歯車は動き出す
三箇日も終わろうとしている夜、軍部大臣邸宅では煎餅を食べる音と、父親の悲痛な叫びが聞こえていた。
「俺が家に帰ったら雪希に何て言われたと思う?『今日の誉さんはどうだった?』だとよ。やってられるかよもう、家出てきちまったよ俺」
「先輩、今日三番大隊の報告に来たんだよね?何の話してるの?」
ソファの上で顔を覆い隠す佐々木に、後藤は煎餅を咀嚼しながら興味なさそうに言い放つ。しかしそれが佐々木の逆鱗に触れた。
「てめえ!雪希の純情を弄びやがって!返せよ!俺の娘の心返せよ!」
「無茶言わないで先輩。オレだって返せるものなら返したいさ」
机を踏みつけにし、胸ぐらをつかんだ佐々木に後藤は動じない。それどころか降参するように両手を上げた。
「まったく、あの子はしぶといね。遺産目当てなら彼女はとんでもない慧眼だよ。オレが給料をほぼ使わずじまいなことをどこで知って…」
「うちの娘がそんなモノで靡くわけないだろ!侮辱するのも大概にしろよ!遺産なら俺だってあるわ!」
「ええ…」
何を言ったって話が全て負の感情に引きずられる佐々木に、後藤は成す術なく上半身を宙ぶらりんにさせた。落ちそうになった煎餅の最後の一欠片を口へ運ぶ。
「は~、大丈夫だって先輩。今度の食事の席では絶対嫌われるよう努力するから」
「食事の席ってなんだ!?全然大丈夫じゃねえだろ!?何ちゃっかりデートの約束取り付けてんだこの野郎!」
「デートじゃないよ。これは双方に折り合いをつけるため、三回目の話し合いを…」
「一回で済ませろッ!ズルズルと引きずってんじゃねえ!」
後藤は歯を剥きだした佐々木に諦観した片目を向ける。
「落ち着きなよ先輩。とりあえず座って。怒鳴っても何も解決しないでしょ?」
重いため息を吐きながら後藤は佐々木の手をおろさせた。それが気に食わなかったのか佐々木は目を吊り上げる。だが後藤は動じない。
「こんな甲斐性なしの何がいいのさ。すぐに目を覚ますでしょ彼女も」
自虐を当然のように語る後藤は煎餅を飲み込んだ。本当にこのままの状態で雪希が諦めてくれると思っているらしい。そんな一方通行な後輩の態度に佐々木は絶望する。
「誰にも臆さず正直なところが刺さったらしい…。俺には一切わからんが、雪希は諦めの悪いタイプだ。考えただけでも恐ろしいが、頼むからお前の家の墓に雪希を入れるなよ」
「わかってるって。最悪先輩の墓にオレが入るから」
「もっと怖いことを言うんじゃねえ!」
佐々木の鉄拳を食らいそうになった後藤は半身を逸らし、躱す。そして何事もなかったようにソファに座り直した。
「まあそれは冗談として、さっさと三番大隊の報告してくれない?オレ毎年恒例の有明の実家行くのバックレてここにいるんだからさ」
「は!?お前有明の実家通ってるのか!?自分の実家帰れよ!」
「ヤダよあんな家。帰ってもいい顔されないし。だったら茂造さんと御神籤勝負してる方が百倍楽しい」
「誰だよ茂造さんって」
「有明の父親」
弟子の実家を侵食している後藤に佐々木は呆れかえる。同じ娘を持つ父親としてこんな奴が入り浸っていると思うと心底ゾッとした。佐々木は身震いして心落ち着けようとため息を吐いた。そのため息は重い。佐々木は話を仕事に戻した。
「三番大隊はあの一件でほぼ壊滅状態だ。一か月ほど経った今でも事情は芳しくない。特に武闘派三人がやられたことが痛い」
佐々木は淡々と、だが重々しく言い放つ。
「杉田や関は骨折程度で済んでもうすぐ復帰できる。だがお前らに応援を呼びに行った曽根。あいつは杉田たちと肩を並べるほどの強さだった。けれど全身の火傷が酷過ぎる。…あと五分治療が遅ければ、命を落としてもおかしくなかったそうだ。もう前線への復帰は望めない」
佐々木は顔を曇らせ勝手に机の煎餅を手に取り、歯を突き立てる。
「曽根はうちで六人いる中隊長の一人だ。それが抜けた穴は大きい。後任を据えるつもりだが、元のようにはいかないだろうよ」
煎餅を噛み砕く力は怒りかやるせなさか。佐々木はそれを飲み込んだ。
「そっか。やっぱダメか」
後藤は佐々木の向かいのソファで姿勢を崩す。
「やっぱ今のままの体制じゃ立ち行かないのかな…」
そして独り言のようにつぶやいた。
それに関しては佐々木も同意する。自分の隊の崩壊に加え、三翼に負荷が集中する体制。どうやってもこのままでは続かない。
後藤は思案するように左目の包帯に手を当て、視線を落とした。そこに佐々木などは目に入っていない。
「ねえ先輩。家での娘さんたちってどんな感じ?」
「話を戻すんじゃねえ!気持ち悪いことを言うな!やっぱお前雪希のこと好…」
「え?戻してないよ」
後藤はポカンと顔を上げた。何言ってるのこの人、とでも言いたげな様子で佐々木を見ている。佐々木は眉を顰めて見返した。
「ちょっと待て。お前また何か別のこと考えてるな。話が飛躍しすぎてるんだよ。もっとわかるように話せ」
後藤の言動は大抵突拍子もない。それは彼なりの筋道があるのだが、他人に理解されることは非常に難しい。しかし佐々木にはわかる。目の前の男が何かを探ろうとしていることぐらいは。
後藤は「うーん」と困ったように唸る。
「わかるように、か…。でも先入観を持って話してほしくないし…。オレの言ったことそんなに伝わてない?」
「ああ。お前の言動は『リンゴ』って言われて『ワニ』って答えてるようなもんだぞ」
「あー、全然伝わってなさそうだな…」
三人の娘を育ててきた佐々木は幼児でもわかるような例えで後藤を黙らせる。が、思考の伝達能力が著しく低い後藤は難しい顔をして頭を下げた。
「えーと、じゃあ柚木。先輩の末娘、柚木花奈中隊長のことを話してよ」
「は?なんで花奈」
噛み砕いたつもりだろうが、またも伝わらない後藤の言動に佐々木は顔を歪ませる。
けれど後藤はもう面倒くさくなったのか、「いいからいいから」と説明を省き、佐々木の答えのみを急かす。佐々木は額に青筋を立てた。
「お前、そんなだから他人に嫌われるんだ。この前有明の旦那がうちに泊まった時も、お前のこと散々に言ってたから相当だぞ」
佐々木は釘を刺したつもりだった。しかし後藤は別のことに顔をハッとさせる。
「待って、有明たち先輩の家に泊まったの?」
「あ?」
驚いたように片目を見開く後藤は、佐々木の方に身を乗り出した。
「どうだった?先輩の目から見て彼、井上滲って人間はさ」
「は?どうって言われても…」
唐突な質問に佐々木は口ごもる。思い出されるのは佐々木の次女と楽しそうに話す姿と、後藤への嫌味をいう時の顔。そして娘たちを羨ましがるように眺めたあの悲しい眼差し。全てを押し殺したような他人行儀な振る舞い。
佐々木は視線を落とした。
「あいつに…あまり深入りしてやるな」
「え?なんで?」
後藤は意外そうな顔をする。それこそリンゴにワニと言われたような感覚だと言わんばかりに。佐々木は深くため息を吐く。
「お前のことだから側近にもう調べさせたんだろ。わかってる癖に白々しい。…あの子は、捨て子なのか?」
よそよそしい佐々木の言葉に何故か後藤が目を見開く。さらにズイと佐々木に身を乗り出した。
「彼がそう言ったの?」
その目は暴くように鋭い。佐々木は嫌な予感がして口を噤んだ。
「何が言いたい。お前が言わなきゃこれ以上は話さん」
佐々木は眉間に皺を寄せて後藤を睨んだ。しかし後藤は不敵に笑っている。まるでいいことを聞いたとでも言いたげに。だが後藤はまだ情報が欲しいのか佐々木に食い下がる。
「先輩の目から見てさ、彼は信頼に足る人物だと思う?」
「どうだか。見え方は人それぞれだと思うぜ」
佐々木は答えをはぐらかした。真剣に取り合う気はないと後藤をぶった切る。後藤はまた不敵に笑った。
「ごめんごめん。別に先輩を不快にさせたかったんじゃない。ただ面白いことを言ってるなと思ってさ」
「他人の不幸話の一体何が面白い。よく笑ってられるな」
佐々木は後藤に嫌悪の眼差しを向ける。しかし後藤はまたもニヤついた。
「それが単なる不幸話で終わればオレは笑ってない。けどそうじゃないから面白い話にしか聞こえない」
後藤の言うことは佐々木には理解できず、眉間の皺は深まるばかりだ。だが次の一言で佐々木は食べかけの煎餅を落とした。
「実はさ、井上滲のこと、菊でも調べられなかったんだ。過去がない。奴はそういう人間なんだよ」
佐々木は耳を疑った。今まで散々佐々木を出し抜いて来た側近が調べられない人間などこの世にいるのか、と。床に落ちた煎餅も拾わず、声を荒げた。
「待て。そんな人間がなんで軍にいる?明らかに怪しいだろ。しかもそれがなんで有明の夫として隣にいる?」
「さあ?そんなことわからないよ。単に有明のことが好きなだけの謎めいた子だったらそれでいいけど、そうじゃない場合が面倒だって話。…やっぱアレかな?六歳の有明を軍に入れるため無理矢理入隊条件を経歴不問にしたのがマズかったのかな?」
「答え出てんじゃねえか。何してんだよてめえ!」
悪びれのない後藤に佐々木は鉄拳をお見舞いしたくなる。が、後藤はそれを手で制した。
「けどこれには恩恵もあるんだ。多様な人材が入るようになったし、従来では考えられないほど型破りで有能な隊員が増えた。先輩の所の瀬川もそうだろ?元野盗の娘が経歴在りきじゃこんなところには来ていない」
佐々木は黙り込んだ。三番大隊の潤滑油的な役目を果たす彼女がいなければと思うと、今の大隊は意見の対立で崩壊する。その有用性を理解したうえで佐々木は拳をおろした。後藤はまた暴くような視線を佐々木に向けた。
「で、それを踏まえてどう?井上滲の印象は」
佐々木の中で彼の印象が百八十度変わる。
井上滲が単なる捨て子ではないのなら、彼は何者だ?
そう考えた時、不意に扉の叩かれる音がした。
佐々木が答えを出す前に、後藤は「入れ」と扉の方を向く。扉が開かれるとそこには、見慣れた姿があった。
「うわっ!佐々木先輩!?何してんですか!?」
「そりゃこっちの台詞だ側近。お前後藤のお守りサボってどこほっつき歩いてた!」
開口一番、不遜な態度を取った菊に、佐々木は一喝する。しかし後藤は平然としていた。
「菊、お疲れ。一か月間の調査ご苦労様。で、西側の方はどうだった?」
菊と佐々木の会話など知ったことかと後藤は仕事の話を切りだす。だが佐々木は後藤の言った内容に眉を顰めた。
「西だと?」
佐々木は言い争うのをやめ、菊に向き直る。菊は表情を硬くして、一気に仕事の顔になった。
「成果報告はまた後日。それよりもお伝えしなければならないことがあります」
後藤と佐々木の視線を受け、菊は二人に頭を下げた。
「五番大隊、六番大隊、八番大隊からの要請です。至急、大隊長会議を開きたいと」
その三部隊の名に佐々木は目を見開く。中でも特に異質だったのは。
「六番大隊だって…!?」
佐々木はそれだけで本件の異常さを感じ取った。
後藤は眉一つ動かさず、菊に向き直った。
「菊、有明を呼び戻せ。全部隊大隊長を集めろ。どうやら正月気分はもう終わりらしいな」
軍部大臣の命令を聞いた瞬間に、菊は全部隊大隊長招集に走ろうとする。
「あ、待て菊」
しかし後藤がそれを止めた。菊が振り返ると、後藤は何かを思案するように顎に手を当てていた。
「いいこと考えた。井上滲も同行させろ」
後藤の「いいこと」は大抵他人にとっていいことではない。それを聞いた佐々木は唖然とした。
「お前また何考えて!」
「了解しました。要望はそれだけで?」
後藤の機微を読み取った菊は、さらなる彼の要求を予感する。案の定、後藤は「いいや」と首を振った。
「どうせなら欲張っていこう。井上滲に続き、三番大隊菅中隊長、園寺中隊長を呼べ。要望は以上だ」
「!?」
自分の部隊長の名が呼ばれ、佐々木は目を見開く。菊は後藤の言葉を聞き入れると、再び招集に向けて走り出した。
「おいどういうことだ!なんで菅と園寺を」
「じきにわかるよ。多分オレが説明するよりも見た方が早い」
口下手を自覚している後藤は席を立ち、ポンポンと佐々木の肩を叩く。
「先輩、彼の印象はまた聞かせてよ。それと、柚木中隊長のこともさ」
呆然としていた佐々木だが、やがて「は?」と振り向くと、後藤はもう部屋を後にしていた。
なんで花奈のことなんか…。
末娘のことなど、この局面において何の重要度もないはずだ。なのに。
「何かあるのか…?」
佐々木はそうつぶやくと、一旦考えることを放棄して、大隊長会議に向けて動き出した。




