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渋谷駅前は、ちょっとした祭りみたいだった。
キッチンカーが横一列に並び、油の弾く音と甘い匂いが混ざり合う。呼び込みの声、笑い声、シャッター音。人の熱が、夜の空気を押し上げていた。紙皿を手にした家族連れが、はしゃぐ子どもをなだめている。
私は、少しだけ足を止めた。
(いいな)
胸の奥が、静かに疼く。姉と父に挟まれて手を繋いで歩く私。母が「一口だけよ」と笑って差し出してきた焼きそば。あの頃は、輪の中にいた。けれどいつからか、一人が当たり前で。気楽で。
視線が落ちる。
人の輪から逃げたしたくなる。賑わいが煩わしい。路地裏へと歩みを進める。
「っ!」
肩が、ぶつかった。
「あ、すみません」
反射的に頭を下げ、そのまま通り過ぎようとする。渋谷では、立ち止まらないのが礼儀みたいなものだ。
——なのに。
ぐい、と。肩を掴まれた。
「ちょい待ち」
やけに馴れ馴れしい声。力は強くないのに、逃がす気がない掴み方。
「人にぶつかって来ておいてそれないやろ?」
振り返ると、キャップの男がにやついていた。
目線が、顔じゃない。首元から下を一瞬、なぞるように滑る。
「謝り方ってさぁ、もっとあるんちゃう?」
後ろで、くぐもった笑い声。もう一人、さらにもう一人。距離を詰めてくる気配。
「こわいこわい。おまえら飲み過ぎだって」
「あれ? よく見たらめっちゃかわいいじゃん」
男の親指が、肩口で意味もなく動いた。
南の喉が、きゅっと鳴る。祭りの音は、もう聞こえない。ここには、軽い冗談みたいな声と、湿った視線だけがある。
「離してください」
そう言った瞬間、男が吹き出した。
「泣いちゃう?」
「ほんと最近の子って礼儀知らずっていうかさ」
——ぞわり。背中を冷たいものが伝う。これは偶然じゃない。笑い方で、分かる。
南の肩に食い込む指が、じわりと力を増した。
「大丈夫大丈夫」
「すぐ終わるからさ」
路地の奥で、ネオンが瞬いた。




