第零話「死」
ざわざわと肌が粟立ち、しくしくと痛みが増し、この身体にめぐる血に混じった細胞の一つ一つが、耳障りな警鐘を鳴らした。
視認するまでもなく、俺はアノ存在が背後にあることを悟った。
自覚する。
筋肉はとっくに悲鳴を上げて、骨は軋み、神経はすり切れる寸前の状態だ。
抵抗どころか、逃げることすら無論、不可能。武装は貧相で、自分の身を護るだけでは足りない。共闘するなど支離滅裂であり、逃がすこともできやしない。そう、完全な八方塞がり。
アレを追うかのように、かぎ慣れてしまった血と肉の臭いが鼻先を掠めた。
氷が背中を叩き付け、胃の中身が沸き上がり喉を焼く。今夜、何度目の吐き気だろうか。もう空だというのに、身体はそれでも何かを吐けと訴えてくる。
「―――――!」
「ッ!」
どれだけの時間を無駄にしたのか、背後からの聞き取れない声にはっとなり、手にしていたらしい剣を急ぎ構えた。
瞬間、視界の端で影が揺らめき、時が止まったような錯覚とともに思考が硬直する。
見えない。
聞こえない。
駄目だ。
俺は死ぬ。
殺される。
頭が砕け散る。
死ぬ、死ぬ、殺される、今?
「・・・・・ッッッギッ!?」
悲鳴が零れ、身体が後ろに弾き飛ばされる。ということは、どうやら生きている。俺の意思とは別に本能的に頭の右側を防ぎに入った剣が、運よく盾になってくれたらしい。
確かに生きている。しかし衝撃は大きく、柄を握る両手だけではなく全身が重い痛みを伴って痺れている。
つまり、次はない。次の一撃は例え運よく拾えても、その衝撃に身体がついてこないだろう。
再び、影が揺らめく。
今度は見えた。
自分の身体に向かってくる、黒い凶器を視界が捉えた。
いや、違う。これはわざと見せているんだ。死を具現化したようなその爪を、俺を絶望させるために見える軌道に乗せている。
防ぐ。剣を前に振り上げ、的確に心臓を穿つ何かを弾くために全力を注、
「――――――――――――――――――――」
全ての間違いを悟ることは、所詮は人間には無理な話。けれど、俺の中に混じったその血は、人間のものではない。だからこそ、思考を行動に変換するまでの僅かなブレに反応を示した。
振り上げた剣を手放し、全力で飛び退く。傍にいる彼女の手を引き寄せて影に背を向け、ただ警鐘に従って覆い被さる。彼女は俺の胸に顔を埋めて気恥ずかしそうにうめき、僅かに抵抗するが、力で無理矢理にそれをねじ伏せる。
甲高い金属音が響き、刹那とかけずに温度のないねっとりとした泥のような感覚が背中を撫でた。
痛みを感じるより早く、意識が割れる。
街の雑踏のような喧騒なノイズが直接頭に注ぎ込まれ、視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚が嫌悪に塗り潰される。
視界が赤く染まり、水の滴る何かを千切る音が聴こえ、生きたモノを腐らせた臭いが漂い、鉄と錆と泥の味が広がり、生温く鋭利で冷たい温度が満ちる。
そして、緩慢に、激痛が全身の全てを覆い尽くした。
腕がボトリと落ち、背中が引きちぎれ、横腹が深々と抉れ、足がどこかへと転がる。内臓がゆっくりと溶解し、筋肉が破れ、神経を焼きながら様々な傷口から何かがドロドロと流れ出す。
彼女の息を呑む音が聞こえた。彼女はまだ俺の下で寝転んでいた。何か、赤い液体で全身を汚している。
何かがきた。壊れた人形のような俺を蹴って壁に叩き付け、その手にある俺の使っていた剣を投げ、切っ先は俺の胸に沈み込む。
彼女は必死に逃げようと暴れ、しかしアレの爪が振り上がる。彼女は最後に涙を流す目で俺を見て、声なく何かを呟いた。
ブツンッ。
意識は一転、安らぎに浸された。