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「ほら、時間ねぇしさ」
男の声が、急に低くなった。さっきまでの軽い調子が消える。
「離——」
南が言い切る前に、背後から腕を絡められた。首じゃない。胴だ。声を潰さない掴み方。
「暴れんなって?」
耳元で、囁くような声。その言葉とは裏腹に、力は容赦がなかった。
南は肘を打ち、足を踏み鳴らす。確かに手応えはあった。だが——数が違う。
「チッ、面倒くせぇな」
「ほら、こっち」
腕を引かれ、路地のさらに奥へ。人の気配は完全に消えた。祭りの音も、もう届かない。
視界の端に、路肩に停められた黒いワンボックスが映る。
(車)
瞬間、背筋が凍った。
「やだ、離して!」
声を上げた。今度は、ちゃんと。
だが、その声は路地に吸われただけだった。
男の一人が、南の口元を塞ぐ。
「静かにしろって」
「平気平気。場所変えるだけだからさ」
——その言葉で、確信する。
これは、偶然じゃない。スライドドアが、低い音を立てて開いた。 中は暗く、外のネオンが一瞬だけ反射する。南は必死に足を踏ん張った。地面を蹴る。壁に爪を立てる。
「っ! しつけぇな!」
強く引かれ、身体が浮く。背中が、車内の床に当たった。
ドアが——、ガラッ。
無機質な音とともに、閉まった。一瞬の暗闇。外の喧騒は、完全に遮断される。
車が動き出す振動が、床から伝わってきた。南は息を荒くしながら、震える指を握りしめる。ポケットの中には、電源を切ったままの携帯。助けを呼ぶ手段は、ない。
(まだ)
目を閉じ、呼吸を数える。泣かない。取り乱さない。終わってない。
車内で、誰かが舌打ちした。
「渋谷で拾うとか誰かに見られたらどうすんだ?」
「案外周りを見てねぇもんだよ。それに、モノは悪くないだろ」
笑い声が、暗闇に滲む。
南は、ゆっくりと目を開いた。




