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薄明の空を君と見ながら。  作者: 佐野いさ
一章、一番大隊編
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薄明の空

 業務が終わり、泉と滲の二人は夕暮れの帰路につく。

 よく考えれば一緒に帰るのは初めてだ。なんだか緊張する。

 泉は滲の少し前を歩きながらそわそわしている。


「泉さん」


 不意に後ろから滲に声を掛けられ、泉は振り返った。


「あの、本当によろしいんですか?何のお咎めもない上、さらに結婚の件まで…」

「まだ言ってるのか?誰も責めていなかったしいいだろう。結婚の件は私も覚悟ができたから大丈夫だ!」


 泉は滲にドンと胸を張る。


「本当に…?」


 その様子に滲は拒むように目を伏せた。


「忘れられると、思ったんです。けれど忘れられなかった。こんな隠し事をしている僕です。もしかしたらこの先一生…あなたには言えないかもしれない。そのことはきっとあなたの枷になる。それでもあなたは、僕と一緒にいてくれますか?」


 二人の間にしばしの沈黙が下りる。


 滲の瞳は懇願するような、諦めているような色を見せる。

 しかし泉の頬には冷や汗が伝っていた。


 絶対今言うべきではない。滲が真剣な話をしていることは泉でもわかる。忘れる、忘れられないとは一体何のことだろうか。けれど今泉にはそれよりも気になることがあった。絶対に聞くべきではない。しかし聞かないと質問には答えられない。


 重い空気の滲に泉は意を決してこう言った。


「…枷ってなんだ?」

「え?!邪魔もしくは自由を奪うような…。まあ、なかった方がいいものです」

「ほう」


 戸惑いながらも諦めて半ば投げやりな説明をしてくれた滲に泉は意味を理解しあっけらかんと答える。


「なんだそんなことか!大丈夫だぞ。私は強い!どんな枷でも私は鈍らない!だからお前にどんな秘密があろうが私はその秘密ごとお前を愛してやる!」


 泉の無茶苦茶な物言いに、滲は呆気にとられる。しかしその絶対的な強さは彼女に揺るぎない自信をもたらしていた。

 普通の人が言えば戯言で終わるこの言葉は、泉の声を通して滲の心にスッと入ってくる。


『秘密ごと愛す』


 泉のまっすぐな答えに、滲は先ほどまでの悩みが浄化されるように消えていくのを感じた。


「あなたという人は…」


 恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに口の端を上げる滲に、泉はしたり顔ではにかんだ。


 今はまだ、この幸せを噛み締めていたい。


 滲は陽気に前を歩く泉とともに帰る家へと歩き出した。





 二人は家に着くと、婚姻の書面に名を記す。

 ふと泉は名前を書きかけて、筆を止めた。


「どうしたんです?」


 滲は首を傾げると、泉はきょとんとして顔を上げた。


「そういえば、籍はどっちに入れるんだ?有明か?井上か?」


 目を瞬かせる泉に、滲はふと考えたように顎に手を当てる。


「そうですね。どちらでも構いませんが、僕の個人的には有明家にお世話になりたいです」

「なんで?」

「僕は孤児ですから赤子の頃から家族がいません。だからあなたの家族に入れていただきたいです。…ダメですか?」


 初耳の事実に泉は衝撃を受ける。


「ダメじゃないが…」


 泉は空いた口がふさがらなくなっている。

 その間の抜けた顔を、沈かけた夕日が照らしていた。


「…!」


 滲ははっとして夕日と反対方向に顔を向ける。


「?」


 普通夕焼けの方を見るものじゃないのかと、泉も滲の視線の先へ目を動かす。

 するとそこには開いた障子の奥に、夜と夕焼けが溶けあったような桃色の空が光り輝くように広がっていた。薄明りの空にはかすかながら星々が顔を出しきらめいている。


「きれい…」


 ところどころある雲を絵のように染め上げるその光景に泉は目を奪われた。その空模様はまるで魔法のように美しかった。


 滲が来るまで空など気にしたことがなかった泉は、なんだか少し嬉しくなる。

 しかし滲はそれ以上に、懐かしそうに目を細め桃色の空を眺めていた。


「あれがどうかしたのか?」


 泉が問いかけると、滲は空の色を見つめたまま嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。あの空は僕を拾ってくれた方々が見せてくれた空です。西洋ではビーナスベルトというそうですよ。僕が今こうして生きていられるのはその方々のおかげなんです。とても懐かしい…」


 初めて聞く滲の過去に、泉は言葉を返した。


「いい人たちだったんだな」

「いい人?まさか!ご冗談を」

「?」


 泉の一言に、滲はなぜか可笑しそうに笑いだす。

 もしかして悪い人だったのだろうか?そうだとしたら申し訳ないことを言ったと泉は思った。


「けれど」


 滲は笑うのをやめて、再び桃色の空に目を細めた。


「そうですね。とてもいい方たちではありましたよ。…それなのに、どうして」


 滲の目から懐かしみが薄れ、とても寂しそう顔をした。

 泉たちの頬を照らしていた日が沈み、桃色の空が消えた時、滲は明けぬ夜のような暗い顔をした。


「どうかしたのか?」


 泉は心配になって滲の顔をのぞき込む。すると滲はふと我に返ったように泉に向き直った。


「いいえ、なんでもありません」


 滲はまたいつもの顔に戻る。その表情は、迷いを無理に振り払ったようだった。


「名前、書いてもいいですか?」


 滲は泉が持っていた筆を指す。


「あ、ああ。いいぞ」


 泉はなんだか恥ずかしくなってぶっきらぼうに筆を渡す。その様子に、滲は柔らかく微笑んだ。

 泉と滲は書面に名を記すと、二人は晴れて夫婦となった。


 有明泉と有明滲。


 感動して書面に穴が開くほど見つめ続ける泉に、滲は可笑しそうに笑う。

 まだ明るさの残る夜は、新たな夫婦の横顔を照らしていた。

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