22
春の嵐が残した夜の匂いは、どこかよく知った記憶の端っこを掻きむしる。濡れたアスファルトから立ち上る蒸気、散った桜の花びらの甘さと泥の渋さが混ざった匂い。胸の奥をつんざくほど生々しい。
屋上の手すりに寄りかかり、私は自分の濡れた影をじっと見た。制服の裾は泥に濡れ、髪は雨に重い。指先はまだ冷たい。
帰る場所は――もう、ない。丁寧に飾られたリビングの写真、苗字の入れ替え、届くようになった祝電や招待状。どれも私の声で笑ってはいない。
母さんは笑っていた。新しい人と並んで。楽しそうに、私の知らない話をしていた。それを見たとき、家はいつの間にか他人の輪になっていた。私はその輪に入る方向がわからなかった。入り方を忘れたのでも、拒まれたのでもない――ただ、居心地が違ったのだ。
「……ねぇ」
小さな声で自問を置く。問いは誰にも届かない。屋上の風がひゅうと吹いて、紙切れのように言葉を攫った。
私はまだ、子どもだ。だけど子どもだからって、感じる痛みまで子ども扱いにはできない。夜中に食卓の端で食べたパンの味、母さんのため息、父の笑い声の欠けた瞬間――それらは全部、私の体の内側に沈んでいる。
「——さん」
呼び出してしまった。名前を呼べることが、どれほど安心で、どれほど怖いことか、誰にも教えてもらえなかった。その一言は、守りを乞うための呪文でもあった。ほんの一回でいい。私を見て、名前で呼んでほしい。存在を確認してほしい。
でも、振り向いてくれる人がいるかどうかはわからない。それでも、声を出してしまう。声が震えるのも構わない。
「どうして、置いていったの?」
問いは責めではなく、ただ確かめたかっただけだ。あの日、本当に私たちは家族だったかを。
夜空の切れ間に一瞬、星が光る。雨粒がひとつ頬を伝い、それが涙か雨か区別がつかないまま、私は目を細めた。名前で、呼んでほしい。もう一度だけでいい。
そう呟くと、言葉は風に溶けていった。
私の姿は――ここにいるはずなのに、ふっと薄くなる。残るのは、手すりに張り付いた小さな桜の花びらだけ。




