16
湿った空気がまとわりつく。懐中電灯の光の輪が、崩れかけた廊下を舐めるように進んでいく。
床板がギシリと鳴るたびに、未来が小さく身をすくませる。そのすぐ後ろを、拓人が妙にテンション高く「いいねいいねぇ……」と呟きながらついてくる。
そして、ぽつんと立つ廃屋にたどり着いた。黒ずんだ壁にツタが絡みつき、窓はほとんど砕けている。
「……本当に入るの?」
未来が足を止め、嫌そうに眉をひそめる。
「当たり前だろ。妹の痕跡を追ってきたんだ」
俺はきっぱりと言った。胸を張って。
「愛だ!」
拓人が横から彼女の肩を叩く。カメラを片手に。
「まぁまぁ未来ちゃん。芸術的なレベルのキモさだし、貴重な観測対象だよ」
「盗撮のまちがいじゃないの? 触らないでください」
「コンマミリセンチは離してるよ?」
三人の言い合いは止まらない。だが和希は振り返らず、ギィと扉を押し開けた。
内部は暗く、湿った匂いが漂う。床板がみしりと軋み、窓の隙間から差し込む月光が埃を照らした。
「……出たな」
廊下の奥で、影が走り抜けた。
「わがきみぃぃぃ!」
俺は叫ぶなり全力で駆けだす。
「待てバカ! 勝手に行くな!」
未来が追い、拓人も慌てて走り出した。薄暗い廊下を全力疾走。コーナーを曲がった瞬間、ぐしゃっと何かを踏みつけ、派手に転倒した。だが和希はすぐに起き上がり、また走る。天井から垂れ下がったクモの巣に顔を突っ込み、蜘蛛まみれになっても気にしない。
「障害があればあるほど、燃えてくるな……」
「頭打ったの?」
「未来……俺は正気だ」
「なおさら異常だね」
追いかけっこは続く。階段を駆け下り、和希はバランスを崩して滑り落ちた。
「これが、試練か!」
転げ落ちた先には大きな鏡が立てかけられていた。
和希は鏡に映った自分を見て、息を呑む。
「あぁ……妹が見てる……!」
「それあんたの顔! 正気にもどって!」
未来が全力で突っ込み、拓人が腹を抱えて笑う。だが笑いの直後、背筋が凍るような冷気が流れ込んできた。三人が一斉に振り返ると、廊下の奥に小さな影が立っていた。乱れた髪。少女がこちらを見つめている。
「いた」
未来が小声でつぶやいた。和希の胸が高鳴る。だが声をかけようとした瞬間、少女は踵を返して駆けだした。
「追いかけっこかーい!」
また全力で追う。断じて、ストーカーに成り下がってはいない。
やがて、屋敷の一番奥──崩れかけた応接間に少女は座り込んでいた。彼女は怯えた目で三人を見つめる。
「ここ……私の家なの」
震える声でそう告げた。もはや、家じゃない。築何年だ? ボロボロな家だ。
「でも、お父さんとお母さん、ずっと喧嘩ばかりで……家に居場所なくて。だから、ここに逃げてきてただけ」
空気が静まる。和希も、未来も、拓人も言葉を失った。ようやく未来が口を開く。
「……じゃあ、幽霊とかじゃなくて」
「ただの、近所の子……?」
拓人が苦笑する。だが和希だけは、少女をじっと見つめ、真顔で言った。
「帰りたくないのか……」
俺は言葉を探す。少女は窓辺に立ち、夜の森を見やった。
「ごはんも、各自勝手に食べて、部屋に籠もって。家族って、なに?」
虚ろな声。
俺の胸に何かが突き刺さる。
未来が一歩踏み出しかけたが、俺が手で制した。
「……さっき、俺のことお兄ちゃんって呼んだよな」
「呼んでない」
「呼んだ!」
「……呼んだかも」
少女はわずかに視線を逸らす。
その仕草が、無性に守りたくなる。
俺は堪えきれず、微笑んでしまった。
「いいぞ。もっと、お兄ちゃんと呼べ」
未来の冷たい視線。
「これは保護者的立場を確立して、信頼関係を築くためのプロセスだ!」
「ニヤけながら言わない」
拓人は腹を抱えて笑っている。
だが、少女の表情は少しだけ和らいでいた。
「……変なの」
「いいんだよ。変なお兄ちゃんでも」
その時、腰の通信機が鳴った。『和希、状況報告を』美羽義姉の声だ。
「俺に妹ができたよ」
『は?』
俺は確信した。この子を、もう一人にはさせない。
たとえ血がつながっていなくても——。