8
放課後の風紀室。
窓の外では吹奏楽部の音が遠くに響いている。けれど、この部屋だけは音が吸い込まれていくように静かだった。
冴島菜月は机の端に腰掛け、眼鏡の奥からこちらを見ている。
その瞳は琥珀色。冷たく澄んでいて、何かを見透かすようだった。
俺は椅子に座り、原稿用紙の前でペンを持ったまま、手を動かせずにいた。
「で。まだ書けないの?」
「……いやぁ、その」
「かれこれ一時間経ったけれど」
「時間たつの早いっすねー」
「ふざけてるの?」
ものすごい睨み付けように、思わず椅子を後退る。
「ら、らいたい見つめられたら書けなくなるんでしゅよ」
菜月はペンを机に置き、腕を組んだ。
彼女は、視線を落とし、原稿用紙の余白を見つめる。
書けない理由は、言えないでいた。
だが、ふと見せた優しい顔に自然と言葉を漏れてしまった。
「……家、帰りたくないんですよね」
「は?」
「いや、別に虐待とかじゃないです。普通の家です。たぶん」
「たぶん?」
「兄貴は新しい家族はつくるし……」
菜月は何も言わず、ただじっと見ていた。
俺は、言葉が止まらなくなっていた。
「家族って、なんなんですかね。血が繋がってるだけで、何も共有してない気がする。俺が何を考えてるかなんて、誰も興味ないし。俺も、誰に話していいかわかんなくて……」
「……それで、書けないの?」
「書こうとすると、全部嘘になる気がして。誰かに読まれるって思うと、余計に」
菜月は少しだけ目を細めた。
その表情は、いつもの冷たさとは違っていた。
「じゃあ、私に読ませなければいい」
「え?」
「誰にも見せないって決めて書けばいい。本当に言いたいことを、誰にも見せない前提で書く。それなら、嘘にならない」
目を見開いた。
菜月の言葉は、意外だった。
けれど、どこか救いのようにも感じた。
「……それ、風紀委員としてはアウトじゃないですか?」
「形式に意味はないよ」
初めて少しだけ笑った顔を見ると。少し肩の荷が軽くなった気がした。俺はペンを持ち直す。
原稿用紙の余白が、少しだけ柔らかく見えた。
──風紀室を出て、もういないだろうとルンルンと歩道を歩く。問い詰められても呼び出されたと言えばいいのだ。さて、家に帰ったらOVAの続きを見よう。
夜の街は静かで、路地裏は暗く湿っている。雨が降りそうだ。
暗闇の先が車のハイビームで照らされ、自然と目が追ってしまう。
そこには、髪を束ね、仁王立ちしている詩織義姉さん。
光が彼女の背後に落ち、顔は影に沈む。
詩織義姉は何も言わない。
ただ、そこにいる。
その瞬間、俺の肩から鞄が滑り落ちた。