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panic clover  作者: 夢月時雨
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第九話「邂逅」

崩壊は得てして甘く、小さな亀裂から始まるものなのです。

青い空の下、降り注ぐ暖かな陽気と冷たい風を切りながら、学生服に身を包んだ一人の少年が脇目も振らずに前へと走っていた。

金の染髪の少年の顔には医療用の清潔な眼帯が左目を横切り、襟元から零れたくしゃくしゃの包帯は後ろに垂れていた。

彼は現状、走られる体調にはない。目に不良を抱え、掛かり付けの医者には安静にするようにきつく言われていた。にも拘わらず、彼は足が地面を叩く度に頭に響く痛みを圧して走り、立ち止まろうともせずに前を見据えている。

息は既に切れていた。肺は過呼吸を起こしそうな程に貪欲に酸素を求め、肌も熱を帯び、視界も狭まり、思考は焦げた感情に包まれてほとんど朦朧としていた。

足は止まらず、血流の耳打ちと心臓の鼓動ばかりが体内を充たし、鋭利になった感覚は一秒毎に敏感さを増していく。

少年のその走りは、逃走だった。

逃げる者があるということはつまり追う者がいるということであり、少年の追走者は彼の背を執拗に追っている。

男は血走った目で前方を必死に走る少年を追い、怒声や雑言を浴びせながらも少しずつその間を詰めていき、ゆっくりと、しかし追い付くのはもう確実だった。

男はたぼついた服とズボンに、首からは銀のネックレスを下げ、ドクロをあしらったリングが指にははめらている。

そしてその手には小型の、恐らく警官から奪っただろう拳銃が握られていた。

「ッ!?」

全力の逃走の末に到頭足はもつれ、少年は肩から地面に倒れ込んだ。

苦痛に呻き声を洩らしながら何とか上体を持ち上げるが、その足にもう力は入らず、立つことが出来ない。

彼は、ゆっくりと首を捻り、視線を後ろへと滑らせていく。

太陽を背にして走っていたその背中には、影が落ちている。

大柄で、肩で息をした、さっきまで数メートル後ろにいた筈の、人影。

それは壊れた風な声で、笑みを滲ませながら言葉を重く降らせた。

「捕まえたぁ‥‥鬼ごっこは終わりだ‥‥糞ガキぃ!」

「ひッ──!?」

拳銃のマズルを鼻先に突き付けられて短く悲鳴を上げて、少年は後ろへと下がた。

男は歯を溢しながら口端を吊り上げ、開けられた分の間合いを一足に詰める。

「逃がすか馬ぁ鹿! げらげら!」

壊れている。少年は直感的にそれを悟り、恐怖で身体を硬直させた。

後ずさることが出来なければ立ち上がることも出来ず、心臓は痛い程に跳ね上がり、血管を流れる血が熱く鋭く神経を刺激する。

向けられた銃口はまっすぐ、しかしふらふらと左右に小さく揺れて焦点を額に合わせる。

「はッげははは──‥‥死ねぇ!」

引き金が絞られ、高い破裂音が響く。空にエコーして、消えていく。

「──!?」

頬。皮膚一枚。

刃物で裂いたような、しかし軽い火傷を少年の右に残して、放たれた銃弾は地面のアスファルトを僅かに砕いた。

「げは、はは」

大量の冷や汗を全身にかき、男は引きつった笑みを浮かべる。

「は、外しちまったな。げはは、つ、次は外さないからな」

極端な至近距離で尚、射撃を外す。男はそれ程に精神的に不安定で、つまり狂ってしまっていた。

それが元からなのか、或いは誰かを──身内を殺したからなのかは、判らない。ただ、自分が死ぬのには充分過ぎる裏付けであることは少年には想像に容易だった。

男は拳銃のハンマーを起こした。それを見た少年はきつく目を閉じた。

明確な死の予感に神経が研ぎ澄まされ、風の流れすらが冷たくはっきりと肌を触れ、視覚を絶ったことで聴覚が研ぎ澄まされて耳が不要な音すらを拾い上げる。

凍り掛けた血の昇り詰める感触的な寒気と、腹の底をくすぐる耳障りなノイズが、白紙になろうとする思考に輪郭を与えて余分な恐怖を煽る。

「──じゃあ、死ね」

一言の呟きで、男は笑みを浮かべたまま引き金を絞る。

ダーンッと、間延びした銃声が再び鳴り響き、銃弾が放たれる。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥?」

しかし、それは一向に訪れない。銃声から数秒経過したが銃弾はなく、少年はまだ生きていた。

不審に思い、恐る恐る固く閉じた目を開いていくと、そこには──

「あっはっはっ」

「あの、笑ったら怖い」

男に加えて、見知らぬ人間が増えていた。

「ヒドイ!」

「じゃあ笑わない」

「それは無理」

「何で!?」

「愉快爽快快感一杯」

「‥‥‥‥‥‥‥」

にこにこと笑みを浮かべる青年と、その青年に呆れて息を吐く少女。

二人は男を挟むように位置していて、青年は恐らくナイフのような刃物を、少女は木刀をそれぞれ手にしていた。

そして。

影になっているがナイフは男の背中に深く突き刺さり、少女の木刀は男の首筋を切り裂いていた。

股の間から滴り落ちる鮮血が足元に湖を作り、動脈から噴き出す鮮血は盛大に少女と少年に降り掛かる。

首の傷口から赤黒いものが覗き、男は呻きながら血の泡を吐いていた。

「大丈夫だった?」

少女が半分を真っ赤に染めた顔に笑顔を浮かべて振り返った。

木刀を宙に振るい、血を払う。

その後ろでは青年が忌々しそうに巨大な肉の塊を脇に蹴り避けていた。

「あ‥‥‥ぅ‥‥‥」

少年の口から漏れたのは意味のない、言葉でもなく、声というより音に近かった。

「‥‥? どこか怪我したの? 何か包帯だらけだけど」

少女は左手に、空いた右手を腰を抜かしたままの少年に差し伸べた。

「‥‥‥っ」

それを取ろうとして、びくんっと少年の手は躊躇ったが、痺れを切らした少女は強引にそれを引き上げた。

「ほら、立った立った。しゃきっとする!」

立ち上がらされる時、少年はおかしな声を上げて顔を上げた。

少年は、自分の前にある少女と青年の二人を見比べた。

「あのっ‥‥‥‥助けていただいて‥‥‥ありがとう‥‥‥‥ございました‥‥‥」

途切れ途切れに少年は言葉を口にする。

それは萎縮しているというよりも、単に酸素が不足している為に必死に呼吸しているからだった。

青年は愉快そうに笑ってナイフの血をその赤い服で拭い、腰にかすかに見えている革のホルスターに収めた。

「はは、ゆっくり息を整えるといいよ。急ぐ必要も、ないだろうしね」

「いいえ。急いでくれるかな」

その前で、少女が腰に手を当てて前後の二人を見比べ、青年の言葉を一蹴する。

「神楽。あなたは一体何を見て急ぐ必要がないなんて戯れ言を吐くの」

背中と腕の間に木刀を挟み、不機嫌な顔でむすっとしながら、彼女はため息混じりに首を振る。

神楽と呼ばれた青年ははてなと首を傾ぎ、左足を軸にしてくるりと回った。

「んー‥‥‥? 判らないな。別にこの辺りに他に誰がいる訳でもないし、あれは死んでるし、天気はいい‥‥‥あー」

空を仰いでいたかと思うと神楽は不意に声を喉から洩らし、少女を見やってぽんと手を打った。

「判った。そう言うことか。雫玖、君さぁ、血で汚れたよね」

「ええ」

雫玖という少女にぐっと身を寄せた神楽はその血塗れの服をまじまじと観察する。

「シャワー浴びたいんだね」

「せっかく浴びたばかりだったのに、髪が乾ききる前にまた全身汚れたのよ? 当然でしょう」

そうだね、一度帰ろうか。神楽は背後に振り返りながらそう頷き、首を回して二人に向かって微笑んだ。

「お茶でも飲みながらお昼と洒落込もうか。何か作って上げるよ」

彼は軽やかな足取りで歩き始めた。



「へぇー、じゃあ君はお兄さんを探してるんだ」

皿に沢山並んだ三角のサンドイッチを一つ掴み、かじりながら神楽は感心したように頷いた。

私達はリビングでテーブルを囲んでいた。テーブルの上には大きな皿が、その上には様々な食材を挟んだパンが並び、それぞれの前には小皿とマグカップが置かれていた。

配置は私と神楽が隣合い、さっき助けた上条久人という眼帯に包帯な少年が座っている。

上条‥‥‥。どこかで聴いたことのある苗字のような気がするのだが覚えはない。しばらく悩んでいたが、今はもうすっかり忘れていた。

私は新しいサンドイッチをかじる度に、こくりと頷く。

神楽が料理するというから期待したのだが、出来たのはサンドイッチで少し落胆した。

けれどこれが、食べて見ればどれも美味しく、私は会話の全てを神楽に任せて黙々とサンドイッチに集中していた。

「この眼帯と包帯‥‥‥ですか?」

「うん。見たところ怪我してる訳でもなさそうだし、何の為にしてのかなって」

「‥‥‥‥‥」

ふと閉じていた耳に染み込んできた言葉に興が引かれ、私の頭は脳内フィルターを排除した。

見ると神楽はアイス珈琲を飲みながら、上条君はサンドイッチを一つ手に取っている。中には緑の生野菜にハムが挟まっているようだ。

「‥‥‥‥」

「話したくないなら、別にいいからね。警察の事情聴取じゃないし」

上条君はテーブルを見つめたまま黙り込んで、神楽はどこまでもにこやかに軽くそう言う。だが、その適当さが彼の中の何かに決心を決めさせたようで、上条君は小さく首を左右に振って口を開いた。

「大丈夫。隠すような、そんな大層な理由はありません。これは、戒めと‥‥‥封印です」

戒めと、封印。

これはあまり軽い言葉ではない。

私は興味に惹かれ、少し怪訝さを感じながら暗く思い詰めるような彼の表情に目を向けた。

隣を一瞥すると、神楽も同様に怪訝と目を細め、しかし興味深げに話に聞き入っている。

上条久人君は少し躊躇いがちに、絶望に近しい色の瞳を上げた。

昔の話です。

語り口はこうで、私はどんな暗い物語が語られるのかと内心わくわくしていた。

人の過去は、他人にとっては単なる

「お話」に過ぎない。体験すればどれくらいに辛くとも、体験した話を聴くなら楽しくもなる。

彼が語ろうとするのは、恐らくアンダーダークな物語。

心にとっての傷。

頭にとっての苦痛の種。

記憶にとっての悪夢。

小説的に言えばノンフィクションの、笑いたくなる程の暗黒童話。

──聴くことは罪だよ。

高鳴る鼓動に混じり、心の奥底、どこかにいるもう一人の私が冷ややかに囁いた。

合わせるように、現実世界でも、上条君の話が塞き止められる。

「ストップ」

「え?」

「‥‥‥神楽?」

意を決した上条君の言葉を途切ったのは神楽。

上条君は当惑して、私も怪訝と隣を見やった。

神楽はマグカップに口をつけて一息ついた。

「いや、やっぱり止めておこう。人の古傷を抉るのはあまり趣味じゃない。それに、君を助けたことにつけ込んでいる気もするしね」

「そんな風には‥‥」

「思っていなくても事実そうだから。ね、だから止めておこう。いいね雫玖」

不意に神楽の、真面目な眼差しがこちらに向けられた。

「‥‥‥それも、そうだね」

私は二人から視線を外して、窓外に広がる空を見上げた。

神楽の口にした言葉と、その裏に隠れた意味が朧気に理解できたから、彼と自分が重なってしまったのだ。

「誰だって触れられたくない不可触の傷くらい持ってるものね」

「神楽さん‥‥‥雫玖さん‥‥‥‥」

ぼんやりと私達の名前を呟いた上条君は少しだけ目を伏せ、何を言うわけでもただ一言だけを続けた。

「ありがとう、ございます」

やっぱりどこかほっとしたように、彼はテーブルの表面を見つめていた。

その後は二言三言の短い会話だけを交わし、ほとんど無言の内に食事は終わった。

上条君は神楽の勧めで気を落ち着かせる意味でシャワーを浴びに行き、私達はキッチンで洗い物をしていた。

「そうそう。さっきはよくできました」

洗い終わって手渡されたマグカップを乾いたタオルで拭いていると、ふと神楽が笑みを浮かべながらそう言った。

「子供扱いしないで」

その言い方が癪に障ったので思わずむっとする。彼は可笑しそうに私を横目に、控えめに見た。

「子供扱いなんてしてないよ。むしろ大人だと思ってる。‥‥‥ところでさ、君、誰だって傷があるって言ってたよね」

「え? うん。言った」

私がそう言うと、神楽は傍のタオルで手を拭き、まっすぐに私に向き直った。

「‥‥‥‥君にも?」

一瞬、言葉を選び、私は即答する。

「一応ね。あまり思い出したくない記憶だけど──うわっ!?」

予期せぬことに、私は思わず上ずった声を上げてしまった。

お腹に回された神楽の両手が私を軽く引き寄せ、耳元に寄せられた唇から零れた吐息が首筋をくすぐった。

そのくすぐったさにゾクンと寒気にも似た快感が私を襲い、全身から緩やかに力が抜けていく。

「そっか。誤魔化さないんだね、君は‥‥‥」

私の体重を受け止めて、彼は目を閉じて嬉しそうにクスリと笑った。

私は惚けてしまった身体の、腹部を引き締めて、懸命に声を絞り出す。

「ご‥‥誤魔化すようなことじゃないじゃない‥‥ちょ、もういいから離れて‥‥‥」

一言一言、言葉を紡ぐ度にお腹からじんわりと熱い感覚が広がり、末端にまで染み込んで、立っていることさえままならなくなる。頭がぼんやりとして、陶酔して、視界がとろけて、朦朧とし始める。

「ほんとに‥‥お願‥‥も‥‥ダ‥‥メ‥‥」

吐息の掛かる温かさとこそばゆさに意識が溶けていくのが判って、それがまた羞恥心を激しく刺激した。

堕落する自覚と、その背徳感すらがじっとりと私を快楽させる。

「あ、あのー‥‥」

「ぴッ!?」

「おや、もう上がったんだ久人君?」

キッチンの入口に立った第三者の唐突な声に驚き飛び上がる私と、飄々と応対する神楽。手を離されて私はその場にへたり、神楽は振り返り、第三者君はもじもじと赤くなりながら、ちらちらとこちらを盗み見ながら控えめにこくりとした。

「あ、ああの、お‥‥‥お風呂、ごちそうさまでした‥‥‥」

「いえいえ、お粗末様でした」

「神楽‥‥それなんか違うよ‥‥」

恥ずかしくて俯く私と、気まずそうにあうあうする上条君。神楽は、それを他所に恥ずかしげもなくにこにこしていた。

「本当に行くの?」

小首を傾いだ神楽が心配げに言いながら、上条君に細長い布の包みを手渡した。

私達は玄関にいた。

シャワーを済ませ学生服を纏った上条君が外に行くと言い出し、神楽は曖昧な返事を返しながらも護身の道具を取りに行ったのだ。

「よくして頂いたのに、お礼もできずにすみません。それに‥‥」

上条君は受け取ったものを壁に翳す。

神楽は相変わらず読めない表情を貼り付け、しかしどこか神妙な様子だった。

「いや、それは構わないけど。ただ、君は外に出ても一人じゃ殺されるのが関の山だと思う」

真正面から。

視線も心も感情も全て真正面から、神楽は鋭く、透明な眼差しで上条君を見据えた。

「────‥‥」

言葉もなく、ただ、それだけがそれに対する答えのように、彼は小さく頷いた。

多分、それが神楽の望む答えだったのだろう。

「‥‥‥そっか。なら、もう何も言わないよ」

彼は、どこか満足そうに呟くと、口元に薄く笑みを刻み込んだ。

私は始終、腕を組んで壁にもたれ、その様子を後ろから眺めていた。

彼──上条君が外へ向かうと口にした時から、無意識に沈黙に尽くしていた。

シャワーの余韻をまだ頬に残していた。

彼は、見ていて恥ずかしくなるような艶っぽい雰囲気を帯びて、私達の前に落ち着きのない態度で現れた。

「さっきも少し言いましたが、兄を探してます」

改めてリビングのテーブルで向かい合った神楽と上条君。そう告げたのは上条君で、私はカウンター越しのキッチンで食器を整理しながら聴くともなしに聴いていた。

「ふーん‥‥お兄さんをね。どこにいるとかは判ってるの?」

「えっと‥‥‥あはは、実は判らなかったり」

「え‥‥‥もしかして、それで探してる? ‥‥‥無謀って言葉は知ってる?」

「あははは、知ってます‥‥‥‥」

小馬鹿にしたように首を傾ぐ神楽と自嘲気味に肩を落とす上条君が目に浮かんだ。

「別にいいけどさ。君はどこに行くつもりだったの?」

「あ、えっと‥‥一応、学校の方に行ってみようかと思って」

「学校?」

「はい」

神楽の口を突く疑問めいたおうむ返し。

「君と同じ中学?」

上条君は中学生だったのか。なんて変な所に関心する自分が可笑しくて、拭いていた皿を取り零しそうになった。

「あ、いえ。兄は高校なんです」

「高校──はこの近くは一つしかないね」

「はは、そうですね」

高校はこの近辺には一校しかない。私もそこに通う学生だが、平日である今日はやはり得てして登校していない。

登校できる方が神経どうにかしているというものだし、何より誰もいないだろう。

「──本気で言ってるの?」

「ええ、本気です」

不意に聴こえた、ただ事ではないような緩い緊迫の神楽の声に、私ははっとなった。

息を殺して耳を澄ませると、二人の息づかいもはっきりと感じ取れた。

「そう。仕方ないね」

「すみません‥‥‥」

「謝らない。君が決めたのならその意思を最後まで貫けばいい」

何の話をしているのかは知らないがシリアスな上条君に、どちらとも言えず曖昧な神楽。

私は触手を刺激され、壁に張り付いた背中を気持ち押し付ける。

「‥‥‥すみません」

「だから謝らない」

「でも、助けて頂いたのに身勝手だから‥‥‥‥‥‥」

「でも?」

「‥‥でも、それでも僕は、兄を探さなければいけないんです‥‥!」

──頭が──軋む──。

キシン‥‥キシン‥‥。

繰り返し、頭蓋で反響するように音が反芻した。

彼は、今、何と言ったのか。

いや、言葉として何てことのない羅列で、大気中を伝う小さく脆い波でしかなかった。それなのに──。

キシン‥‥キシン‥‥と頭が軋む。

これは痛みだ。

脳というよりその中枢。

胸というよりその中心。

身体中の骨を這うように巡る神経が痺れ、皮膚に包まれた肉が内側で液化していった。

彼は──上条君は──久人は──‥‥‥。

「あの、雫玖さん‥‥‥‥?」

玄関の扉を背に、上条君が恐る恐る私を見る。

「ん、何?」

急に──いや、もしかすると私が気付いていないだけで本当はさっきからそうだったかも知れないが、上条君の視線と、声を浴びてほとんど反射的に声を返した。

「いえ‥‥その、機嫌が悪そうでしたので、すみません」

「え、何で謝るの?」

深々と頭を下げる彼。私はその彼の言葉に理解が及ばず、きょとんとしてしまう。

「えっと‥‥‥‥やっぱりごめんなさい!」

一度はおずおずと俯き気味ながら頭を上げたのだが、それでもすぐに上条君は勢いよく、宙に頭突きでもするように頭を振り下ろした。

「あぁーあ、苛めちゃいけないんだー」

「うるさい!」

「にゃん!?」

「えと、どうしたの?」

邪魔者を排除し、上条君との距離を控えめに詰める。一メートル強のラインは無意識下の強迫観念からの境界だった。

「助けてもらっておいて自分から危険に身を投じるんですから、謝るのは当たり前なんです」

やっぱり俯き加減にぽつりぽつりとか細い言葉を紡ぐ上条君。

私は出来るだけ気を落ち着かせた。

「私は自己満足の為に君を助けたの。だから、君も自分の為に行動すればいいと思う。命を救われたなんてあまり気にしなくていい。忘れて?」

でも。彼はそう呟いたが、そこから先は紡がれる気配がなく、そしてまた──キシン‥‥と頭の軋みが始まった。

「雫玖‥‥‥さん?」

痛みにも似たそれに反射的に額に手を当て、加速度的に込み上げた吐き気を手で覆う。

上条君が怪訝と顔を上げて、背後で僅かに反応した神楽の気配が伝わってきた。

「ッ──だ‥‥大丈夫。少し目眩がしただけだから‥‥‥ッ!」

──軋む──軋む──

まるで私の存在が脳が侵食されているように感覚にノイズが割り込んでくる。

「でも‥‥‥」

キシン‥‥キシン‥‥。

「雫玖‥‥?」

キシン‥‥キシン‥‥。

「大丈夫だから、心配しないで二人供──ッ」

キシン‥‥キシン‥‥キシン‥‥キシン‥‥キシン‥‥キシン‥‥。

痛みじゃないこれは、痺れじゃない。

もっとずっと純粋な、違和感という免罪符を得た苦痛そのものな──悪い白昼夢。

「雫玖!」

「雫玖さん!?」

「え──?」

二つの、優しい感触が私の肩を抱き抱えていた。

見れば、それは二人の腕だった。

左の少し体温の低い神楽の手に、右の温かくか細い上条君の手。

そこでようやく、私は私が倒れそうになったのだと理解した。

「熱か?」

「いえ、体温は高くありません!」

「お前、これじゃあ足手まといになるだけだろうが」

「足手‥‥‥まとい‥‥‥?」

頭がやけに朦朧としていて、神楽が何を言っているのかうまく理解できない。彼は少し眼差しを細め、私を支えたままかすかに驚きに身体を震わせた。

「何言ってる‥‥お前が彼に付いていこうって言い出したんだろう?」

覚えがなかった。

私は、二人に謝罪しながらその手を押し退け、頭を抑えて自分の足で立った。

だが、身体がうまく支えられず、壁に肩をぶつけながら持ちこたえた。

「そうだったね、うん‥‥ごめん。少し休んだら行こう‥‥」

「いや‥‥準備があるからしばらく時間はあるが‥‥」

「ごめん‥‥少し水飲んでくる‥‥」

神楽はまだ何か言葉があったらしいが、呑み込んだ。私は二人に背を向けて、ゆっくりとキッチンへと向かった。

頭には濃密な霧が渦巻いて、空気はやけに軽薄だった。



高校は近くといっても、それでも二駅分の距離はあった。

無論、普段ならば電車を利用して楽々と向かうところだが、今は状況が状況なのだ。

電車は動いていないし、歩いていくしかない。

「ん──気持ちいいー」

息を吸い込みながら、目一杯に指を組んだ手を突き上げてノビをする私。

「確かに今日は天気はいいよね」

神楽はホルスターを隠すように巻いたウエストポーチを弄りながら首だけで、だらけたように空を仰いだ。

「こう陽気がいいと、どうしても眠くなっちゃうんですよね」

包みの紐を肩に掛けた上条君はそう言いながら本当に欠伸をしている。

私達は青く、広く晴れた空の下を並んで歩いていた。

街は久しく人気がなく静寂としていて響くのは三人分の足音ばかりで、時々、遠くや傍で鳥の飛び立つ羽ばたき等が聴こえるだけだった。

「この街も、閑静になりましたね‥‥」

ふと洩らす上条君。しかし、私や神楽も口にしなかっただけで近いことを考えていた。

「静けさとは無縁なくらい賑やかだったもんね」

「時間も関係なしで騒がしかったな」

「ええ‥‥どうしてこんなに静かに‥‥‥血生臭くなったんでしょう」

悔いるように、噛み締めるように彼の言葉は現実を描写した。

そう。空は晴れているのに、鼻腔には生臭く粘質な臭いがまとわりついていた。

もう慣れた臭いだった。

血と、肉と、錆と膿。

或いは人間を細切れにしてみなければ判らないような胸糞悪い臭いが、辺りには──街中に充満していた。

「慣れてしまったとはいえ、酷いですね。この臭いは」

上条君は辛そうにしみじみと呟いた。私はそれに言葉を追加する。

「この辺りは死体が転がっていないのが救いね」

「そういえば‥‥そうですよね。どうしてでしょう?」

「え‥‥‥えーと‥‥‥‥」

左から送られた疑問の視線を私は右へと流す。神楽は息をつき、気のない解答をした。

「群衆心理でパニックに陥った人々が散り散りになったから、偶然この辺りがぽっかりと空いた。てとこじゃない?」

「てことらしいよ」

「へー」

感心したように可愛い表情と仕草で頷く上条君。

私は彼の頭を無造作に掴み、ぐしゃぐしゃと撫ぜてあげる。身長はそう変わらないが、弟ができた気分だ。

上条君はうにゃうにゃと喜んでいるのかいやがっているのか、よく判らないリアクションをする。

「こらこら雫玖。髪が大変なことになってる」

「あ、ごめーん」

「んー大丈夫ですよ」

髪を直してそう言いながらも、僅かに身体を離す上条君。

「‥‥ねえ、上条君」

「はい?」

私が不意に立ち止まったので、上条君だけでなく神楽も一緒になって振り返った。

「どうしました、雫玖さん?」

「うん。あのね」

何だか照れ臭い。そう思うと、やはり私はまだ子供だと自覚してしまう。

「えっと、さ。私も‥‥‥久人って、呼んでいいかな」

「‥‥‥‥ん?」

笑顔のままで首を傾げる上条久人君。神楽はというと、身をよじって笑いを堪えていたりする。

「だめ‥‥かな」

もう一度、聴いてみる。

彼はしばらく沈黙して、そしてああっと手を叩いた。

「いえ、どうぞ呼んで下さい。僕も雫玖さんのことを名前で呼んでいる訳ですし!」

にっこりと、彼はそう言ってくれた。

「ありがとう──久人君!」

私達は、意気揚々とまた歩き始めた。


長くなってすみませんでした。

読了感謝!

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