戦場
~佐藤家の紹介~
【ジョセフ】
佐藤家のアイドル。ゴールデンレトリバー。老犬。いつだって里香の味方。
【里香】
大学一年生。ジョセフに寂しい思いをさせないため、ニートになる。
【玲弥】
中学二年生。姉思いの優しい弟。自信過剰。
【パパ】
食品卸売会社勤務。娘のニート費用を稼ぐため、全身全霊でギャンブルに挑む。
【ママ】
お菓子メーカー勤務。玲弥にとことん甘い。
「いい、今日は俺が運転する」
佐藤理久は、部下の小林とともに社用車のコンパクトカーに乗り込んだ。
「部長が自ら運転してくれるってことは……」
小林がハンドルを握る理久の横顔を伺うようにして尋ねる。
「そうだ。戦場だ」
小林は部下といっても理久と同年代の、少しくたびれたおっさんだ。腹にたっぷり贅肉を蓄えた見た目は理久よりも老けて見える。外回りで社用車という密室に入れば、二人の会話は自然とタメ口に変わる。
「今日の目標金額はいくらなん?」
「百七万だ」
「端数の七ってのは何よ。中途半端だな」
「大学二年分の学費だよ」
小林が、助手席で一瞬絶句した。
「……えっ? 里香ちゃん、どうかしたん。ご病気とか……?」
「いや、大学に在籍しながら、これから二年間ニートをする」
「なんじゃそりゃ」
小林が呆れたように声を上げる。
「愛犬の最期を、家で看取るためだ」
「そんな甘え許したらあかんよ。二年留年した後の就職なんて、今の時代、相当キツイで――」
小林の口から、至極真っ当な「社会人としての正論」が漏れ出す。理久はそれを黙って聞き流し、説教がひと段落ついたところで静かに口を開いた。
「……初めてなんだよ。里香が、わがままを言ったのは」
「そーなん? だからってさぁ……」
「里香がまだ小さい頃、俺ら夫婦はいつも喧嘩ばっかりしてた。あいつも、女房も、しょっちゅう実家に逃げ帰ってな。向こうの両親がうちに乗り込んできたことも何度もあった。その度に俺が暴れてさ。『こんな奴と今すぐ離婚しろーッ!』って、カンカンだったよ」
家庭内で妻に頭が上がらない小林は、「暴れる」というパワーワードに、羨望と尊敬の入り混じった眼差しを理久に向けた。
「だから佐藤家では、わがままを言っていいのはママだけ。幼い里香がわがままを差し込めるような隙なんて、どこにもなかったんだ。……昔、日曜日にホットケーキを焼いてやっただけで、飛び上がって喜んでな。そんなことで大喜びさせてしまうくらい、俺は里香に楽しい思い出を作ってやれなかったんだよ」
小林は深く頷き、言葉を飲み込んだ。
「娘の、人生最初のわがまま……。それを聞いてやりたいってか。父親の矜恃だな」
「それにな、キスも来た。十年ぶりにだ」
「……すっ、凄えェ! うちじゃ逆立ちしても有り得ないッ!」
「……キスは……ジョセフがうちに来た時以来だな。犬が欲しいって、あいつが駄々をこねた時以来だ」
小林が即座にツッコミを入れた。
「おい。じゃあ人生初のわがままじゃねーじゃん。少なくとも二回目だろ」
「……あっ、ホントだ」
そんな、しまらない身の上話をしているうちに、社用車は目的地の駐車場へと滑り込んだ。
目の前にそびえ立つのは、鉄火場の熱気を孕んだ巨大な施設。
二人の「戦場」――競輪場に、到着した。




