ランニングシャツ
~佐藤家の紹介~
【ジョセフ】
佐藤家のアイドル。ゴールデンレトリバー。老犬。いつだって里香の味方。
【里香】
大学一年生。ジョセフに寂しい思いをさせないため、ニートになる。
【玲弥】
中学二年生。姉思いの優しい弟。自信過剰。
【パパ】
食品卸売会社勤務。娘のニート費用を稼ぐため、全身全霊でギャンブルに挑む。
【ママ】
お菓子メーカー勤務。玲弥にとことん甘い。
「ジョセフがおかしいのッ! 話しかけても何も反応しないし……認知症みたい……」
娘からの着信に折り返したママへ、里香が告げたその表現は、残酷なほど的を射ていた。
ママが急いで帰宅すると、リビングには別人のように精彩を失ったジョセフがいた。彼は虚ろな目で、とり憑かれたようにリビングを徘徊していた。壁や家具に突き当たって行き止まりになると、どうしていいか分からないといった様子で、絞り出すような声で辛そうに鳴く。
里香が向きを変えてやっても、部屋の真ん中に戻してやっても、ジョセフはすぐにまた当てもなく歩き始める。そしてまた行き止まりにぶつかって、鳴く。
やがて、ジョセフは燃え尽きたように力尽きて眠りについた。
夕暮れ時、少しだけ意識が戻ったのか、ジョセフは床にぺたんとうつ伏せになったまま、うっすらと目を開けた。里香は自分も床に這いつくばり、ジョセフと視線を同じ高さにした。
ジョセフの瞳はぼんやりと宙を彷徨っていたが、里香が名前を呼び、語りかけ続けると、一瞬だけピントが合った。そして、かつての面影を残した力ない笑顔を、一度だけ返してくれた。
その日の晩、佐藤家は緊急の家族会議を開いた。議題は、ジョセフに手術を受けさせるかどうか。
成功の確率は五〇パーセント。決して高いとは言えない。
誰も答えを出せなかった。出せるはずがなかった。手術台の上でそのまま帰らぬ人になるかもしれないのだ。それも、二分の一という極めて高い確率で。
しかし、迷っている暇などないのだと、すぐに気付かされた。
犬の自然治癒力は人間の二倍。だがそれは裏を返せば、病気の進行速度も二倍だということだ。ジョセフの病状は累乗の勢いで悪化し、彼の脳を、心を、食い潰していった。
翌日、ぼうっと穏やかに過ごす時間は短くなり、徘徊と悲痛な鳴き声がリビングを満たした。その次の日には、穏やかな時間はもうほとんど残されていなかった。一日中、ただ歩き続け、泣き続けた。
沈黙を破り、決断を下したのはパパだった。
「ジョセフに、手術を受けさせよう」
パパの声は、震えていたが真っ直ぐだった。
「パパは、最期までジョセフには希望を持って生きてもらいたい。たとえ手術の結果がどうなろうと、逃げずに、最期まで戦ってほしい。……もし、手術が失敗した時は……里香、パパを恨みなさい」
里香は溢れ出す涙を拭うこともせず、嗚咽を必死に堪えて応えた。
「……恨むわけ、ないッ。パパ、ありがとうッ! 私もパパに賛成だよ……私もッ、ジョセフには最期まで希望を持って生きてほしいッ!」
「俺も、パパに賛成だよ」
「ママも、パパに賛成するッ!」
四人の意志が、一つに固まった。
ジョセフの手術が決まった翌日、里香はジョセフが眠りについた隙を見計らって、狂ったように自転車を漕いだ。向かった先は近所のペットショップ。
そこで彼女が選んだのは、白地の犬用ランニングシャツだった。みんなでジョセフへの寄せ書きをしたためるために、書き込めるスペースが一番広いものを選んだ。
帰宅した里香は、唇を血が滲むほど噛み締めた。
そして覚悟を決めた目で、油性マジックの太い方のペン先をシャツへと突き立てた。
真っ白な背中の真ん中に、大きく、力強く。
『必勝』
その二文字を、魂を削り出すように書き記した。




