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君を、  作者: 日暮
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前日譚 もう一つの過去

 彼女との出会いは、部長が仲人としてセッティングした見合いだった。仕事ばかりでプライベートなどどうでもいいといった様子の俺を見かねた部長が、気が付いたら寂しい一人暮らしの老人にならないようにと持ってきた話だ。


「引く手あまたの君が特定の女性を作らないというのは、つまり君の気に入る女性が周囲にいないということか」

「必要がないだけです」

「引く手あまたは否定しないんだな」

「否定しても無駄でしょう。部長がそう思っているのなら、そうなんじゃないんですか」


 そう言って断った。

 と思っていたのだが、部長はそう取ってはいなかったようで、結局数日のうちに詳細を決めて見合い写真と釣書を俺に押し付けた。俺の分は、もう先方に渡してきたらしい。

 俺がその話を覚えていたのはその日一日くらいで、仕事で忙しく動き回っている間に見合いの日はやってきた。写真も釣書も見ずじまいだった。

 初めて見た彼女の第一印象は、しとやかな美人。いや、美人というよりはかわいらしいと言った表現がふさわしい。川崎唯という名の女性は六つ年下の二十二歳。大学を卒業して半年の新社会人だった。

 彼女は控えめではあるが俺に好意を示している。今日限りだろうと思ってはいたが、部長の手前無下にもできず、俺はビジネス用の笑みを顔に張り付けて対応した。

 俺の質問に対する彼女の答えは「はい」か「いいえ」または単語一つのみ。そこから会話が広がることもなく、早々に見合いは終了した。


「どうだった、彼女は? 素直でやさしい女性だろう」

「昨日のあれだけでは、よくわかりません」

「ならまた会ってみるか? むこうは断らないと思うよ」


 いえ、けっこうです。と断りを入れようとしたところで部長に呼び出しの電話がかかり、部長はそのまま会社を出て行った。

 それから何度か彼女と会った。毎回断ろう断ろうと思っていたが、いつもタイミングが合わない。直接彼女にではなく、部長から間接的にと思っていたのが悪かったようだ。

 彼女の両親と部長の思いは、俺たちの結婚に向かっていた。彼女も嫌ではなさそうだったし、俺も今まで通りの生活を続けるだけだと思い、彼女との結婚を決めた。

 おとなしい彼女が俺のすることに文句を言うはずもないだろう。一人分の生活費が増えるだけなら何の問題もない。

 何か問題が出てきたときは、部長には申し訳ないが離婚という選択肢もある。

 言い寄ってくる女も減るかもしれない。家事の負担も減る分、少しは生活が楽になるかもしれない。デメリットはないに等しいが、メリットはある。


「婚姻届を出して、住まいを移すだけでいいな? 式を挙げる時間的な余裕はない」


 唐突に切り出した俺の冷たい言葉にも、彼女は黙ってうなずいた。部屋の飾りになるだけだからと、指輪は買わなかった。

 彼女は両親に何と言っただろうか。彼女の両親は、賛成したとはいえ、式も挙げず誓いの指輪もない娘の結婚をどう思っただろうか。自分のことばかりの俺の頭には、そんな考えすら浮かばなかった。


 結婚して彼女が俺のマンションに移り住んでからも、俺の生活はほとんど変わらなかった。

 仕事が終わると外で食事をすませて帰り、家に帰ってシャワーを浴び、寝る。自分の仕事を終えて帰った彼女が夕食を用意して待っていても、風呂に温かい湯をはっていたとしても、すべて無視した。

 変わったことといえば、起きたらすでに食卓に並ぶ朝食を摂ることと、たまにしていた洗濯と掃除をしなくなったことくらいだ。

 俺は彼女のことを何も知ろうとしなかった。彼女も俺のことを知ろうとはしなかった。

 つまりはそういうことだ。俺たちはお互いにとって、夫婦という名の顔見知り程度の存在だった。

 けれど彼女は別れたいという言葉を口にすることもなく、この生活を嫌っている様子もなかった。時々見る顔は、むしろ満足気でさえある。

 俺が家を出るときは「いってらっしゃい」、家に帰ると「お帰りなさい」と、必ず笑顔を見せる。


「行ってくる」


 ある朝、出勤準備を整えた彼女がいつものように俺を見送りに玄関へきたとき、ふと口にしてみた。「おはよう」すら言わない、まるで彼女がいないかのように振舞う俺がした、初めての挨拶だった。

 「いってらっしゃい」を言うため開きかけた口をそのままに、彼女は固まった。それがおかしくて噴き出すと、彼女は赤面してうつむく。けれど次の瞬間には声を出して笑っていた。出会って初めて、彼女の笑顔を見た気がした。

 機嫌よく一日を過ごした俺は、仕事が終わってすぐに宝石店へ向かい、指輪を買った。細身のウェーブラインのリング、センターストーンにはダイヤモンド。明日取りに来ると店員に告げ、どこにも寄らずに家に帰った。

 「おかえりなさい」と笑った彼女の顔は、昨日までとどこか違う気がした。変化を期待する眼差しに、思わず苦笑が漏れる。「ただいま」と返すと、より一層顔が輝いた。

 ああ、そうか。彼女はこの変化をずっと待っていた。下手に動いて俺に嫌われぬよう、訪れないかもしれない変化をただじっと待っていたのだ。

 彼女が作った夕食を口に運びながら、二言三言言葉を交わした。

 たったそれだけでわかった。彼女は俺を愛している。

 そしてその夜、俺は初めて彼女に触れた。指を絡ませ唇を重ねた彼女は、俺の妻であると同時に知り合ったばかりの恋人だった。




 その過去は、俺の知る過去とは異なる。

 記憶の中の彼女は、俺と過ごす「今」を求めた。未来はいらないと言った。今思えば、そう言った彼女はすべてを知っていたのではないだろうか。

 彼女がくれた時間は、プロポーズからやり直す結婚生活ではなく、出会いからやり直す恋人生活だった。

 ようやくたどり着いたプロポーズをやんわりと拒否した彼女は、おそらく俺を縛りたくなかったのだろう。自分ではなく他の誰かとともに生きろと、そんな気持ちがこもっていたのかもしれない。


「唯、君はずるいな」


 向き合おうと思いプロポーズをしたあとに、そばにいてほしいと願いプロポーズをしたあとに、彼女はいなくなってしまった。


「こんな振られ方をしたら、俺はしばらく立ち直れない」


 冷たくなった彼女の左手を取り、薬指に指輪をはめる。美しく輝くダイヤモンドを眺めながら、しばらくとはいつまでのことだろうかとぼんやり考えた。

 彼女が俺を待った時間分か、それとも数年かかるか、あるいは一生か。

 けれど立ち直れずとも幸せではいられる。彼女と過ごした記憶がある限り、俺は不幸になどなりはしない。


 唯、言葉にできなかった俺の想いを、君にしか伝えたくない想いを、今受け取ってほしい。


 俺は君を、――。


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