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薄明の空を君と見ながら。  作者: 佐野いさ
一章、一番大隊編
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初めての夫婦生活

 久しぶりの帰り道。

 任務を待つ方が性に合っていた泉は、長い間駐屯地で寝泊まりしていた。しかし結婚するとなると話は別だ。この帰路も一人が当たり前だったはずなのに、今は少し心もとないように感じる。こんな感覚は初めてだ。


 家に着くと、泉は埃っぽくなった床をせっせと掃除する。今までこんなことはしたことがなかったが、副隊長が来ると思うと、不思議と心が弾んだ。


 やがて夕日が沈みかけるころ、玄関の戸が叩かれた。


「井上です。ここを開けていただけませんか?」


 まるで告白されたときのようだと泉は思い緊張してしまう。そしてつい先刻前のことなのにまた顔が赤くなっていった。


「ど、どうぞ」


 まだ掃除も終わっていない、雑巾を持ったぐちょぐちょの手で戸を開ける。戸の外の副隊長は軍服から軽装に着替えていた。私も軽装に着替えればよかったかなと泉は思ったが、生憎その発想は数分前の泉にはなかった。


「おお、なんとも趣深い姿ですね」


 頭脳労働だけでなく、掃除まで苦手であった泉は、軍服を盛大に埃で汚している。副隊長はだいぶ遠回しに言葉を選んでくれたが、正直泉から見ても汚いと思った。


「一緒に掃除しましょうか」


 これで一歩も引かないとはなかなか肝が太い男だ。


 副隊長は自身の荷物であった風呂敷を置くと、履物を揃え座敷へ上がる。


 礼儀正しいな。私も見習わねばならないな。


 泉は副隊長に倣うように自身の放り投げた靴を、彼の靴の隣へそっと揃える。


「えらいですよ」


 泉の様子を見ていた副隊長は、「よくできました」とほほ笑んでくれた。それが嬉しくて泉は雑巾を持った手で、ぽっと赤くなった頬を抑えた。


「あ」


 しまったと思った時にはもう、雑巾は泉の頬を濡らしており、泉は軍服だけでなく顔までも埃塗れとなった。


「ふふふ」


 その様子を副隊長は笑っている。


「ここに風呂はありますか?あるなら沸かしてきますけど」


 すごいな。この男、風呂が沸かせるのか。


 泉は感心しながら副隊長を風呂まで案内すると、彼は手際よく風呂を沸かし始めた。

 道中、泉は埃がものすごく気になったが、副隊長は何も言わなかった。


 副隊長が風呂を沸かしている今の間に、掃除しておいた方がいいだろうか。


 泉は綺麗になるだろうと思い、水をたっぷりとしみこませた、絞っていない雑巾で床板を拭く。


「待ってください。正気ですか」

「え?」


 悪気なく床を水浸しにしている泉に、副隊長はぎょっとする。そして頭を抱えたようにため息をついた。


「もういいです。あなたは風呂に入っておいてください。掃除は私がやっておきますから」

「え?悪いよ。そんな気を遣わずに」

「それはこちらの台詞です。さあさあ、お風呂も沸きましたし早く入ってください」

「お、おう」


 副隊長に背中を押され、泉は着替えを持って風呂へと入れられる。


 来たばかりなのに、働き者なやつなんだなぁ。


 泉はまたも副隊長に感心しながら湯船につかる。


 透明に揺らぐ水面は泉の体を映し出す。

 あたたかい湯船から露出する腕には傷。湯の中で揺れる体にも傷、傷、傷。傷だらけだ。

 よくこれを娶る気になったなと思うほど大きな傷痕に、泉は我ながら顔をしかめてしまう。


 幼き頃から軍人として、傷は勲章と教えられてきた。それでも…。

 年頃の娘らしからぬ、魔族との戦いで治り開きを繰り返した凹凸まみれの体に、泉は隠すように湯をかけた。





 泉が風呂から出ると、そこには目を見張る光景が広がっていた。


 埃をかぶった床は、床板の茶褐色が鮮やかに見えるほど磨かれており、使ったことのない台所からは、なにやら美味しそうな匂いが漂ってきた。


 泉は濡れた髪で台所へ向かうと、そこには作った味噌汁を小皿で味見している副隊長がいた。


「おや、早かったですね。もっとゆっくりしていてもよかったのに」

「い、いや、それ…」

「これですか?あなたはどうせ料理できないでしょうと思って、勝手に作っておきましたよ。簡単なものですが」

「ほ、ほう」


 図星をつかれて泉はたじろいだ。

 包丁を持てば魔族を倒す武器だとしか思っていない泉だが、面と向かって言われると少々複雑な思いがする。そんな泉を、副隊長は意にも介さない。


 やがて味付けが整ったのか、副隊長は泉に「食べます?」と振り返った。


 泉は首を縦に振る。


 ここ数年、食事は外食のみの自炊をしない泉にとって、誰かの手料理は新鮮なものだった。六歳の時に母たちのもとを離れて以来である。


 泉がワクワクしながら小さなちゃぶ台の食卓へ着くと、副隊長が運んできたのは肉じゃがだった。泉にとっては全然簡単じゃない。


「いただきます」


 泉は副隊長が席に着いたのを確認すると、箸でじゃがいもを勢いよく突き刺した。


「!?」


 副隊長の顔が引きつっているとは露知らず、泉はバクバクと獣のように皿の料理を食らい始める。


「うまい!うまいぞ!」


 口いっぱいに物を含み、食べながら話す泉は目を輝かせている。そんな泉に、副隊長は咎める気にはなれなかった。


「すごいな副隊長!なんでこんなことができるんだ!」


 ハナヤマト帝國では三十年ほど前まで男尊女卑が行われていた。男は外で稼ぎ、女は家にいろ、といった具合だ。しかし魔族の力が強まり、各地で村々が襲われるにつれ、女たちは自らの力で戦えることを示した。


 以来、職場に女性がいるのは当たり前となったのだ。皮肉かな、魔族の台頭が男女平等を生んだのである。


 だが、そうは言っても泉たちの世代でここまで家事をこなす男は少ない。女が働き始めたというだけで、家の内情はそこまで変わっていない。


 泉は味噌汁をかき込みながら副隊長に問いかける。その問いに、副隊長の食事の手が一瞬止まった。


「どうってことありません。ただ一人で生きてきた期間が長いだけです」


 何でもないというような副隊長の笑みは、泉の目にはほんの少し悲しそうに映った。





 すっかり日も沈み切った夜。

 食器を洗い終え、風呂から出てきた副隊長の荷物は驚くほど少なかった。風呂敷の中には着替えと軍服、押し花のしおり、最低限の生活道具と仕事道具に打刀。


「これだけ?」

「はい。だから言ったでしょ。荷物は少ないって」


 副隊長はろうそくの明かりで何かの書面をかいている。


 そう言えばそんなことを言っていたような気がする。しかしこんな片手で持てるほどの量だとは思わなかった。よく生きていたなと泉は思う。


 泉が風呂敷の中身を無遠慮にのぞいていると、副隊長は書き終わったのか、書面を封筒の中へと入れた。


「それ何?」

「あなたのご両親への手紙です。結婚の話を承諾していただきましたとのご報告を」

「ほう」


 そういうことをするものなのか。


 泉はしきたりなどとは縁遠い生活を送ってきていたので、よくわからない。ただ副隊長の打刀を興味のままに頑張って持ち上げようとするだけだ。


 副隊長の打刀は、泉の持つ短刀よりも数倍重い。よくこれを魔族相手に戦場で振り回せるな。


 副隊長は机から立ち上がると、風呂敷から出してきた薄っぺらい麻布を敷き始めた。


「なにそれ?」

「布団です」

「え!?それ布団!?」


 隣に乱雑に敷いてある泉の布団と見比べると、布団というには明らかに厚さが足りていなかった。


「これ、ほぼ床じゃないのか?」

「そんなことありません。洗った分、布の上の方が綺麗です」


 そういう問題なのだろうか。


 だが、ただの布であることを認めた副隊長の基準は、あくまで綺麗か汚いかのみらしい。厚みのことはどうでもいいようだ。


 それでも副隊長の布団の薄さが気になる泉は、何度も布をつまんでひらひらと風になびかせて困惑している。


「そんなに言うなら」


 副隊長は泉の腰に手を回し、泉を布団へ押し倒す。


「そっちで寝かせてくれるんですか?」


 意地の悪さをたっぷりと含んだその笑みに、泉の顔は真っ赤にし、慌てふためいた。


「な、なるほど。男女のアレコレをしたいという訳だな。待ってろ、今心の準備を…!」


 偏った知識だけ持っている泉は、火照った顔を冷まそうと、副隊長を押しのけて体を起き上がらせ、雰囲気を台無しにするほど大げさに顔を仰ぐ。


 押しのけられた副隊長は冗談のつもりだったのか「そ、そこまでは…」と顔を赤くし、うろたえる。

 しかし仰ぐのに必死な泉は自分の心音以外何も聞こえていない。


 すると泉の寝巻の浴衣の裾が、はらりと腕から落ちた。

 ろうそくの明かりでもわかるほどの腕の傷が露わになる。


「!?」


 泉はそれを咄嗟に隠そうとした。先ほどまでとは一変、泉の顔は青くなる。


「どうしました?」


 異変を察した副隊長に、泉は目をそらした。そして重々しく、こう口を開く。


「ふ、副隊長、引き返すなら、今だぞ…」

「はい?」


 わけがわからないと目を丸くする副隊長に、泉は隠していた腕をまくりあげる。


「わ、私はこの通り傷だらけだ!年相応の娘のように、料理も掃除もできない!頭も悪いし器量も良くな

 い!今ならまだ間に合う!誰にも知られていない!だから…」


 その先の言葉を泉は詰まらせた。勢い余って涙が出そうだった。


「…引き返すなら今だと?」


 泉は副隊長の言葉にコクリと力なく頷く。

 すると副隊長は、あろうことか涙をためた泉に対し、声を上げて笑い出した。


「な、何がおかしい!私は真剣な話をだな!」

「はいはい。まさか帝國最強の大隊長殿がそんなことを思っているなんて、ねえ?」


 副隊長は泉をまるで小さい子を扱うように軽くあしらう。そして泉に体を寄せると、副隊長は涙をためた泉と、真正面から向き合った。


「いいですか?職場でも言いましたが、僕は大隊丸ごと連れてきて土下座したあなたに惹かれたんです。そりゃあ最初は、何だこの人と思いましたよ?」

「思ったのか!?」

「はい。けれどその後、僕が一番大隊への転属を承諾したときの、あなたのまぶしいほどの笑顔。大隊全員があなたについていくわけです。人を疑うことを知らず、強いのに誰よりも優しい。あなたといれば、きっと悪夢すら幸せな夢。僕はそんなあなたに価値観を変えてもらった。だから僕はあなた以外なんてあり得ないんですよ」


 自信を持って言い切った副隊長の言葉に、泉は鼻水をすする。


「あ、そういうところは直してもらいたいですけど」

「ふえ!?」

「冗談です。けれど、“副隊長”と呼ばれることは嫌ですね。直してほしいです」


 たしかに言われてみれば、夫婦になるのに役職呼びはおかしいか。

 泉は慣れない呼び名を恥ずかしそうに口にする。


「じゃ、じゃあ、滲?で…」

「はい。泉さん」


 泉は初めて囁かれた自分の呼び名に、目を大きく見開く。そしてなんとも嬉しそうに口元をはにかませた。

 その笑みに、滲は引き込まれる。そしてつられるようにはにかみ、泉に顔を寄せた。


「夫婦の契りの書面も交わしていない上で、こういう行為ってどうなの?とは思いますが、これくらいならいいでしょう?」


 そう言うと、副隊長は泉のたまったままの涙をぬぐうように、瞼にそっと口づけをした。


「ふわっ…!」

「ふふふ、可愛らしいですね」


 滲はふっとろうそくの灯を消す。


「今日はもう夜遅いです。明日も仕事ですし、体を冷やさないようにしてくださいね」

「う、うん」

「それでは、おやすみなさい」

「お、おやすみ…」


 結局、滲はあの薄布の上で寝てしまった。泉はぱちりと目を開ける。


 眠れない…。


 頭の中が今日あったことでいっぱいで、泉は秋の虫の演奏を最後まで聞き夜を明かすかに思われた。


 しかし山中の魔族戦闘の件と、名前と判子押しの業務の疲れもあってか、十六の若い体とは恐ろしく、泉は秋の虫の音を子守歌に、ころりと二時間で寝落ちした。

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