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廊下の蛍光灯が、少しだけ揺れていた。トイレの鏡に映る自分の顔を見つめる。頬が少し赤い。冷たい水をすくって、流す。目を閉じた瞬間、足音が聞こえた。
——トン、トン。規則正しい革靴の音。
耳が勝手に反応した。この響き、覚えてる。
和希の歩き方。しつこいな。
息を殺して、個室のドアの上から覗く。
廊下を、黒いスーツの男がゆっくり通り過ぎていった。スマホで何かを確認している。たぶん、GPSの信号。
(これ……いつのまに)
ポケットの中の携帯を取り出し、電源を切る。
大丈夫。私なら。鏡に映る自分へ、小さく呟いた。
こういう時は、焦っちゃだめ。昔から得意なんだ、かくれんぼ。
鬼の視線を避けるコツは三つ。まず、溶け込む。
次に、動かない時間を作る。最後に、音を立てない。
それだけだ。制服の上に、掃除用のジャンパーを羽織り、髪をまとめる。モップとバケツを手にして、職員通路を歩く。誰も、清掃員の顔なんて見ない。
裏口に出ると、ちょうど搬入口のトラックが荷下ろしをしていた。段ボールの影に滑り込み、深呼吸。
携帯の代わりに、胸ポケットのメモを握る。
逃げる場所は決めてある。
書いてあるのは、たった一言。
それでも、心の奥に灯りがともる。
(駅……じゃない。あそこしかない)
トラックの陰を抜け、雨の匂いが残る風を切って走る。靴音がアスファルトを打つたびに、胸が締めつけられる。
これでいい。関係ない。遠くで車のエンジン音が響く。誰かが、名前を呼ぶ声も聞こえた気がした。
私ってガキなんだなってつくづく思う。
でも、振り返らない。




