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君を、  作者: 日暮
1/3

前編

 病院を出て家に帰ると、知らない女がいた。おかえりなさい、と微笑む顔に見覚えはない。


「君は誰だ」


 多少の驚きと混乱はあったが、俺の口から出た言葉の響きは淡々として冷ややかだ。表情を曇らせてうつむいた彼女に対して、何らかの感情がわくこともない。


 医者からは過労だと言われた。あまりよく覚えてはいないが、会議の最中に倒れたらしい。

 たしかに最近、自分でも働きすぎだとは思っていた。三十が目前に迫っているとはいえまだ就職して八年目の俺が、俺より年上の、経験豊富な同僚たちを押しのけて、会社でもっとも力を入れて取り組んでいたプロジェクトの責任者を任せられたのだ。

 素直な後輩たちは俺に賛辞を呈してくれた。俺を責任者に指名した上司は激励の言葉を贈ってくれた。けれど一部の人間は俺を妬み、隙を見せればそこにつけこもうとした。

 少しも気が抜けなかった。

 プロジェクトを成功させるために休日返上で働き、睡眠時間も減った。食事をとらなかった時さえある。

 今思えば、逆によくここまでもったものだ。

 しかしなぜ、とも思う。身体が悲鳴を上げ始めていたこともわかっていたのに、信頼できる仲間もいたのに、なぜ俺は一人で背負いこんでしまったのだろうか。なぜあれほどまで必死になっていたのだろうか。

 実際、詰めの段階に入っていたプロジェクトは、仲間たちのおかげで成功した。俺が入院していた三週間の間、彼らは毎日俺のところに通い、進捗状況を報告し、俺の指示通りの、いやそれ以上の働きをしてくれた。


 上司からは、医者の指示に従い退院後もしばらく自宅療養するようにとの連絡があった。プロジェクトが成功したのは君の働きがあったからだ、みんな君の功労を称えている、とも。

 次の役員会では俺を課長職に推薦してくれるらしい。もし決まれば、社内では異例の速さの昇進だそうだ。


「吉原部長から聞きました。しばらく自宅療養だって」


 俺より頭一つ分身長の低い彼女を見下ろしたまま返事を待っていたが、彼女は質問に答えることなく再び俺に笑顔を向ける。


「なぜ君が部長のことを知っているんだ」

「なぜって、それは……」


 そこで口をつぐんだ彼女は困ったように首を傾げ、さらりと流れたまっすぐな黒髪を耳にかけて、静かに俺の名前を呼んだ。

 

 知らない女が家にいる。

 俺の名前も、俺の上司のことも知っている。

 気味が悪い――普通ならそう思うのだろうが、俺はそこまでの不快感を覚えることもなく、それ以上彼女に疑問をぶつけることもなかった。


 その日から、俺にとっては奇妙な、知らない女との共同生活が始まった。

 彼女は働き者だった。朝は俺より早く起きて朝食を作り、俺が新聞を読んでいる間に掃除機をかけ、ニュースを見ている間に洗濯をし、それが終わると昼食の準備にとりかかる。

 昼食を摂り片付けが終わると、ソファに座ってテレビを見る俺の隣に腰を下ろしてしばらく休憩。ぴたりと俺に寄り添い手を重ねてくるのを不快には思わない。

 そうして短い休憩を終えると、今度は夕食の買い物に出かける。最初は彼女を見送るだけだった俺も、今では彼女について行き買い物袋を手に提げて帰るのが日常となった。

 きっかけは何だったか、よく覚えていない。急に思い立って「一緒に行く」と彼女に告げた時、彼女が花のような笑顔を咲かせたからかもしれない。俺に夕食は何がいいかを尋ね、その料理に必要な食材をあれこれ品定めしながら迷う姿に心が温かくなったからかもしれない。

 その他にもいろいろとありはするが、どんなことがきっかけだったかなど、今となってはもうどうでもいいことだ。

 たくさんの食材が入った買い物袋を提げて家に帰りつくと、彼女はすぐに洗濯物を取り込みたたみ始める。手際よくたたんだ衣類にアイロンをかけて片づけると、俺のリクエストした料理を作るためにキッチンに立つ。エプロン姿の彼女が奏でる音は耳に心地いい。

 彼女の手料理で腹を満たすと、彼女が沸かした風呂で体を温める。俺がそうしている間に、彼女は夕食の片づけを手早く済ませてしまっているのだ。

 そうして忙しなく動き回る彼女を見ていると、俺が何か手伝えればとは思うのだが、家事がほとんどできない俺にはやはり重い買い物袋を持つことくらいしかできないだろう。


 一日の仕事を終えた彼女はのんびりと、湯船で溺れているのではないかと心配してしまうほどのんびりと長風呂を楽しみ、髪を濡らしたまま俺の隣にやってくる。ドライヤー片手に触れる彼女の髪は柔らかく、つややかだ。

 彼女の髪が乾くとまた二人並んでソファに腰を下ろし、少ないながらも言葉を交わしながらドラマや映画を見る。お気に入りの俳優が映った瞬間テンションが上がる彼女を見ては、テレビのチャンネルを変えたことも少なくない。そのたびに頬を膨らませる彼女は、俺が頭をなでてやるとすぐにはにかんだ笑顔を浮かべる。

 就寝はそれぞれの部屋で。気づいた時には彼女の空間になっていた俺の隣の部屋は、クリーム色のカーペットが敷かれ、窓には薄桃色のカーテンがかかり、壁際に置かれたシングルベッドには、小さな花柄をあちこちにかわいらしく咲かせた布団がかかっている。空き部屋だった頃は何もないがらんとした部屋だったのに、不思議なものだ。

 そんなふうに自分の部屋があるにもかかわらず、彼女は時々枕を持って俺の部屋に忍び込み、俺のベッドにもぐりこんでくる。

 俺がわざと気づかないふりをすると、彼女はすがりつくように身を寄せる。そんな彼女を見ていると、結局最後まで意地悪をし通すことなど到底できず、そんな自分に呆れながらも温かい彼女をやさしく抱きしめる。

 すると彼女は俺の服をつかむ手の力を緩め、ほっと安堵の息を漏らして眠りにつくのだ。


 彼女は「ユイ」と名乗った。唯一の「唯」と書くらしい。

 彼女に似つかわしい名前だ、と思った。その響きはじんわりと俺の中に染み渡り、小さな幸福感をもたらす。


「唯」


 呼べば彼女は満面の笑みで振り返る。名前を呼ばれるだけで幸せだといわんばかりの満足そうな笑顔。

 その笑顔のまま頬を染め、彼女は透き通った柔らかな声で、宝物の名を口にするように俺を呼ぶ。


「良樹さん」


 「彼女の声」という特別な音は、どこにでもありそうな「ヨシキ」という名前さえ、世界でたった一つだけの特別なもののように感じさせる。


「唯……」


 パタパタと小走りで近づいてきた彼女を腕の中に閉じ込めれば、ふわりと彼女の香りが漂う。その香りを堪能して彼女の額に口づければ、背中に回された彼女の腕に力がこもる。

 まるで……。

 ふと浮かんだ考えに小さく笑いが漏れる。不思議そうに俺を見つめる彼女を解放し、頭を振った。

 一緒にいて幸せだと思うだけだ。彼女の心地よく響く声で俺の名を呼んでほしいと思うだけだ。笑顔が見たいと思うだけだ。髪に触れ、抱きしめて、そして……――

 ――ただ、それだけなのだ。

 彼女も俺も、相手にとってはただの同居人でしかない。


「唯、いくつだ」

「え?」

「歳は、いくつだ?」

「二十四、に、もうすぐなります」


 ほらみろ、俺より六つも下じゃないか。こうして年齢を知るまでは、もっと若いのかと思っていたくらいだ。

 聞けば彼女の誕生日はクリスマス、十二月二十五日だと言う。

 バースデーパーティーをしたいかと問うと、彼女はクリスマスパーティーの方がいいと答えた。

 それならバースデー・クリスマスパーティーをしようと言うと、クリスマス・バースデーパーティーならしてもいいと言う。

 どちらも変わらないじゃないかと彼女の頬をつまむと、ぜんぜんまったく違うと俺の頬をつまみ返す。

 ならどう違うのだと彼女の手を握ると、彼女はこう言った。


「一人で主役は、いやです」


 一年に一度巡ってくる特別な日だ。大手を振って主役になればいい。

 とは言えなかった。なんとなく、彼女が寂しそうな顔をする気がしたから。そんな顔を見たくないと思ったから。


「わかった。クリスマス・バースデーパーティーをしよう」

「やっぱりクリスマスパーティーが……」

「”クリスマス・バースデー”だ。俺が三、唯が七の割合で主役」

「せめて四割と六割じゃないといや」

「わかったわかった。それでいい」


 そうしてやってきたクリスマス。俺と彼女は二人でケーキを買いに行った。

 ”Merry Christmas & Happy Birthday YUI”と書かれたプレートが乗ったイチゴのショートケーキを、瞳を輝かせて見つめる彼女。

 よほど嬉しいのか、彼女はケーキが入った箱を大事そうに両手で抱えて鼻歌を歌いながら歩く。ケーキボックスを持とうとした左手も、彼女の手を握ろうと伸ばした右手も拒まれてしまった俺は、冷たい風に文句を言いながら上着のポケットに手を入れた。

 家に帰ってすぐ、俺はプレゼントを用意していないことに気づいた。何かほしいものがあるかと尋ねると、彼女はしばらく考えたあと「今日は二人が主役だから、良樹さんのほしいものを私がプレゼントします。だから私にも同じものをください」と答えた。


「六割唯が主役だ」

「四割は良樹さんが主役です」

「唯の方が割合が多い」

「だから私が決めるの! 良樹さんのほしいものがほしい!」


 彼女のほしいものは、俺がほしいと思うもの。俺が決めたものは、彼女が決めたものとイコールということだ。

 駄々をこねる子どものように、彼女は俺の上着の袖をつかんでぐいぐいと引っ張る。

 困った俺は頬を掻いた。ほしいものなんてすぐには思いつかない。しかし店で買う必要があるものなら早く決めなければならない。

 考え続ける俺を見かねた彼女は、無理に今日決めなくてもいいと言ってくれた。その言葉を聞き、俺は「ほしいもの」で頭を満たすのをとりあえずやめた。


 二人だけのクリスマス・バースデーパーティーは、静かに始まり静かに終わった。

 いつも通り彼女の沸かした風呂につかりながら、俺はいろんなことを後悔した。彼女の誕生日なのに、ケーキ以外の料理はすべて彼女が作った。街にあふれるクリスマスイルミネーションを見に行っていない。プレゼントさえ用意し忘れた。

 俺は何もしていない。それでも彼女は笑ってくれた。


「唯」


 風呂から出ると、彼女はいつものように食器を洗い終えていた。

 俺の声に振り返り、笑顔を浮かべ、座っていたソファから腰を浮かせる。俺は早足で彼女のもとへ歩み寄り、いつもよりいささか強い力で彼女を抱きしめた。


「唯……、いったい俺は、どうしたいんだ」

「……良樹さん?」

「俺はなぜ君といて、君はなぜ俺といるんだ」


 俺が彼女に向ける気持ちは、彼女が俺に向ける気持ちは、何なのだろうか。止めようとしても止められない、心の底からわき起こる感情を、何と呼べばいいのだろうか。

 はっきりと形にならないこれは、きっと俺が失っていた大事なものだ。そして俺は、彼女がいたからそれを取り戻すことができた。そんな気がするのだ。


「……唯、ほしいものが決まったよ」


 期待を込めた瞳で俺を見つめる彼女を見て、確信した。

 そうだ、俺は、取り戻したものを再び失いたくない。そのためには。


「唯、君と一緒に生きていきたい。君のこれから先の未来を、俺にくれないか」


 まるでプロポーズの言葉のようだ。いや、実際俺は今、彼女にプロポーズしているのかもしれない。

 妙に緊張して高鳴る鼓動は、彼女にも伝わってしまっているはずだ。


「良樹さん……」


 目を丸くして俺を見ていた彼女は、ひどくか細い声で俺の名前を呼び、俺の胸に顔を押しつけて小さく肩を震わせ始めた。

 彼女を抱きしめたままゆっくりと頭を撫でてやると、彼女はさらに強く俺にしがみつく。鼻をすすり、嗚咽を漏らし、俺の名前を繰り返し呼び続ける。


「私の未来なら、いくらでもあげる。良樹さんになら、いくらでも……」

「唯……」

「でも、良樹さんの未来はいらない。もらえない」


 どうしてだ、という俺の問いに、彼女は泣き顔のまま曖昧に笑うだけだった。

 俺が彼女の未来をもらうなら、彼女には俺の未来を。それが約束だったはずだ。彼女が言いだしたことなのに、なぜ彼女は拒否するのだ。

 俺は親指で彼女の涙をぬぐい、顔をしかめた。すると彼女は深呼吸をし、穏やかな笑みを浮かべる。


「私は”今”があればいいんです。良樹さんが一緒にいてくれる”今”があれば、それでいい。だから未来はいらないの」


 開きかけた俺の口を、彼女の小さな手が塞いだ。もう何も言わないで、と。


 翌日、俺と彼女は指輪を買いに出かけた。

 彼女はほしくないと言ったが、俺が贈りたいと無理やり彼女をつれ出したのだ。

 宝石店に入ると、いらないと言い続けていた彼女も美しい宝石たちに興味を示し始めた。必死にそれを隠そうとしているが、視線はきょろきょろとあちこちへ移り落ち着きがない。

 それでもやはりいらないと言い張るので、俺はしばらく彼女の様子を観察し、おそらく無意識なのだろうが彼女が一番長い間見つめていた指輪を選んだ。

 細身のウェーブラインのリングで、センターストーンのダイヤモンドが際立っている。彼女の細くきれいな指に似合いそうだ。

 本当はじっくり選んだ方がいいのかもしれないが、彼女の様子を見ているとそういうわけにもいかないだろう。勢いで買ってしまわなければ、彼女は拒否し続けるに違いない。

 注文したリングは二、三週間ほどで受け取れるということだった。少し遅れてしまったが、形のあるものをバースデープレゼントとして贈ることができる。

 俺が注文してしまうと彼女もあきらめたのか、遅めのバースデープレゼントを素直に喜んでくれた。


 その夜、俺たちは二人で眠った。

 彼女が俺の部屋に忍び込み、ベッドにもぐり込んできたのではなく、俺が彼女を自分の部屋に呼んだのだ。

 静かな寝息を立てる彼女の温もりを感じながら、彼女の左手を握る。数週間後に俺からのバースデープレゼントが輝くであろう薬指をゆっくりと撫でながら、俺は穏やかな気持ちで目を閉じた。


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