの中に見切りをつけて、子供の甘さを捨てている。
見ようによっては確かにそれは冷酷に見えるが、きっとそれこそが大人なのだ。
彼は信頼できる。
それも、この身と命を預けられる程に心強く頼り甲斐がある。
これは断言。
覆らない自中の真理。
私達が生き延びるには、彼を頼る以外にない。
これは、確信だ。
「───雫玖!」
「はわ!?」
やにわに名前を呼ばれ、変な悲鳴を上げてしまった。
ビクン、と飛び上がり、あわや椅子から落ちそうになる。
「はわじゃない。さっきからずっと呼んでるんだけど?」
私の向かいに座った神楽がやれやれと首を振り、本当に呆れ気味に深くため息を吐く。
「や、えと‥‥あーごめんなさい」
三樹雪花ちゃんと微花さん、遠藤燐さんに上条久人君の四人は声をひそめてくすくす笑っていて、私は萎縮しながら赤面した顔を隠した。
「‥‥‥昨日話した事は全て真実。これはもう、認めたね?」
「え───?」
神楽は、私を見ながらそう言っていた。
無意識に周りを見れば、真剣な眼差しが私の動向を観察している。
再び、神楽へと視線を投げる。
彼は何も載っていないテーブルの上で組んだ指で口許を隠し、それ越しに双眸を眇める。
「返答は?」
「わ、私は───」
返すべき返答は既に決まっている筈なのに、何だろうか。
何か、言い様のない感情が───支配する。
口ごもり、体温が上昇して、血管を流れる血が速くなる。
動悸が激しくなって、唾とも空気ともつかない苦いものを飲み下し、ぎゅっと服の上から胸を掴み抑え込む。
ダメだ、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け。
何度も何度も自分に言い聞かせること自体が既に慌てていると気付きもせずに、次第に鋭利になる神経が押し潰されそうな静寂に耳を傾ける。
肌が熱を帯び、目が眼球を後ろから圧されるような圧迫感を錯覚し、内臓の全てが悉く捻れ、また───脳のどこかで───何かが、軋む───。
「うっ‥‥」
足元から這い上がりつつあった感覚が、到頭胃から喉を駆け昇り、口許にまでせり上がってきた。
咄嗟に身をよじって口を覆い、冷たいテーブルの表面に額を押し付けて熱を冷ます。
不愉快な瘧が、全身をくまなく蠢動する。
まるで、私を責め立てるかのように───。
‥‥ズクンッ‥‥!
初めて、ひいらぐような軋みが、明確な痛みへと到達した。
太い針を刺すような、傷口をグリグリと抉るような、生理的にも吐きそうになる痛み。
疼痛よりも質悪く、激痛よりも精神的に、焼き焦がすような苦しみがじくじくと私を犯す。
「‥‥雫玖‥‥」
誰かのその囁きが最後。ここで、意識を失う。
深く安らかな、痛みも苦しみも怖さも惑いも何もない、ただただ深く色濃い闇が私を受け入れた。
眩しい光に目を覚まし、眠たい目を擦りながら身体を起こした。
どこからか漂ってくる食欲を誘う香りに誘われ、ソファからキッチンへふらふらと向かった。
トントンとまな板を叩く包丁の音。
灯された明かりが逆光のように寝起きの視界には眩しく、目を擦りながらその光の中の人物に目を凝らす。
手を小刻みに動かしてまな板の上で何かを刻む、何でもない日常の風景だった。
「‥‥‥‥」
その横顔は優しそうで、真剣に料理に取り組んでいる。
水色のシャツに白いミニスカート。
すらりと伸びた足のラインは綺麗で、対照的な黒のニーソックスに包まれていた。
朧気な頭の中に、ある少女の姿が霧のように泡沫に浮かび上がり、ぼんやりとその名前が口を突いた。
「深雪‥‥‥?」
まるでまだ夢を見ているようで、誰かは判らなかった。
夢の住人は小声で呟いたのが聴こえたのだろう。
手を止め、エプロンを少しだけ翻して、柔和な口元に朗らかな微笑みを浮かべた。
「あ」
彼女の振り向き様、ちりんと丸い檻の中でカネの玉が転がる音がした。
「お早う、恵都クン」
条件反射らしい優しかった笑みを悪戯っぽく目を細めて、足首に付けた鈴を一歩、またちりんと鳴らす。
恵都は少し呆然としながら、こくんと頷く。
「お早う‥‥美百合」
「うんっ!」
「‥‥」
「な‥‥何、どうしたの?」
「‥‥いや」
心ここに在らずとじっと見つめてくる恵都の眼差しに、少し頬を赤らめて困惑する美百合。
彼はついと視線を外し、壁に肩を押し付けるように深く息を吐く。
馬鹿な観測だと内心自分を嘲笑い、ほんの僅かな日常への希望から生まれた大きな落胆と、胡乱な納得に押し潰されそうになる。
彼女に失礼だと思いながら、けれど朧な罪の意識を遥か奥底に押し留め、明るい口調を努めた。
「ちょっと寝惚けたかもってだけだよ」
「‥‥‥‥?」
久遠寺美百合は、桐宮恵都にほんの僅かな違和感を覚え、首を傾いだ。
「何作ってるの?」
「ああ、朝ごはんだよ。ベーコンにー玉子をスクランブルにしてー、後はサラダをちょいちょいっとねー」
美百合は思い出したように調理中の料理の前に戻り、ターナーを振り回して説明する。
「‥‥‥料理なんかできたんだ」
恵都が呟く。
「ぅわ、しっつれー」
美百合は嬉しそうに怒ると、コンロの火を止め、用意してあった皿に手早く料理を盛った。
二人は両手に皿を持って運び、テーブルを囲む。
「あ、美味しい‥‥!」
「でっしょー? 料理にはけっこぅ自信あるんだから」
「いや、もう‥‥馬鹿にしてごめんなさい」
机上に手をついて深々と頭を下げる恵都。美百合は満足げに頷き、科白調で応える。
「判ればよろしい。で、これで足りるかな? 男の子にはちょっと少ないかもだけど」
「んにゃぁ、充分足りるよ。ありがとう」
にっこりと感謝の笑みを浮かべながらも次々と料理を口に運び、皿の上はすぐに空になる。量が少なかったということもあるが、恵都の食べる速度は速かった。正面に座る美百合の皿には、まだ半分以上の料理が残っている。
美百合は、フォークの先をくわえてそれぞれの皿を見比べる。
「もうご馳走様?」
「うん、ご馳走さーま。美味しかったよ、ありがとう」
「‥‥少食なんだね」
「そ?」
「男の子はもっと食べなきゃだよ。持たないでしょ? ん‥‥ん‥‥ご馳走様でした」
会話をしながらも食事を進めていた美百合は、恵都より遅くともそれでも食べるのが速かった。
カチャン、とフォークを重ねた皿に置き、恵都の前のそれも引き寄せて四枚を重ねフォークを並べる。
「あ、ごめん」
「んーん」
「洗い物くらいなら俺がするよ?」
そそくさとキッチンへと戻る美百合の背中を椅子に座ったまま振り返り、美百合は意地悪く口元を吊り上げた。
「男子厨房に入るべからず、て言葉もあるよ」
ピリッ、と背筋に無意味な威圧感。恵都は、全身を引きつらせて声を上げることもできず、こくんと頷いた。
「ねえ‥‥‥」
椅子の背を抱えるように座った恵都が、ふと母親のように洗い物をしている美百合の背中に声を掛ける。
美百合は振り返らず、手も休めずに応じる。
「んー?」
「もう一度、訊いてもいいかな」
「‥‥‥また?」
少しだけうんざりした風に手を止め、肩越しに振り返る。
「ごめん」
「いいけどね、別に。疑念をそのままにするよりはまだマシ」
「‥‥‥‥うん」
申し訳なげに視線を落とす恵都。美百合は肩をすくめ、恵都に気付かれないように儚げな苦笑を浮かべる。
「日常は終わり。これはもう、認めなくちゃ」
恵都が真剣な面持ちで頭を縦に振る。
「‥‥‥‥割り切って。全部、今までの全てを切り捨てて覚悟を決めなくちゃ、この歪みきった狂気の世界では到底生き残れない」
言うが早いか、ちりん、という鈴の音は恵都のすぐ傍から響き、その影が揺らいだかと思うと美百合の姿は目の、ほんの目前に迫った。
ぐっと乗り出された双眸が、驚きで見開かれた二つの眼球を射竦める。
───悪夢は、自らの意思でのみ断ち切れる。私の尊敬する方のお言葉、だよ。
「ふふ」
「‥‥‥‥‥!!」
ぞっ、と地底から響いてくるような調子の声と、まるで相違する聖母のような微笑が相まって、背筋を冷たい汗が流れる。
「‥‥‥‥‥くすくす、脅し過ぎた、かな?」
一転。
一歩後ろに下がった少女は悪戯っぽく囁き、小さく小首を傾いで窺うように恵都を見る。
「‥‥‥質問は、現状の異常性に対する因果の紐解き、だっけ?」
興味がないとでも言いたげに軽くノビをしながら訊く。
しかし、次の恵都の返答は、肯定を予想した彼女の考えとは違っていた。
恵都は、いや、と否定する。
「‥‥‥‥‥‥ぇ?」
「いや、それはもういいかなって」
「納得、したの?」
今度は美百合が驚きながら返すと、恵都は曖昧に笑いながら、一瞬の思考の後で答えた。
「ある意味で、かな。考えても仕方ないってことで無理矢理納得したよ。‥‥‥それよりも、君の怪我の具合の方が気になって」
ほんのりと赤面して、つい、と視線を外す恵都。
「い、いや、大丈夫、大丈夫だよっ!? 殴られただけだし!」
美百合もつられて赤くなり、あたふたと慌てる。
そこにはもう、さっきまであった凄みはなく、ただただ可愛らしい少女の姿だった。
「でも‥‥‥‥‥あんな‥‥‥‥‥ッ」
美百合が脇腹に手をあてがうのを見た瞬間、その時の光景が鮮烈に思い出されてしまい、一気に恐怖が甦った。
身体が萎縮し、ぎゅっと自身を抱き締めても、零れてくるその黒い熔岩が内側を満たしていく。
それは溢れると、だらだらと全身を冷たく流れ落ちる。
本人よりも、傍で見ていた恵都の方がその感情は大きく、深く心と記憶に刻み込まれていた。
「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥!?」
ふと。
また、いつの間にそこにまで近付いていたのか、美百合が恵都の前に立っていた。
自分の関係する光景におびえ、怖れる彼。
美百合は、何を言うわけでもなくそっと両腕を広げ、その胸に恵都を抱き締めた。
「え‥‥‥あの‥‥‥美百合、さん‥‥‥?」
無意識に敬語になってしまった恵都は、顔に柔らかいものを感じて真っ赤に当惑する。
「んー?」
「何‥‥‥してるんです‥‥‥‥‥か?」
「んー、慰めてる」
「えーと、なぜ?」
何気ないというより自らの戸惑いを自分、そして彼女に誤魔化す為のその言葉に、後頭部のすぐ近くにあった美百合の呼吸がピタリと止んだ。腕にたわむような力が僅かに加わり、少しばかり息苦しくなるほど胸に押さえ付けられる。
すっと恵都を放して一歩後ろに下がり、ポケットから取り出したヘアピンで前髪を留めた。
それはカラフルな、色はおかしいが百合を模した柄だった。
「‥‥そう言えば、まだ話してなかったっけ」
「え?」
「私が───鈴風美百合が、あなたに近付いたホントの理由」
「鈴風、美百合‥‥?」
怪訝と、椅子から立ち上がった恵都が真正面から美百合に対峙する。
彼女はヘアピンを指先でそっとなぞりながら、自嘲気味に含み笑う。
「そう、鈴風。戸籍上は久遠寺が名前で鈴風は旧姓になるけど、私は鈴風美百合。それ以外の何物でもないわ。久遠寺なんて名前、呼ばれただけで吐き気がする」
そう言った美百合の目には、さっきまでの彼女から信じられないほど明確で色濃い憎悪が、明々と宿っていた。
「ねぇ‥‥‥‥恵都」
「‥‥‥‥」
ふと、美百合が彼の名前を呼び、恵都は言葉を紡ぐこともできずに無言で応えた。
美百合の瞳はそれでも構わないと告げ、そして彼女は、彼が無意識に予期し否定した路へと、扉を開く。
「恵都。私を、殺して」
「‥‥‥‥‥‥」
あれから一体どれほどの時間が過ぎたのだろう。そう思い、ふと伏せていた目を窓辺に向けると、そこには一寸先すらを覆い隠す漆黒の闇が沈んでいた。
部屋は黄昏よりも暗く、一歩も動いていない筈なのにここがどこなのか、一瞬の疑問が過った。
座り続けた革のソファは生暖かく、板張りの透ける硝子のテーブルに載った珈琲はとっくに冷めきってしまっている。
かち、かち、かち。
壁に掛けた時計が、立ち止まることのない時間の流れを刻む。
時刻は深夜。日付の変更を十分後に控え、いつもならとっくにうとうとしている時間に、冷めきった珈琲で喉の詰まりを一気に飲み下す。冷たさと苦味で目が覚め、頭の中に掛かっていたもやがさあっと晴れていく。
「‥‥‥行こう」
呟き、テーブルの上に置かれたものを取る。
黒く塗られた木の両端を掴み、引き抜く。
すらり。小気味のいい音をさせ、月光を反射する鋭い白銀の輝きが姿を現した。
鍔も峰もない、ただ刃だけが攻撃的な印象を与える諸刃の短刀。
持ち手は意図的に薄く削られ、あった筈の銘が消されている。
刃を透かし見ると波打つ刃紋が月光に揺らめき、幻想を抱かせるように心を捉えて離さない。
これも、ある種の魔力。見る者に魅せ、了する。鎖と糸と、あとは目に見ることのできないこれが辿ってきた過去の記憶。
それが、身体と精神に染み込んできているのが感じられ、その言い様のない寒気に思わず刃から目を逸らして元の鞘に封印する。
────元の、鞘。
全てがそう終わってくれれば、日常が再生してくれれば、或いはもうこんなことをする必要はなくなるのかもしれない。
「‥‥‥再生、か」
普通に思った自分の言葉に苦笑する。
日常はもう、回復しない。どうあってもそれが直ることはない。
だから再生。また、一から構築し直すだけが、取り戻す方法なのだ。
無駄だと、分かっているけれど。
チリン。背後で鈴の音の幻聴が聴こえ、何を思うでもなく振り返る。
幻聴なのだからそこには当然何もいない。ただ、深い暗闇が口を大きく開け、こちらを呑もうと迫ってきている。
それから逃げるように、自然、動き始めた足が玄関へと向かい、それを前にするとまるで断崖の縁に立つような錯覚を覚えた。
足元の遥か下で黒い海が雄叫びを上げながら、こちらを呼んでいるようなそんな錯覚。
闇は、さながら突き落とす心積もりのように、背後に迫っていた。
本当に手が伸びてくる前に鍵を開け、いつもより重い扉を開ける。
外は静かで、月光が明るく眩しさすら感じるような気がした。
靴を引っ掛け、外に飛び出す。
夜気の冷たさが興奮と緊張で火照った身体を冷やし、仰いだ空の透明度と深度にぷつぷつと手足が粟立つのが分かった。
────かちん。
無意識に、手が短刀を少しだけ鞘から抜き、また収める。
それは曖昧に脳を蕩かした夜の雰囲気をすっぱりと切り、呑まれそうになっていた意識を明確な現実に引き戻した。
「何してるんだ、俺」
呟き、かつんと右足を前に踏み出す。
次いで左足を前に、目的地へと角を曲がる。
一歩。また一歩。
足がしっかりと地面を踏み締める度に、彼は自らが桐宮恵都であるということを自覚し、乖離していた精神とその思考が本来あるべき場へと回帰する。
進むことを拒否する身体を強引に前と押し出し、空の月に目を眇めながら頭のスイッチを切り替える。
現実を否定するような思考に溺れても窒息死するだけだというのに、その夢想に潜り込んでしまっていた脳回路を一から組み替え、本当に目の前という目前に迫った選択へ目を向け、変え難く耐え難い現実を直視した。
「‥‥私を、殺して────か」
そこにあるものを観測すればそれに関連した記憶が蘇る。
恵都は、無意識の内に数時間前に美百合の口にした言葉を、確認するように改めて反芻していた。
日常を暮らしていた頃は全く親しくもなかった美百合という少女。
記憶野を検索しても彼女に関する項目は数えられるほどもなく、ただ、名前と成績がいい優等生であるということしか知らない。
それ以外の情報は、日常が崩壊して初めて知ったことばかり。
料理がうまく、明るい性格をしていて、しかし時々陰のある表情をする、普通の女の子。
なんて、薄い関係。
にも拘わらず、彼女は桐宮恵都に懇願したのだ。
自分を殺してくれ、と。
「‥‥‥‥ふざけんな、一方的に言って、勝手に決めて、逃げやがって」
しかも、その手段としてこの短刀を渡し、心臓を抉り出せという猟奇的な注文。
狂っているとか、イカれているとか、もうそんな心理的な病の範疇を大きく飛び越えている。
超越している。
ただアブナイと、恵都には感じられていた。
だからか。だからこそ、なのか。
桐宮恵都には、とてもではないが鈴風美百合を死なせる気は、毛頭からなかった。
冷酷だと言われるかも知れないが、恵都自身は誰かが自殺するということに大した感情を抱いたことはない。
自殺とは自傷だ。ただ、それが命に関わる程度に大きいという大小の違いがあるだけで、小さな子供が誰かの関心を得たくてわざと転んだり怪我をしたりするのと同じ。
ただ異にするのは、それが如何なる意義を持ち、如何なる者の目的と価値の放棄か────ということだけ。
故に。
桐宮恵都にとって自殺と他殺の曖昧な相違は、それこそ一か二の僅かなヒズミに過ぎなかった。
そしてそのヒズミはそのままに桐宮恵都その物。
自殺に無感情である一方で他殺に嫌悪感を抱き、死その物を遠ざけようとする。
────が。死と、そしてその為の殺害行為は、まるで背に迫る闇のように死神のように恵都を追い続ける。
まるで、彼の中に少なからずも存在する、混沌とした、快楽を得る為の殺人衝動を促すように。
「‥‥‥‥く、くくっ、あ、ははは、はは、は」
可笑しくもないのにオカシク、渇いているとはいえ笑える辺り、充分に自分も故障している。
恵都は内心、自虐的に独りごち、地面から眼差しを上げて目の前の角を確かめた。
ここを曲がれば、後は直線を突っ切って坂を登るだけで、目的地の教会に到着する。
恵都は、無造作に持った短刀を握ったまま、何の警戒もなくそこを曲がった。
「────」
立ち止まり、ピッタリとその動きを停止させる。
通り向こうの坂の下。
この辺りに一つだけの街灯が明かりを落とすその場所に、手を繋いだ二つの影があった。
闇の海原にぽつんと浮かぶ光の孤島に佇む、時代錯誤な格好の人形。
にこやかな表情と浮世離れした雰囲気に凡そ人間から外れたような気配を帯び、それ等の一つが嬉しそうに声を発した。
恵都は、その明るい声で初めて、それがマネキンではなく生きた人間であることを、理解する。
「────お久し振りです、お兄様」
数メートルの距離を隔てた耳打ちのような声に、ぞくん、と背筋に寒気が流れ落ちる。
動脈にピッタリと刃物を突き付けられたように、心臓を容赦なく鷲掴みされたように、引きつった全身が萎縮する。
無意識に後ろに下がり、詰まった喉に唾を呑み下して硬直しきった肺から空気を吐き出し、浅く呼吸する。
「あの時以来‥‥‥」
にこり、と笑わない笑顔を浮かべて、右のそれは赤く光る双眸を冷徹に細めた。
同じ顔、同じ背丈のその二つは双子らしく、フリルが装飾されたドレスのような服────所謂ゴシックロリータの格好に身を包み、腰ほどまでの長い髪はレースで一つにまとめられていた。
ただ、全てが同一のその姿も、ただ一つだけが決定的に対照をしている。服と髪留め、その色が全くの対だった。
────黒と、白。
「────」
淡い街灯に浮かぶ、二体のモノクロ人形。
その様は闇夜をさ迷う亡霊のようで、そこにいると意識で認めている筈なのに身体は、まるでそこには何もいないかのように気配を感じない。
その不快さが、胃をねじ切らんばかりに滅茶苦茶に掻き回す。
「っ‥‥‥!?」
全てを吐きそうになる嘔吐感に身体をくの字に曲げ、反射的に口を手で覆って歪んだ視界をそこに見上げる。
まるで、絵画だ。
それも負と怖を模して描かれる、作者の狂気と悪夢が浮上するような質の悪い、気味の悪い絵。
それなのに。
惹かれてしまう。
どうしようもなく、怖いほどに心を侵される。
「朝‥‥夜‥‥!」
思うでもなく思わないでもない曖昧な感覚の末、ただ双子の名前だけが喉から絞られた。
繋がれていた二人の手はやにわに離れ、黒い右の少女────朝は音もなく夜より前に出た。
すっとその足で地を踏み締め、スカートを摘まんで膝辺りまでたくしあげる。
「さあ────」
朝がにこやかに囁く。
白く透き通る足のラインが美しく暗闇に浮かび上がり、僅か後ろから夜の手がそこへと伸びた。
「遊びましょう────!」
夜が低く飛び出し、しゃりん、と綺麗な音が響いた。
────キン、キキン、シャオン‥‥!
打ち合う度に鋭い金属音を鳴らし、鍔迫り合う度にどちらでもなく真横に薙ぎ払う。
ちか、ちか、と金属と金属がぶつかり擦れて火花が散り、その熱すらを巻き込みながら銀色の光が軌跡を描く。
「くっ、そぉ‥‥‥っ、────ぅあぁ!」
離れたばかりの切っ先を切り返し、更に一歩深く踏み込んで間合いを詰める。
突き出した短刀を添うように銀の軌跡が腕元から這い上がり、胸の深みに浅く振り下ろされた。
「っ‥‥」
咄嗟に身をかわして辛くもそこから逃れ、迫った間合いを一気に開く。
さあ、と夜気に濡れた風が場面を転換させるように吹き抜け、夜のスカートが裾を揺らした。
「クス、中々どうして。いい動きね、お兄様。クスクス‥‥‥」
笑いながら、彼女は手にしたそれの先端にちろりと出した舌先を這わせ、そこに付着する黒い液体を舐め取った。
「夜‥‥‥なんで、邪魔するんだよ‥‥‥」
僅かに揺れる肩を整えながら懸命に言葉を絞り出す。すっと胸に手をあてがい、濡れた感触にその手のひらを見た。
さっきの斬撃。かわしきったと思ったが、それは完全ではなかった。胸から鳩尾にかけて服が破れて、微量の血が流れ出している。
「あは‥‥‥」
返答を待った恵都の耳を震わせたのは、夜のかすかな微笑の吐息。
それが辺りに谺して、継いで言葉が紡がれる。
「邪魔だなんて、そんな野暮はしません。ただ、忠告をお伝えしようかと思っただけです」
「忠告‥‥‥?」
なぜ邪魔をするのかという問いに、夜はただ否とだけ答え、忠告すると述べた。しかし、その行動は既に恵都を阻害していて、彼が訝るのは当然だった。
────が。それを言葉にしたのは、恵都ではなかった。
「邪魔している癖に何を言っているんだ、という顔ですね。お兄様?」
夜は語り、こつん、と一歩前へと出る。
それは、恵都の間合いである領域を侵すのではなく、兄か弟、兄弟に歩み寄るようなそんな友愛さえ帯びた自然な動作で、殺意の殺がれを感じた恵都は無意識に詰められた一歩を開く。
「ふふ、訝らずとも結構ですよ。私たちはあなたが誰を殺し、誰を壊そうと干渉しません」
「ふざけるな! 俺は誰も殺す気は────」
「ですが」
「っ‥‥‥‥?」
夜の言葉に激昂する恵都の科白を遮り、こつん、という音とともに傍観に徹していた筈の朝が声を上げた。冷たく、全てを腐蝕するような絶対零度の炎のように、その眼差しが恵都の動作を指一つ動かせないように縛り付ける。
「‥‥ですが、これだけは赦せません‥‥」
つ、と冷や汗が首筋を滑落する。
末端の神経までが痛いほどに痺れる。
心臓が狂ったように鼓動し、全身の脈動が鼓膜を震わせた。
短刀を掴む手が、小刻みに震える。
「‥‥‥あの女と関わることだけは、絶対に赦さない‥‥‥!」
「っ‥‥‥‥‥!?」
怒りか憎しみか、或いはその両方か。朝は感情を噛み殺すように歯軋りをして、まるで懇願するように吠えた。
じわりと、身体の芯から熱が込み上げる。傷の辺りから痛みと息苦しさが滲み出し、無意識に手が心臓を抑えた。
────是非を問うのならば、どちらが非か。
それは、身体が教えてくる。
どちらが正しく、どちらが誤りで、何を選択することが桐宮恵都にとって唯一の正解であるかは、桐宮恵都という存在の全てが教えてくる。
流れる血、震える肉、軋む骨、割れる意識。
ノイズが走る脳は脊椎へと、命令を下そうとしていた。
判っている。
知っている。
理解しているのだ。
命題の是非とそこにある意義の有無、選ぶ道とその先の景色。
重要なのは何が正しいかではない。
問題は、何が間違えているのかだ。
そしてそれは、現在。
つまり今の自分の行動こそが誤りだということ。
そんなことは論ずるまでもなく、火を見るよりも明らかだ。
例えそれが理外の理であろうとも、それこそが真実。
‥‥‥‥しかし。
「だから、ね。お兄様。ここは通せないの」
申し訳なげに、凶器を逆手に構えながら、夜は小さく首を傾げた。
恵都は。
桐宮恵都はそれでも自分の手足を縛る鎖を振り払い、ぎゅっ、と短刀の柄を握り直して、その切っ先を持ち上げて告げた。
毅然と、明確に。
「それでも、だ。俺は、ここを通る。今はそれしかできないから」
「その先に待つのが、今以上の絶望と狂気だとしても?」
「ああ」
目を細めて威嚇するように告げた夜の問いに、恵都は一瞬と考えずに答えた。それが、自らの意思を最も明快に伝えると自覚して。
夜は意図を探るように恵都を見据え、沈黙して、その内にふう、とため息を洩らした。
「まあ‥‥‥仕方ないでしょう」
「夜!?」
驚いたように朝は声を荒げ、姉妹の背中をきつく睨み付ける。
夜は首だけを動かしてそれを振り返り、真正面からその視線を受け止めて尚、まっすぐにそれを見つめ返す。
「朝、身の程をわきまえなさい。私達は呼び止めることはできてもその手を取ることはない。何を選ぶかは、お兄様が決めること」
静かな口調で淡々と、既に視線すらを外して彼女は言う。しかし、それでも朝は食らい付いた。
「でも!」
「朝」
「っ‥‥‥!」
冷淡な、突き放すようなその響きに朝はびくりと小さく飛び上がって、たしなめられた子供のように渋々と同意を示す。
「判ったよ‥‥‥夜」
「よろしい。‥‥‥お兄様」
「え、あ、はい!?」
不意に視線を向けられ、双子の姉妹のやり取りに見入っていた恵都はさっきの朝と同様に飛び上がり、慌てて返事をした。夜はそれを無視して、スカートの両方をゆっくりと持ち上げて恭しく大仰な仕草で一礼し、上目遣いに恵都へと眼差しを流した。
「では、また」
短く告げる。
つま先を返し、朝を伴ってどこかへと歩き始めた彼女は、不意に何かを思い出したようにぴたりと立ち止まった。
ちらり、と目だけで恵都を振り返る。
「最後に、一つだけ」
感情のない薄い表情に、しかしどこかもの悲しげな色を帯びて、彼女は慎重に組み立てた言葉を紡いだ。
「お兄様の‥‥‥妹とご友人のことですが」
「何か知ってるのか!?」
ずっと心に燻っていた一つの不安を思いもよらずに透かされ、恵都はほとんど反射的にそう声を荒げて一歩前に出ていた。
大切な人の安否について昂った感情は、易々とは落ち着かない。
「知っているなら教えてくれ! みんなは、妹はどこにいる!?」
「‥‥‥‥‥‥」
必死に叫ぶ恵都に、しかし夜はあくまでも無感情に見つめ返す。
「頼む、答えてくれ!」
一歩、詰め寄って恵都はまっすぐに夜を見る。
夜は、一頻りそれをただ見返して、つい、と視線を前方へと戻した。
「‥‥‥‥もう、多分、諦めた方が良いですよ」
「ッ‥‥‥!」
それの意味するところがどれほどに深いのか、ただ恵都は思わず息を呑んだ。
少しだけ振り返ろうとして逡巡し、それきり、夜はもう振り返りも立ち止まりもせずにこの場を立ち去った。
呆然と立ち尽くす恵都を独り、その場に残して。
ぎぃぃ‥‥‥。
扉を押し開くと、この場の神聖さを思い知らせるかのような音が、聖堂内に響き渡る。
教会の中はいつかの時と同じに厳かな空気を内包し、淡い闇が祭壇の後ろのステンドグラスから射す月光だけに引き裂かれていた。
────彼女は。
まるで、その着色硝子に描かれた聖母のような神聖と慈愛を帯び、来るべき者の到来が今である事を予期していたように、その場所にいた。
入り口から伸び、翼廊と直交した身廊の果て。
祭壇と境界を背に、身廊の両端で、少年と少女は対面した。
「やあ‥‥待ってたよ。────桐宮恵都」
来訪者の姿を認め、少女はこの場に相応しく凛とした声で告げた。
「美百合‥‥‥」
ぽつりと、呼応するように少年も名を呟く。
美百合はかすかに微笑を浮かべながら、ちりん、と僅かに鈴風の名にある足首の飾りを鳴らす。
「もしかしたら来てくれないかと思った」
曖昧に、ほんの少しの悲しみと嬉しさを織り混ぜた視線を刹那だけ恵都と絡め、すぐに後ろを振り返る。
ふわり、とスカートの裾が踊り上がり、後ろ手に指を組んだ美百合の背中が儚げに月光に霞む。
「‥‥‥来るかどうか、正直、迷ったよ」
その淡い少女の存在を哀れむように眩しそうに目を細め、答える。
無意識に、意味もなく後ろに隠した短刀が恵都には後ろめたく、やけに重く感じる。
美百合はステンドグラスを見上げ、笑んだ。
「ふふ、迷わずここに来るようならば、あなたは偽善者。迷うことには意味がある。戸惑いは人を成長させるわ」
今夜の月は満月。
その淡い輝きはしかし明るく世界を照らし、柔らかに闇を払う。
そして、少女の本来持つ神聖さを、強調する。
「───だから。私は、あなたが私の事で迷ってくれた事が、どうしようもなく嬉しい」
「‥‥‥結果を聞いていないのに、か」
ぽつりと洩らす恵都のその言葉に美百合は微苦笑して、ちらりと肩越しに視線を流す。
「‥‥‥はい」
「‥‥どうして」
何の含みもない、何の翳りもない純真な言葉を紡ぐ美百合のまっすぐな瞳に、恵都が言えたのはそれだけで。
彼女も、何を飾る事もせずにその思いを素直に受け入れた。
「‥‥‥判らない」
ぽつりと呟いた恵都。
その声は、しかし明瞭に静寂を反響して、染み込んでいく。
「どうしてそこまで自分を蔑ろにする、自分を顧みない」
「‥‥‥‥‥」
「なに?」
何かを蚊の鳴くよりも小さい呟き。
恵都が優しくそれを聞き返す。
彼女は感情を噛み殺すように、自分を圧し殺すように、伏せた顔をきっと持ち上げた。
「苦しむ人がいる‥‥‥私が生きていては、苦しむ人がいるから‥‥」
その為に、私は死ななければならない。美百合は痛みを堪えるように表情を翳らせる。
けど。彼女は繋げた。
「けど、私は死ねない。自分じゃ死ねない。だから君を頼るしかない。‥‥‥ごめんなさい」
一語一句を語る、その言葉と声と表情から、それがどうしようもない場所にそびえ立つものだという事が、恵都には痛いほど理解できた。
────それが。
自分と関係のない場所の出来事で。
自分を巻き込んだだけの出来事で。
自分の頭上で交わされた出来事で。
自分の全てを決めてしまった、どうしようもない出来事で。
何かを得る為に自分の命を紙切れのように切り捨てる事は、然も当然な事だから。
決定され、後は支払うだけなのだから。
それは────
変えられない。
「ッ‥‥‥‥!」
ぎり、と。
恵都は無意識に奥歯を噛み締めた。
握り締めた手のひらに爪が食い込み、そこから広がる熱だか痛みだかが赤く滴り落ちていく。
じわり、じわり、と手のひらから手首、腕を這い上がる痺れにも似た熱が楔となって脳髄へ突き刺さり、寒気にも似た怒りが身体を震撼させる。
悲しみよりも哀れみよりも、怒りや憎しみに近い墨が心を黒く染め、滲みていく。
ぽたん、ぽたん、一滴ずつの雫が垂れ落ちて、白い紙面を深い闇色に染めていく。
黄昏よりも余程に昏く。
黄昏よりも余程に深く。
黄昏よりも余程に深淵。
感情は、ただただその色彩に震えるばかり。
狭まる視界に、募るばかり。
「くそっ‥‥‥」
握り締めた凶器の柄に力を込め、血か毒を吐くように歯軋りする。
虐待を受ける子供は、得てしてその狭い世界を全てだと感じる。
そこにおいて一方的に振るわれる暴力を悪い子である自分への罰だと錯覚し、堪えることこそが贖罪だと思い込む。
それは、刷り込み。
流す涙を罪に、振るわれる痛みこそを罰に。
摩り替える。
ふざけた世界に蔓延る、利己な大人が押し付ける子供への苦痛。
美しく清らかに穢れなく淀みなくそれらしく飾り立てた小匣の、狭く浅い膿んだ律。
蔓延している。
そこかしこに。
あそこにもそちらにも。
向こうにもこちらにも。
彼女にも、そして───自分にも。
────暫くの、後。
教会の聖堂内は夜に相応しく静まり返り、そこには穏やかに落ち着いた寝息だけが密やかに聴こえていた。
一番前の長椅子に腰掛けた恵都は、自分の胸にもたれて寝息を立てる小さな少女を優しく抱いていた。
今の今まで声を圧し殺して泣いていた少女は、泣き疲れたようにゆっくりと眠りに落ち、静かに静かに胸を上下させる。
恵都はステンドグラスから射す月光をぼんやりと見上げながら少女の髪を優しく梳り、ふ、と口元に笑みを浮かべた。
密着した胸の膨らみと程好い重さが柔らかな少女の肌の温もりを直に伝えてくる。
ふとすれば少女らしい和やかな花の香りが鼻腔をくすぐり、こそばゆく甘い吐息が首筋をふわりと撫でる。
五感の、感覚の全てに伝わってくる情報の全てを美百合が独占していて、それは少女が落ち着いたことをはっきりと教えてくれる。
恵都はほっと安堵の息を洩らし、少女を支える手とは反対の手に視線を落とした。
そこに握られる、抜き身の白刃。
鞘は椅子の上にある。
恵都は結局、美百合自身に渡されたこの刃を使わなかった。
あの時。
美百合が、自身について語ったあの刹那。
恵都は沸き上がる自分の感情を抑えきれず、無作為な歩みでつかつかと少女に迫り寄った。
美百合はそれに僅かに身体を硬直させ、きゅっと目を瞑った。
しかし恵都は美百合の予想に反して刃を抜かず、ただ両手を広げ、涙を堪えるような悲しい顔をして声をして、抱き締めて小さく囁いた。
───頑張ったね、と。
その一言が、どれ程に少女の頑なな心を揺らし、ひび割れた壁の亀裂を伸ばした事か。
囁かれた少女の心の支えは崩れ、か細い糸一本だけで吊るされていた少女は一気に、堰を切ったように泣いて恵都にすがり付いた。
どれ程。
どれ程にその言葉を望んでいたのか。
恵都は恵都だからこそそれが判り、だから他の誰何でもなく彼がそれを言ってあげなければいけなかった。
負の連鎖は、死んだ程度は断ち切れない。
彼女が誰かを救いたいのならば、その為に苦痛の湖で生き続けなければならない。
死して生者を救うのは夢想に過ぎず、苦しみを以てのみ哀れなる者は救えるのだから。
だから。桐宮恵都が傷付いた幼子のような少女を立ち連れて、苦しみの中に戻ることは当然でしかなかった。
「‥‥‥全く」
どうして、あんな昔の、ついさっきまで忘れてさえいたような何気無い約束を、俺はこの娘を苦しめると知っていながら守ろうとするのだろう。
「ちっ‥‥‥‥なんて、矛盾だよ」
救う為には苦しめなければいけない。
彼女も、彼女が救おうとした誰かも。
「バカみたい、だよな‥‥‥」
呆然と形にしたその声ですら。多分、自分の心を理解していない。
恵都は軽く嘆息混じりに苦笑を浮かべて、そっ、と美百合の身体を離れないように抱き寄せた。
二人の距離が、もっと近付くことを願うように、ただ、優しく。
「頑張ろうな」
目を閉じて、その髪に口付けをする。
二人の温もりが混じった温かさは、すぐに眠りの闇を目蓋に落としていった。
大理石の研磨された鏡面は嫌になるほどひんやりとしていて、否が応にも自分の身体が火照っている事が明かされる。
興奮か緊張か。どちらにしても、羞恥が自分を赤面させている事を自覚させられて、それがまた恥ずかしくて動悸は激しくなる一方で。
それを知ってか知らずか‥‥‥いや、判ってやっているのだろうが、普段は誰何も触られることのない無防備で、こう近いと神経が集中してしまう首筋に近付く気配と、唇から洩れ掛かる吐息とがとてもこそばゆくて。
色々な所がぴりぴりと微電流に痺れ、寒気が背中にしゅくん、と走る。
────ねぇ‥‥‥良いよね‥‥‥。
神経剥き出しの首筋をなぞるように唇が耳許に来て、その囁きが耳朶に甘く響いた。
応えなければいけないのに胸も喉も詰まってしまって、切なさに太ももを擦り合わせてほんの少しだけ動くと、それを答えと取ったらしくて。
さっきからずっとあった程好い重みと女性特有の柔らかさがふわりと身体を覆い尽くして、太ももを撫でていた手が性格の控え目な感じを残したまま、けれどちょっと乱暴に無遠慮に、足の付け根に近付いて。
強制するように奪われた唇と、口内を掻き乱す舌とまだ自由な左手が、こちらの意識を他から逸らすように首から上に集中する。
荒い呼吸を隠しもせず、お腹の上に馬乗りになったその人は、衣服を緩めながら妖艶に微笑みを浮かべて。
ただ、呟いた。
────イタダキ‥‥、マァス‥‥‥。
「ッ────!?」
びくん、という自分の身体がかすかに震える振動で目が覚めた。
微睡みの沼を一瞬で振り切って、服の上から胸に手を当てる。
ドクンドクン、と早鐘を打つ心臓が息苦しく、じっとりと全身に汗をかいていた。
久し振りに見た夢は、あまり思い出したくないけれど今日の自分を構築する為には重要な記憶で、だから。
一番最初に気付く筈の、自分が誰かと寄り添って誰かに優しく抱かれているなんて有り得ないことに気が付くのが、一番遅くなってしまったというのは言い訳だろうか。
あ、れ‥‥‥?
覚醒したとはいえ、頭の機能はまだ完全ではなくて。
それに、二人の身体の触れ合う温もりと安堵が思考が蕩かして、うまく現実が理解できなかった。
しかし、次第に眠りにつく直前の記憶が解凍されてきて、隣に寝て守るように腕を回してくれているのが色々なものの恩人なのだと、思い至った。
「恵都‥‥‥さん」
独りごち。
蚊の鳴くよりも小さく、自分の声だから認識できたという程度の、自分の耳にすら届かなかったその虚弱な呟き。
なのに。────それなのに、それはまるでエコーのように体内を反響して、温かに心臓に染み込んでいった。
心地好くて。
それが気持ちよくて、嬉しくて、落ち着きを取り戻しつつあった胸をきゅっと、服の上から掴んで目を閉じた。
一頻り自分の中を見つめてから目を開く。
夜の闇と銀の白光だけのモノクロな筈の世界が、多色に、美しい色合いの色彩に彩られているように感じられた。
「‥‥‥‥」
その世界に、或いは自分自身に少しの驚きと苦笑を覚えつつ、彼を起こさないようにその腕から抜け出した。
腕を天井に突き上げて伸びをして、パキパキと鳴る骨と解れる筋肉の気持ちいい涙を指先で拭い、簡単に身なりを整えながら少年を振り返った。
安心しきったように寝息を立てる、恩人。
この少年は残酷で、優しくて、何様かと思うけどだから信用に値して。
この教会という聖域の空気に紛れた様は、とても神秘的な、例えば悪戯好きのピクシーのようだと思った。
────そして。その右手に力なく収まった、抜き身の刃。
偶然抜けたのか収める前に寝てしまったのか判らないけれど、椅子の上に置かれた鞘とともにそれをそっと手に取る。
ステンドグラスの聖母に翳してみて、血を求むるような妖しく光るその魔刃めいた鋭さに、ぞくんとする。
「‥‥ありがとう」
刃の腹にそっと口付けをして、かしん、と鍔なしの、鞘と柄のぶつかる音を聴いて、それを少年の上着の内ポケットに潜ませた。
少女は、きちんとまっすぐに少年に向き直る。
音を立てないように背もたれに手をついて、静かに、控え目に、思いやって。
さっきとは違う、本当に真な感情を込めて、俯き気味な彼の唇に下からキスをした。
お姫様が、自らの命を救ってくた愛しい騎士にする口付けのように、優しく、気高く、静謐に、神聖に。
思慕の想いを込めて────初々しく、拙いキスをした。
街を一望できる高楼の上から、この闇に染まった世界の支配者と同じ名を持つ少女が、強かに吹く風にスカートをはためかせながら眼下を見つめていた。
その瞳はまるで冷徹で、人らしい情など宿してやるものかとでも言うように、ただ見渡すように冷たく徹していた。
それこそ、夜空を飾る星々の琥珀の王が城下を臨むが如く。
「夜の、王‥‥‥‥ね。────クッ」
微笑というより微嗤。
自分自身を嗤うように嘲弄を滲ませ、皮肉るように口許を歪める。
───何が、夜の王。
夜の名をそのままに持つ癖に暗闇を恐れ、月が頭上にあると怖くて眠ることもできない。
強がってみても悪夢に怯える子供のように身体は震え、萎縮して、どうしようもなく頭の中が恐怖で塗り潰されていく。
あの日。
あの夜。
あの時から。
私の全ては、あの人の為だけに存在した。
あの人の為なら何だってできた。
あの人の為なら誰だって殺せた。
あの人の為なら剣にも為れた。
あの人の為なら楯にも為れた。
あの人の為なら私に不可能はなかった。
あの人が全て。
全てがあの人。
それがワタシ。
それなのに、私は自らの保身の為だけにあの人を棄てた。
目先の死の恐怖に怯え、私は自らあの人を喪うことになった。
それは、今日と同じ月の大きな夜だった。
───ッ、くそ。
不意に、自分の思考が忌まわしい過去に傾いていることに気付き、夜は月を仰ぎ見ながら声なく毒づいた。
思い出すな。
きつく自分自身に繰り返し命じ、ぎゅっとドレスのフリルを握り締めて真の王を睨み付ける。
月の鏡面と空の水面に映り込む闇が、まるで近衛のように胎動しながら意識へと迫ってくる。
ゾクゾクッ、といつもの寒気が布の下を冷たく駆け巡り、夜は夜の闇に憎悪を焚き付けた。
それはまるで自分自身に向けるが如く、自虐めいた色の眼差しだった。
と。聞き慣れた声が、背後から恐る恐るといった風に声を掛けてきた。
「‥‥‥夜?」
朝は、眠い目を擦りながら地の縁に立つ夜の背中を見る。
彼女が起きたことにすら気付かないほど、自分は夢想に溺れていたのか。
そう思い、夜は背後を振り返った。
「ごめんなさい、起こしちゃったかな」
謝ると、朝はふるふると頭を振って、その隣に立った。
「違う。夜がここにいただけ。起こされてない」
「? じゃあ、何か用があったの?」
「────匂い」
揃って街を見渡していた夜がちらりと朝を一瞥すると、彼女は酷く不快そうに顔を歪めてそうとだけ呟いた。
それを聴き、夜の表情が引き締まる。
「何の?」
「多分、<メイガス>」
「‥‥‥そう」
メイガスという名称に僅かに視線を辺りに回し、夜はただ頷く。
朝は漆黒に彩られた世界を眺め、その眼差しに怒りと憎しみを込めて目を細めた。
「仕方ない────」
夜が息を吐く。
「アポイントメントはお取りでないようだし、ご用件を伺いに行きましょう」
冗談混じりに言って、夜はもう一度だけ無感情に月を見上げた。
「‥‥‥殺す?」
夜の冷徹に倣うように瞳から感情を掻き消し、朝がまるで事も無げにそう問うた。
夜は、ただ見るだけの何も思わない瞳を細めて、静かに、答えた。
それを聴いた朝の顔に、微笑みが浮かび。
喉元から洩れ落ちたそれは、仇敵の憎悪か、狩人の歓喜か。
少女達は、遥かな眼下へとその身を投げ出した。
────月より早く。
街を彩る品のないネオンが、夜の到来を正式に告げた。
けれど、人の色に染まった街が眠りにつくことはなく、昼から夜へと住人の種類が交替するだけ。
その時間帯が変わろうとも、人々は絶えず代わる代わる街を賑わせる。
複雑な道路と雑多に並ぶ信号機。
車道を走る車に、絶えることのない人の流れ。
振り撒かれる上品とは言えないネオン光は、静謐を飾る闇夜と月光を汚染する。
────ついぞ、それに気付く者はなく。
全部が全て、自覚もなく腐敗していく。
故。誰ぞ知らず、狂宴は演じられる。
建ち並ぶ雑居ビルに切り取られた月明かりが不衛生な路面を照らし、無骨なコンクリートが異世界のような様相を呈している。
人々の喧騒は遠く、大通りからいくつかの脇道を入るこの場所は、僅かに入り組んだ路地裏になっていた。
人気は稀薄であり、空気は淀み、溜まり、死んだように停滞している。
その場所に、ふらふらと前進する一つの人影があった。
酒に呑まれ泥酔したような覚束ない足取りで右に左に身体を揺らし、今にも崩れ落ちそうな所を懸命に堪えて、それでも死にそうになりながらただ前に進む。
蒼白に染まった顔に、肌からは血の気が引き、既に何も映せないような瞳は呆としている。
ゆら、と一歩。
ぽた、とその背後で水滴の弾ける。
一歩の歩に伴い、一滴の雫が弾ける。
引き摺る足が、ずちゃ、といやに生々しい液体を擦る音を鳴らして人影が進む度、その標は否応なく残され、獣の臭いは辺りに漂った。
それは、餌の臭い。
緑生い茂る密林においてその臭いが猛獣を覚醒させて誘き寄せるように、この高楼密林もかくや、暴虐なる捕食者を狂乱の宴に誘う。
餌は餌。
その運命からは逃れようなく、そして未来は手繰り寄せられる前にその足で訪れた。
「クスクスクス」
清く澄んだ声で、穢れた嘲笑が響く。
影───男は足を止め、沸き上がる恐怖に顔を引きつらせながら恐る恐る背後を振り返る。
それが自分の残してきた道標を辿ってくることは判っていた。
判ってはいたが、どうしようもなかったのだ。
逃げるしかなかった。
一歩でも遠く。
一秒でも早く。
それからの距離の空け、せめて可能性を残したかったのだ。
誰か、他人との偶然の出逢いを。
男が、餌が生き残るには誰かの目による目撃が絶対不可欠だったから。
しかし、そんなものはそもそも無駄だった。
それが、そんな可能性を僅かでも残す筈がなかった。
狩りでは絶対に狩れるという決定的な瞬間まで、決して狩人が姿を見せることはない。
不文律だ。
だから、無駄だった。
「ぁ‥‥‥」
ぺたん、と男の身体が本人の意思を無視してその場にへたり込み、そこに立つ姿を見上げる。
少女。
それはミニスカートを歩く度に揺らす、学校の制服らしい服を纏った少女だった。
この辺りではよく見掛ける学園の制服だ。
それは、まるで日常から切り取ってこの異界に貼り付けたようで、より一層非日常の不気味さを増していた。
だから、という訳ではないが。
本能的に、それが普段は日常を謳歌する者だと気が付く。
そして、それに気付いてしまうと、今まで自分が安穏と享受してきた日常が、どれだけの歪を抱え込んで回っていたかが嫌でも理解させられて。
途方もない、生理的な恐怖が心を嘗め尽くす。
「ねぇ‥‥‥」
それが、呟く。
異世界にある日常の切れ端────いや、日常と世界を欺く由々しき不適合者が、文字通り安穏とした口調で男に声を掛ける。
「あのね」
しゃがみ込み、親に言われた約束事を皮肉にも守るように、その口許は柔和は笑む。
「物は相談なんだけど、ちょっと血をもらえるかな?」
少女は男の頬を冷たい指で撫でながら小さく首を傾げ、可愛らしい笑みを深めながらずいっと身を乗り出した。
男の首筋に唇を近付け、その肌に熱っぽい吐息を吹き掛けながら。
「まぁ、死んじゃうかもしれないけど、別にいいよね」
少し尖った牙を、深々とその肉に突き立てた。
「────!?」
恐怖とともに、常軌を逸したその出来事。
男の頭は状況を把握しているのに、その意味を理解できない。
何がおかしく、何が正しいのか。
ただ、混乱する頭の片隅で、身体に異物の入り込む痛みと違和感だけが確かに形取り、脳が熱を上げていくのが判った。
聴こえるのは────
遠い喧騒。
吹き抜ける風。
鼓動する心臓。
脈打つ血管。
貪られる鮮血。
咀嚼される肉。
それ等は、今この瞬間も変わらず回り続ける日常の世界と、
自分、
が食べら、
れてい、
る、
音────。
────赤いランプが、夜に彩られた街を流れてくる。
唸るような耳障りな音を上げながら、野次馬を引き連れてその場所へと向かっていく。
今、正に。
一欠片の餌が死に絶え、理外に生くる者の養分と為った後のゴミの元へ、人間が集まっていく。
それは、遠方を騒がせているその光景を高層ビルの上から満足げに眺めていた。
大きな真円の月をバックライトのように背負い、サーカスのクラウンよろしく道化染みた笑みを湛え、羽織った漆黒を風にはためかせていた。
そして、やはり道化師は道化師らしく。
「これで、舞台に役者が出揃った」
人を嘲るように。
「さあ────」
飄々とした物腰をそのままに恭しく一礼して。
グランギニョルの開幕だ────。
両の腕を広げた道化師の宣誓は、しかし誰にも届くことはなく。
まるで、鳴り響く開幕鐘を隠すかのように。
暴風に、掻き消えた。