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薄明の空を君と見ながら。  作者: 佐野いさ
一章、一番大隊編
3/64

一番大隊

 翌日。


「泉さん、起きてください。泉さん」

「ふにゃ?」


 誰かに体を揺らされて、泉は足を投げ出していた布団から眠い眼をこすって起き上がる。そして目の前に滲の姿を見て取ると、びくりと後方に飛び上がった。


「さすがは大隊長。寝起きでもその俊敏さとは驚きです。…しかし泉さん。起きるのは苦手なようですね。早く支度してください。ご飯が冷めちゃいますよ」


 滲は眠気の覚めぬ泉の布団をせっせと押し入れにしまい込むと、泉を食卓へ案内した。


 あれ?ここ、私の家だったんだよな?


 順応が早すぎる滲に、泉はぱちぱちと目を瞬かせる。もはや元からこの家の住人だったかのようだ。


「ほら、早く食べないと仕事に遅れますよ」


 そう言って、滲はゆったりとみそ汁の茶碗を傾ける。


「お前もゆっくり食べてるじゃないか」

「何言ってるんです?僕の仕事は昼からです。泉さんは…あと半刻で出勤ですけど」

「え!?」


 泉は昨日まで埃をかぶっていたはずの時計に目をやると、全速力で飯をかき込み、いつの間にか綺麗になっていた軍服に着替え走り出した。


「い、行ってきまーす!」

「いってらっしゃい」


 卯の通りを駆けてゆく泉は、さながら逃げ惑う魔族を追いかけるような速さだった。

 そんな速さが当たり前の中、泉はふと当たり前でないことに気づく。


 誰かに「いってらっしゃい」と言われたのはいつぶりだろう。そしてそれが結婚することになる人からの言葉だと思うと、泉は無性に嬉しくなる。


 泉は、駆ける足をさらに弾ませ、駐屯地へと向かった。





 業務時間より前に、泉は駐屯地の扉を開くと、そこにはもう数十名の隊員たちが忙しなく机に向かっていた。


「うわっ、大隊長!?どうしたんですか?今日は早いですね」

「今日はとか言うな!」


 扉の前にいた宇野中隊長が、驚きのあまり声を上げる。彼は十人兄弟のお兄ちゃんで爽やかな好青年ながら、どこか大人の余裕のあり、戦闘時は大太刀を振るうかなりの剛腕の持ち主だ。


「え!?ホントだ。なんで!?」

「いつも遅刻ギリギリの大隊長がどうしたんですか!?」

「いつもじゃない!三回くらいは早く来たことあるもん!」


 宇野中隊長に続いて声をかけてきたのは、奇襲戦に優れ、画家のように絵が上手く、奇抜な見た目で口の悪い榎本中隊長と、前線の特攻を得意とする、女学校時代、百人の彼女がいたと豪語する伝説の男前、大路中隊長だ。ちなみに滲たち男に圧倒的な差をつけ女性隊員人気一位は彼女である。


「お前たちこそ、なぜこんなに早く?」


 泉はぱちくりと目を瞬かせる。


 三人とも一番大隊の中核を担う中隊長たちだ。しかも宇野中隊長はともかく、榎本中隊長と大路中隊長は、泉と同じく遅刻ギリギリ勢である。それがなぜこんな早朝から出勤しているのだろうか。


 泉が不思議に思っていると、宇野中隊長が気まずそうに口を開いた。


「あはは…実は昨日の書類がまだ残ってて…」

「それで怒られる前に、副隊長のいない朝っぱらからやろうって話だったんだ。…ってどうした?なんかあったか?」

「おや?大隊長、ほっぺが林檎みたいに真っ赤だよ?」


 榎本中隊長が「副隊長」と言った瞬間、頬を染め上げた大隊長に、大路中隊長はしなやかな指先でほっぺをぷにぷにして遊ぶ。


「どうしたの大隊長?まるでボクに恋した乙女たちのようじゃないか!」

「え、嘘だろ?ホントにこいつに惚れちまったのか?趣味悪いぜ」

「アーッハッハッハ!嫉妬は止めておくれ榎本中隊長!」

「してねえよ」


 大路中隊長は前髪をかき上げ高笑いを浮かべる。いつだって前向きな彼女は、榎本中隊長の中傷などでは傷一つつかない。

 これ以上ないほどイケメンなポーズを決める大路中隊長に榎本中隊長はその様子に呆れながらも苛立っていた。


「は~い二人とも喧嘩はダメだよ~」


 宇野中隊長は数分後には争いだしそうな二人をまるで弟妹の仲裁をするようにその剛腕で引きはがす。二人は頭を押さえられ、何も言えなくなった。


「それで?大隊長はどうしたんです?」


 宇野中隊長に話を戻されて、泉は恥ずかしそうに俯いて三人に打ち明けた。


「あのね、実はね、私結婚することになったんだ」

「え!?誰と!?」


 いち早く顔を上げたのは大路中隊長だった。泉を勝手に百一人目の恋人にしていた彼女はあからさまに残念がっている。


 三人に詰め寄られる中、泉は両人差し指の腹同士を押し付け、もじもじと答えた。


「井上副隊長と…」


 その瞬間、三人の時が凍った。何なら一番大隊のレンガ造りの職場は凍り付いた。そしてしばらくすると氷が溶けたのか、三人は一斉に動き出す。


「ええ!?あの副隊長と!?」

「嘘だろあの皮肉屋!?こんなのが好きなのか!?」

「こんなのってなんだ!?悪かったなチンチクリンで!」

「いや他にも問題あるだろ」

「なっ!?」

「やめろよ榎本、大隊長も暴れちゃダメ。けどホントに!?」

「信じられない。ボク、ちょっと他の隊の彼女たちに広めてくる!」

「あ!大路中隊長待てって!」


 榎本中隊長と泉の仲裁で両手がふさがった宇野中隊長の制止も虚しく、大路中隊長は他の駐屯地へと走り出してしまった。


 かくして、一番大隊大隊長と副隊長の結婚話は大路中隊長の彼女たちにより、滲が出勤する昼のころにはもう、全部隊に広まっていたのであった。





 駐屯地に着いた滲は困惑する。


「なあお前結婚したってマジ!?」

「チューしたってのは本当かい!?」

「おいおい聞かせてもらおうじゃねーか!」


 榎本、大路、宇野中隊長の順に隊員たちは一斉に滲に詰め寄った。

 部屋の奥では女性隊員たちにもてはやされた泉が恥ずかしそうに昨日のことを語っている。


「あのね、ここにね、ちゅってね…」

「「きゃ~!」」


 滲は泉に口止めしていなかったことを酷く後悔した。


 女性隊員たちの黄色い声が執務室に響き渡り、男性隊員たちはにやついている。しかしそんな中泉が指先で抑えた場所を見て、大路中隊長だけは一人肩をすくめていた。


「おいおいどうして瞼なんだい?ボクなら迷わず唇にしてるね」

「そんな度胸ないですよ。あなたじゃあるまいし」


 大路中隊長の男前すぎる発言に滲は呆れたようにきっぱりと言い放つ。そのあまりにあっさりとした様子に榎本中隊長は肩透かしを食らったような気分になった。


「なんだつまんねーの」

「面白がられてたまりますか。第一まだ結婚もしていないのにそんなことしませんよ」

「え?結婚してないの?」

「はい。婚約ってだけです」


 宇野中隊長の驚きの声に滲は頷く。

 しかし宇野中隊長は目を点にしていた。


「こんにゃく?」

「婚約。結婚しようって約束することです。…え、うそでしょう?その歳で婚約がわからないんですか?」


 二十四歳の滲は二十八歳宇野中隊長を困惑した瞳で見つめる。やがて宇野中隊長は隣にいた滲と同い年、榎本中隊長に首を傾げる。


「知ってた?」

「いや」


 当然のように首を振る榎本中隊長に滲は嫌な予感がした。


「あの、一番大隊の皆さん、この中で婚約の意味が分からなかった人は正直に手を上げてください。はい三、二、一」


 滲の掛け声に隊の三分の二以上が一斉に手を上げる。そして悲しいかな、中でも泉は女性隊員たちに囲まれながら、悪気なくぴんと片手を伸ばしていた。


 滲はもう呆れるどころか引いている。顔の引きつりは、なにより婚約者本人が理解していないことへの衝撃を物語っていた。


 元来頭の弱い一番大隊の面子は、滲の想像のはるか上を行く知識の無さを誇っているようだった。


 そんな中、手を上げていなかった二十二歳の大路中隊長は滲の肩に手を置き高笑いを浮かべる。


「無駄だよ副隊長。何せ大隊長はつい最近まで、恋の病は病院に行けば治ると思っていたほどだからね!」

「え゛?」

「あ!それ言わないって約束したのに!しーっ!」


 思わず低い声を出した滲に、泉は取り繕うように咄嗟に口元に人差し指を立てる。


「ごめんごめん。あまりに彼が不憫でね」


 恋愛のことならお任せ、仕事のことなら(滲に)お任せの大路中隊長は星のきらめきの如く華やかに片目を瞑る。


 滲は呆れたように深くため息を吐いた。そして覚悟を決めたように目をカッと見開いた。


「いいですか?大隊長、結婚には婚姻届っていうのを出さなきゃいけなくてですね…」

「うん」


 滲は何も知らない泉に婚約から結婚までの過程を懇切丁寧に一から説明する。

 それを傍から聞いていた宇野中隊長は滲たちの会話に割って入った。


「え?じゃあまだ婚姻届ってやつ書いてないの?なんで?」

「そんなもの前もって用意しといてフラれたら嫌でしょう?」

「そこは慎重派なのかよ」


 滲の真剣な力説に榎本中隊長まで割って入る。滲の熱のこもった説明に、泉は「初めて知った」と能天気に頷いている。そしてようやく内容を理解すると、彼女は心底驚いていた。


「ふえ!私まだ結婚してなかったの!?」

「そうですよ泉さん、やっとわかりました?!」


 驚きと理解してもらえた興奮で気持ちがぐちゃぐちゃになっている滲は完全に素に戻っている。

 耳のいい隊員たちは彼が大隊長を「泉さん」と呼んだことを聞き逃さなかった。


「へえー、泉さんって呼んでんだ」

「謙虚だね~。まあ副隊長らしいっちゃらしいけど」


 榎本、宇野中隊長はニヤニヤと滲のことを見ている。

 その視線に滲は無言で睨みを利かした。


「ほう」


 大路中隊長は顎に手を当ててなぜか意味深に頷く。


「つまりまだ婚姻届は手元にないんだね?」

「そういうことです」

「ならばボクらも一緒に取りに行ってあげようじゃないか!」

「え!?」


 名案を思い付いたかのように人差し指を高らかに掲げる大路中隊長に滲ははた迷惑だと困惑する。


「やめてください。絶対来ないで…」

「いいじゃん!行こうぜ!」

「おれも賛成!」


 この謎の提案に榎本、宇野中隊長は爽快に手を上げた。

 この光景をなぜだか泉は楽しそうに見ている。


「いいなあ、皆に祝福されている気分だ!嬉しいぞ!」

「え!?嫌ですよ絶対来ないでください!」

「恥ずかしがることはないさ副隊長!」

「そうだぜ、腹くくれよ皮肉屋」

「なんなら今から行こうぜ!隊全員でさあ、きっと楽しいよ」

「ダメです!仕事が残っています。…第一、あなたたちは午前の仕事が終わったんですか?」


 滲の一言に、盛り上がっていた隊員たちがぴたりと動きを止める。

 逆転の糸口をつかんだ滲は勝利を確信した。


「おや?どうしたんです?まさか午前の分だけでなく昨日の分まで残っている、なんて言いませんよね?」


 冷や汗を流した三人の中隊長に、滲は白々しくも意地の悪い目を向ける。


 やっていない。何もやっているはずがない。滲が来るまで泉たちの結婚話に花を咲かせていた一番大隊の面々は仕事がほぼ手つかずの状態であった。


 滲は静まり返った隊員たちにニヤリと薄く笑いかけた。


「今回だけは許して差し上げます。わかったらさっさと席に着いてください。仕事を始めますよ」


 滲は隊員たち全てを統率するようにパンと両の手を鳴らすと、皆は一斉に自分の席へと戻った。特にとある三人の中隊長たちの着席は早かった。あの様子では相当ため込んでいるようだと滲はため息を吐く。


 さらにその奥では泉があわあわと席に着いている。どうやら泉も仕事を何一つやっていなかったらしい。一体何をやっているんだか。


 またため息をついて、滲は仕事を片付ける。


 全隊員の書類に驚くべき速度で目を通し、必要箇所にまるを描き即座に担当の者に手渡す。まるで機械のような手際と正確さに、傍から見ていた泉は頼もしさを覚えた。


 一つ一つ違う内容の書類をあの速さで捌くことの難しさは、地獄を見た一番大隊の面々がよく知っている。やはり彼はすごいやつなのだ。


 しかも名と判が押された書類は滲の下へ帰ってきて、彼が必要部署へ提出してくれる。まさに至れり尽くせりである。


 泉はそんな滲のすごさを噛み締めて、一人ほくそ笑むのだった。


 そんな時。


「失礼します」


 声がして泉が扉の方に振り返ると、そこには軍帽を深くかぶり、陰のような黒いマントで口元を隠した男が音もなく立っていた。


 見慣れないその姿に、滲以外の一番大隊の皆は一斉に隠し持っていた武器を構える。しかし泉ははっと不思議そうにマントの男に話しかけた。


「あれ、菊さん?どうしたんです?」


 泉が瞬時に片手で合図を出すと、皆はしぶしぶ武器を下ろした。しかし隊員たちは、マントの男への警戒までは解かない。そんな大隊の様子に、マントの男は怪しい見た目に似合わず、クスリと茶目っ気のある声で笑った。


「いやはや、綺麗に教育されているね。元気にしていたかい?有明君」

「うん!菊さんは?」

「私も変わりなく元気だよ!」


 大隊長と黒マントが意気投合している異様な光景に、隊員一同は声もなく驚いた。


「あの、どちら様でしょうか?」


 泉と知り合いらしい男に一人武器を構えなかった、というか皆の反応が早すぎて構えられなかった滲は泉をかばうように遠慮がちに疑いの目を向ける。しかし泉はその意図を全く理解せずニコニコとマントの男を指さす。


「この人はね~、菊さんだよ!」

「それはわかっています」

「あはは」


 二人のやり取りに、菊という男は笑い出す。

 泉は滲たちによく説明もせず菊に向き直った。


「それで?菊さんが来たってことは…」

「お察しの通り、あの方からのご命令さ。すぐにお会いしたいって」

「わかった!じゃあ皆、私用事ができたから、仕事よろしくね!」


 そう言うと、泉は黒いマントの男に連れ去られたかのように、駐屯地からいなくなった。

 突然の光景に、隊員たちは状況を理解できないかのようにあんぐりと口を開ける。それは、先ほどまで二人の目の前にいた滲も同じであった。

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