悪役令嬢に転生しましたが、ざまぁ代行サービスで破滅エンドを回避します。
「うう……嫌だ。断罪されたくない……」
わたしこと悪役令嬢クラリス・アルセリオは、頭を抱えてソファにダイブした。
しがない三十路会社員が突然死し、生前夢中になっていた乙女ゲーム『プリンセス・ロワイヤル(略してプリロワ)』の世界に転生して、早三年。転生先の姿は勿論ゲームのヒロイン……ではなく、ヒロインを陥れる悪役令嬢クラリス・アルセリオだった。
ゲームの舞台は王都にある学院。貴族も平民も身分関係なく勉学に励むその学院で、平民のヒロイン(プレイヤー)は生徒会に属し、王子や貴族をはじめとする魅力的な男性キャラクターと恋をする。
そのヒロインの邪魔をするのが、第三王子レオナルドの婚約者、公爵令嬢のクラリスだ。
クラリスはヒロインの愛嬌と才気に嫉妬し、陰湿ないじめを繰り返す。周囲に働きかけヒロインを孤立させ、根も葉も無い悪い噂を流布し、彼女が大切にしていたものを盗み、挙句の果てには階段から突き落とそうとする。どうしようもない悪役令嬢だ。
彼女は――ゲーム終盤の“卒業パーティー”で、公衆の面前で鮮やかに断罪され、王子からは婚約破棄を告げられる。それがこのゲームの見せ場イベント『悪役令嬢の断罪、真実の愛』だ。
その後、社交界に居場所のなくなった彼女は、悲惨な人生を予期させる数行のテキストを最後に、ゲームから退場する。
そんな、プレイヤーの立場からすると全く良い印象のない悪役令嬢が、ある朝、鏡に映っていた。……あの時の衝撃といったらない。まさか、ライトノベルや漫画でありがちな“乙女ゲーム転生”が自分の身に起こるなんて、思ってもみなかった。
わたしの自我と記憶が覚醒したのは、学院に入学する一週間前。ちょうどゲーム本編の開始時期である。クラリスとしての経験と知識。生前に得たゲームの情報。双方を持ち合わせたわたしは、それらをフル活用して破滅エンド回避を目指す! ……べきだったのだろう。
が、そんな気力はなかった。
わたしは元々、仕事以外は家に引きこもっていたような怠惰な性分だったし、何より最初の一年は、自分の死と“作られた世界で生きていく”ことに向き合えず、それどころではなかったのだ。
ようやく立ち直りかけた頃には、既にストーリーが進んでいた。
クラリスがその場に居なくとも、彼女の威を借りた取り巻き達が、勝手にヒロインに嫌がらせをする。レオナルドだけでなく、女子に人気のある男子(イケメン揃いの攻略キャラクター達)と親しいヒロインが、彼女達は疎ましいのだ。
わたしは何もしていないのに、どんどん悪役になっていく。弁解しようとしても全てが裏目に出る。ゲームシナリオの強制力をわたしは甘く見ていた。
そんなこんなでクラリスとヒロインの溝は深まり、元々政略的な婚約で愛など無かったレオナルドも、クラリスを嫌うようになった。
このままいけば……
半年後の卒業パーティーで、ジ・エンド!
「あああ……嫌だあ~」
週末、殺伐とした学院から逃げるように近くの実家に戻り、フカフカのソファに顔を埋めているわたし。
ずっとここに居て、卒業パーティーもボイコットしてみようか? なんて思うけど、他の形で断罪されるか、イベントに強制参加させられるかだろう。……ハァ。
「おやおや」
フワリ、と後頭部を撫でるのは、柔らかな男の声。
「お嬢様、お鼻が潰れてしまいますよ。……ああ、ほら、もうこんなに」
「失礼な奴だな。っていうか“クラリスは”目鼻立ちハッキリした美少女じゃん」
「ははは」
背中に定規でも入っているみたいに、ピンと伸びた姿勢。皺一つない燕尾服を着こなし、柔和な笑みで棘を放つ執事、ジルベルト・ヴァンティア。
涼やかな銀色の髪とアイスブルーの瞳が印象的な、作りこまれたビジュアルのキャラクターだ。しかし彼はこのゲームの攻略対象ではない。
プリロワのガチヲタで、全てのグッズ、資料集をコンプリートしていたわたしは知っている。彼は開発途中で消えた没キャラクターの一人なのだ。
長年クラリスに仕える忠実な執事。今年十八歳になるクラリスより十も年上の二十八歳。……すごく大人に見えるけど、前世のわたしより年下だから複雑。
開発初期段階で、彼は隠し攻略キャラクターとして予定されていたけど、何らかの理由で没となったらしい。わたしとしては、見た目が一番好みだったからとても残念だった。
しかしこの世界では、ちゃんと存在している。こんな性格だったとは思わなかったけど。
「それで、何がそんなにお嫌なのですか?」
少しだけ屈み、そっと問いかけてくるジルベルト。彼の無礼さは、わたし達の間のお遊びのようなもので、本当の彼はとても真面目で優しい性格だ。
「わたし、半年後の卒業パーティーで、レオナルド殿下に婚約破棄されるんだよね。それで破滅エンドまっしぐら、ってワケ」
「……そうなのですか」
ジルベルトは、わたしの突拍子もない発言に驚きはしない。これが初めてでは無いからだ。
転生当初、自暴自棄になっていたわたしは、自分の発言がゲームに与える影響など考えもせず、身近なジルベルトにアレやコレやと未来の話をしてしまった。(流石に、ここがゲームの世界だという話はしていない)
ジルベルトはそれがほぼ的中したことで、わたしには未来予知能力があると思い込んでいる。『悪用されないよう、他の者に話してはいけませんよ』という彼の忠告で、それは二人だけの秘密となった。
「他ならぬお嬢様が仰るのなら、そうなのでしょうね」
「そうなの。ああ、どうしよう……このままだとわたし、無実の罪で社交界を追放されて、親にも見放されて、路頭を彷徨うことになっちゃう。わたしはただ、平穏に過ごせればそれでいいのに」
「……お嬢様。世の中は、お金さえあれば何でも解決できるものですよ」
「え?」
突然何を言い出すのか。
冗談かと思ったけど、彼の瞳は真剣な色を帯びている。
「お嬢様は“破滅回避代行サービス”をご存知ですか?」
「ハメツ、ダイコウ? ……なにそれ」
元の世界では“退職代行サービス”が流行っていたけど……破滅回避代行とは?
「複雑な貴族社会には、常に面倒ごとが山積みですよね。たった一つのきっかけで……それこそ破滅に追いやられてしまうことも、少なくありません」
「う、うん」
「そこで生まれたのが“破滅回避代行サービス”です。依頼者の破滅を回避する専門家。きっと、真の悪党を暴き出し、お嬢様の円満な婚約破棄も実現してくれるでしょう」
「本気で言ってる?」
「勿論です。お嬢様が望まれるなら、すぐにでも業者を手配しますよ」
なんだか、一気にゲームの世界観が崩れた気がする。そんなサービス、公式情報には無かった筈だけど……。
「まあ、他ならぬジルベルトが言うなら。……お願いできる?」
「かしこまりました。お任せください」
「……本当に大丈夫なの?」
「ご心配なく。お嬢様がぬくぬくゴロゴロ、お菓子でも召し上がっていらっしゃる内に、ハッピーエンドの準備を整えさせますからね。さあ、おやつのお替わりをどうぞ」
「……わあ~い」
心配するなと言われても無理だ。でも、目の前に置かれた美味しそうなクッキーやスコーンを見ていると、そういうのは後ででもいいか、と思ってしまう。
「……あ。ところで“婚約破棄”の回避はできるの?」
「できませんしたいんですか」
「え……いや、別に」
即座に早口で否定され、少しだけ傷付く。紅茶を注ぐその横顔は、いまいち何を考えているのかよく分からない。呆れているのだろうか?
まあ、見るからにヒロインにぞっこんの王子が、いまさら悪役令嬢に振り向く可能性なんて無いだろう。愚問だということだ。
「結構、好きだったんだけどな~。レオナルド殿下」
プレイヤーとしては。
びちゃ。と、ジルベルトは彼らしくもなく紅茶を溢れさせた。
「大丈夫?」
「……ご心配なく。その、お嬢様は殿下の事を、」
「え? ああ、違う違う。顔は好きだけど、別に恋愛感情はないよ。わたしは、そういうのはフィクションで充分だから。……あ、恋愛小説とかね」
「……そうですか」
「そんなことより、ジルベルトも一緒にお茶にしよ。ほらここ座って」
「……はい」
少し元気のないジルベルトのために、わたしは彼の紅茶を最高に甘くしてあげた。ストレート派の彼は、苦い顔でそれを飲み干した。
*
「お初にお目にかかりま~す。この度はご依頼、誠に有難うございま~す」
「あなたが、代行サービスの?」
「は~い。ワタクシのことは“代行さん”とでもお呼びくださいな~」
ジルベルトから代行サービスの話を聞いた、その翌週。いつも通りアルセリオ邸で怠惰な休日を過ごしていたわたしの元に、来客があった。
その男は、よく門番が通したなと思う程に――怪しい。怪し過ぎる。顔全体を覆う仮面、深く被ったシルクハット。だらしのない猫背。皺だらけの服。間延びした口調。
詐欺師じゃないよね? と隣を見ても、そこにジルベルトは居ない。他の仕事を任せられているらしい。代わりの使用人が少し離れたところから、もの言いたげな目でこちらを見ている。(やっぱ怪しいよね、うんうん)
「そんなに警戒しないでくださいよ~。職業柄、姿を隠しておいた方が動きやすいってだけですから~」
「はあ……。逆に目立ちそうですけど」
「さあてさて、本題に入りましょ~か。お話は執事さんから窺ってますよ~。中々、大変な状況らしいですね~」
「まあ……。どうにかなりそうですか?」
「ああ、それは勿論! ご心配なく! ワタクシはプロですから、マルっとお任せくださ~い」
……なんか、不審過ぎて面白くなってきた。
プリロワに登場しない、ゲームの世界観にも合わない、クセの強いキャラクター。彼の存在は、規定路線をぶち壊してくれるかもしれない。
「具体的には、どういうことをしてくれるんですか?」
「そうですねえ~。ズバリ、目指すは“逆転ざまぁエンド”です!」
「……ああ。本当の悪役を暴いて断罪。わたしを陥れようとした人達をギャフンと言わせて、しっかり幸せも掴むという、巷で噂の?」
「お話が早くて助かります~」
仮面の下からフフと、意外と品の良い笑い声が聞こえてきた。
……そんなこと、本当に出来るだろうか? わたしの無実を証明した上で、真犯人を暴き出すなんて。
それに、それでハッピーエンドになるかも分からない。結局ヒロインを虐めていた悪役は断罪される訳だし、わたしの疑いが晴れても、真の愛に目覚めたレオナルドの心は変わらない。婚約破棄の大義名分を失って、闇堕ちした王子に恨まれたりしたらどうしよう。
「まずは証拠探しと情報収集から、ですかね~。ばっちりクラリス様の無罪の証拠を掴んできますよ~」
「あなた一人で? わたしも何かした方がいいですか?」
「いえいえいえ。クラリス様は何も気にせずゴロゴ……の~んびり待っていてくださいね~」
うーん……初対面なのに、わたしの怠惰な性格が見抜かれている気がする。気の所為かな? さっきまで寝ていたとはいえ、寝癖は付いていないと思うけど。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ~。また、進捗の報告に参りますね~」
代行さんはのそっとソファから立ち上がり、仰々しく一礼すると、ポケットに手を突っ込んで不良みたいな歩き方で部屋から出て行った。
不審極まりない人物だったけど、何故か嫌な感じはしない。不思議と信じてみたくなる人だった。
――その日の夕方。
戻ってきたジルベルトは、どこかソワソワと「いかがでしたか? 代行人は」と尋ねてくる。
「すっっっごく怪しかった。なんか怪しい仮面被ってたし、喋り方も独特だったし」
「ふふ、私もそう思いましたよ」
「だよね。でも、なんか……自分でもよく分からないんだけど、あの人ならどうにかしてくれそうな気がした」
「……そうですか」
「うん。あ、あと少しジルベルトに似てたかも」
「ど、どこがですか!?」
どこが、と言われると難しい。
きっちりしたジルベルトと、ゆるい代行さんは、真逆のタイプだからだ。
「うーん。二人ともわたしのことを、パンダ扱いするところかな」
「パ、パンダ……とは?」
あ、この世界にパンダは居ないのか。
「体現してあげる」
と言って、私はまたぬくぬくゴロゴロ、の~んびりし始めた。
*
――わたしの三十数年は、自分なりに、楽しく幸せな人生だった。
仕事で何を成し遂げなくても、特別仲の良い親友が居なくても、素敵な恋人が居なくても。1Kのお城、大好きなお菓子、甘いチューハイ。週末は朝までゲームをして、翌日は夕方まで眠り続ける。寂しい人だと思われるかもしれないけど、わたしはそんな生活が好きだった。
『彼氏が欲しいって思わないの?』
そう訊かれる度、要らないと答えた。
恋に対する憧れはある。でも、それを面倒が上回っている。
学生時代も、社会に出てからも、恋愛に関するトラブルは何度も目にしてきた。一番身近なところでは、三度の離婚を経て毎回深く傷付きながらも、四度目の結婚を予定している母が居る。世間で言う恋愛体質の母は、時々見ていられなかった。
恋とは傷だらけになり、恥を晒すもの。わたしは、そこまでして恋をしたいとは思えなかった。
そんなわたしに、都合よく恋愛の綺麗な部分だけを追体験させてくれたのが、乙女ゲーム――つまり恋愛シュミレーションゲームだ。
わたしだけを見てくれる誠実なイケメン達。甘い台詞やロマンティックな展開を思う存分に楽しんで、疲れたら終了ボタンを押せばいい。手軽なロマンスはわたしを虜にした。恋愛はゲームだけで充分だった。
だから……ゲームをしながらの最期というのは、理想的だったのかもしれない。
それは、いつも通りの土曜の明け方。パソコンの画面では、何周目か覚えていないプリロワの終盤イベント――『悪役令嬢の断罪、真実の愛』。
レオナルドがクラリスの悪事を暴き、ヒロイン(つまりわたし)に婚約を申し込むシーンだ。何度見てもスカッとするし、レオナルドの顔が最高に良い。
激昂し暴れるクラリスが、パーティー会場から連行されていく……その時、だった。
突然、胸に激しい痛みが走った。心臓を手で鷲掴みにされているみたいな、生まれて初めて感じる痛みだった。
苦しい。息が出来ない。口を大きく開けても、酸素が全然入ってこない。頭に、死の一文字がよぎる。救急車を呼ぼうと、ベッドの上に置いていたスマホを取りに行こうとして、わたしは椅子から転げ落ちた。
カーペットの上で、わたしは苦しみ悶える。視界が外側から、ジワジワと暗くなっていく。心臓が耳に移動したみたいに、ドクドクとうるさい。鼓動音に混ざるのは、聞き慣れたBGM。オートの台詞送りは、レオナルドの甘い告白を流している。
(嫌だ、死にたくない。誰か助けて)
『――助けてください、誰か。この地獄を終わらせて』
遠のく意識の中、聞こえてきたのは、知らない声と台詞。
次の瞬間、何もかもが静かになった。
――そして、わたしはクラリス・アルセリオとなった。
クラリスとして十六年間生きて来た後で、突然前世の記憶が蘇ったのか。それとも死の直後、いきなりクラリスの体に憑依したのか。それは定かではない。
とにかく、わたしは混乱した。絶望した。
自分の人生が終わってしまったこと。そして、作りモノのゲームキャラクターになってしまったこと。自分の身に起きたことを、どう受け止めていいか分からなかった。
心が付いて行かず、入学から三ヶ月は不登校気味で、平日も休日も構わず寮から実家に帰って引きこもっていた。
クラリスの父親は早くに妻を亡くして以来、娘とどう関わっていいか分からず放任主義。使用人達は我儘でヒステリックなクラリスを恐れ、必要以上に踏み込もうとしない。婚約者のレオナルドも、クラリスを愛しているわけではないから、心配などしない。誰もクラリスと向き合おうとはしなかった。
ただ一人を除いては。
『お嬢様、本日は雲ひとつない清々しい晴天でございます。よろしければ、お庭でティータイムなどいかがでしょう?』
『……いい。寝てる』
『では、ハンモックを出しましょう。外でのお昼寝も心地よいものですよ』
ジルベルト・ヴァンティア。ゲーム本編には出てこなかった没キャラクターの彼は、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
どうせその優しさも、ゲームの設定通りなんでしょう? と最初は捻くれていたけど、拒み続けてもずっと傍に居てくれる彼を、いつからか信じられるようになっていた。
わたしはジルベルトと過ごす穏やかな時間の中で、少しずつ心を回復していった。
ジルベルトも他の人も、キャラクターではなく生きている人間。ここは現実、わたしの第二の人生の舞台。
だからこれからは、悪役令嬢クラリスとしてではなく、わたしらしく生きていこう――そう思った。
でも、この世界はそれを許さなかった。
何をどうしても、全てが裏目に出る。何もしなくても、悪役としての名前が一人歩きする。物語は着実に、ヒロインのメインストーリーを進行していくのだった。
*
卒業パーティーまであと一月となった、ある日の昼休み。
わたしは、廊下でヒロイン――“アイリス”に呼び止められた。ヒロインの名前はプレイヤーが自由に変更することができ、変更しない場合のデフォルト名がアイリスだ。彼女の裏にプレイヤーが居るのか、この世界にプレイヤーは存在しないのかは、分からない。
「お願いします、クラリス様……あれは、あたしがレオナルド殿下から頂いた、大切な宝物なんです。どうかお返しください!」
(……やっぱり、この展開か)
レオナルドがアイリスに贈った、彼の母の形見、エメラルドのブローチ。クラリスとの婚約を破棄する意志を固めたレオナルドが、もう少しだけ待っていて欲しいと、その想いを込めて渡した愛の証。
ゲーム本編では、嫉妬に狂ったクラリスが盗んでいたけど、勿論わたしは目にしてもいない。
「わたしは知りません」
「そんな……お願い……お願いします!」
「ですから、知らないって言っているでしょう」
出来るだけ穏やかな対応を心掛けたのだが、それが逆にわざとらしく聞こえるのか、観衆はドン引きした顔でこちらを見ている。だから、違うってば。
……ざわり、とその場の空気が揺れる。生徒達の間から、一際目立つ青年が登場した。わたしの頭の中には彼のテーマ曲が流れる。
このゲームのメイン攻略キャラクター、第三王子レオナルドだ。
「アイリス、何かあったのか?」
「あっ、あの……あたし……」
縋るように、レオナルドの服の裾を掴むアイリス。レオナルドは気難し気な顔をして(わたしは知っている。それはヒロインにキュンとしている時の顔だ)、アイリスの肩をそっと抱いた。そしてわたしの方をキッと睨みつける。
「……アイリス、行こう」
彼はわたしに何も言わず、アイリスを連れてその場を去っていった。
婚約者に挨拶もせず、目の前で他の女生徒の肩を抱く王子……改めて考えると中々にヤバイ奴。でも、そんな風に真っ直ぐ自分だけを愛してくれるイケメンが、女の子は好きなんだよね。
ウンウン、と勝手に頷いていると、視界の端に妙なものが映り、わたしはギョッとする。――怪しい仮面。代行さんが中庭の木陰に隠れて手招きしていた。わたしは周囲に悟られないよう、遠回りしてその場所に向かう。
「クラリス様、こんにちは~」
「代行さん、またそんな格好で学院に……」
「ご心配なく~。意外とバレないもんですよ~」
代行さんは得意げに、両手をパッと広げておどけてみせた。シルクハットと仮面にその動作が合わさると、まるでマジシャンだ。わたしは目立つ彼を茂みに押し込み、自分もその隣でしゃがんで小さくなる。
「おやおや~大胆、ですね~」
「……もう。用件は、いつもの進捗報告ですよね?」
「つれないですね~」
代行さんと出会ってから五ヶ月。彼は定期的に進捗を報告してくれる。ジルベルトを通すこともあったけど、こうして直接来てくれることも少なくはない。
彼はどういう手を使ったのか(訊いても企業秘密だとはぐらかされるばかり)、アイリスを虐めている女生徒の情報や証拠を、既にいくつか押さえている。今日の報告でも、順調に進んでいることを教えてくれた。
「そういえば先程、アイリス様に絡まれていましたね~」
「はい……レオナルド殿下が彼女に贈ったブローチが、なくなってしまったらしくて。わたしが盗んだって思われているんです」
「そうですか……大変でしたね~」
よしよし、と頭でも撫でてきそうな声色。
代行さんは、いつもわたしの言う事を信じてくれる。依頼人の言う事は絶対だからか。それとも。
「いよいよ、一月後ですね~」
「そうですね……」
「そんな、不安そうな顔をならさないでくださいよ~。ワタクシの手にかかれば、どんなにハードな状況も、まるでゲームのようにクリアできますからね~。クラリス様は何もご心配なく~」
「ふふ、ありがとうございます」
代行さんのチャラさが、わたしの心を軽くしてくれる。
それでも不安は拭いきれない。最近は夜に何度も、嫌な夢で目が覚めてしまっていた。
夢のわたしは卒業パーティーで一人きり。代行さんは約束通りに現れず、ジルベルトも居なくて。身に覚えのない糾弾に無罪を訴えようと開いた口は――悪役令嬢の台詞を語る。変えられない、運命。
――昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
「あ、わたし戻りますね。じゃあまた……っ、」
突然立ち上がったせいか、立ち眩みがした。うん、多分寝不足の所為。バランスを崩し尻餅をつきそうになるが、いつまで経っても衝撃はこない。
わたしは、代行さんの腕の中にすっぽりと収まっていた。恥ずかしい。揶揄われるだろうと見上げたその仮面は、無言だ。
「……助かりました。ありがとうございます」
「え、ええ。ああ、はい」
「……あの、代行さん」
「な、んですか?」
「手を……その、離していただけると」
「あ!」
わたしの腕を掴んでいたその手が、パッと離される。背中に感じていた温もりが遠ざかった。
顔が妙に熱い。脇の下が汗ばむ。
……なんなんだ、この乙女ゲームみたいなイベントは!
*
遂に、卒業パーティーの日がやって来てしまった。
ヒロインの攻略対象キャラクターによって展開は異なるが、今回のようにレオナルド王子が対象の場合は、こうだ。
婚約者であるクラリスを差し置き、ヒロインを伴って会場に現れた王子。それに怒るクラリスに、王子は毅然とした態度で、婚約破棄を宣言する。そこから始まる華麗な断罪劇。
ヒステリーを起こしたクラリスはヒロインに襲い掛かろうとし、王子の護衛に捕らえられ、退場。その後、王子は真実の愛をヒロインに告白し、二人は結ばれる。
数あるルートの中でも、クラリスが一番愚かで、どうしようもない存在に描かれるのがレオナルドルートだ。婚約者という最大の恋の障壁であることから、仕方ないのかもしれない。
……わたし、ヒステリーを起こすほど、エネルギッシュじゃないんだけどなあ。
「クラリスお嬢様、とてもお似合いですよ」
わたしをすっかり飾り終えた侍女が、フウ、とひと仕事終えた顔で言う。
数時間後に自分を待ち受けるイベントを思い、鬱々としていたわたしだったけど、鏡を見た瞬間、心が華やいだ。
サテンのリボン。小粒のパール。幾重にも重なったオーガンジーは、海を揺蕩うクラゲみたいだ。胸元の銀糸の刺繍が、室内の照明で煌めいている。アイシャドウもキラキラしていて、すっごく綺麗。
ゲームのクラリスは黒と紫の毒々しいセクシー系ドレスを身に纏っていたけど、わたしはこういう可愛いドレスの方が好き。選べて良かった。
「本日の主役はお嬢様ですね」
「いや~」
まあ、ある意味、そうなるかもしれないけど。
わたしは鏡越しに、侍女の顔を見る。バチリと目が合って、彼女は気まずそうに視線を逸らした。
……クラリスは幼少期から傍若無人に振る舞い、周囲の者達に迷惑をかけ続けてきた。ゲーム内でも侍女の髪を掴んだり、頬を叩いているのを見たことがある。転生してからは、極力迷惑にならないようにしてきたけど、嫌われていることに変わりはないだろう。
それでも彼女は、職務を全うしてくれた。学院寮での身の回りの世話は、ずっと彼女がしてくれたのだ。
もし、万が一破滅エンドを回避出来なかったら……もう、感謝を伝えることもできないかもしれない。
「……マーガレットさん。この三年間、ありがとうございました。わたしのお世話なんて大変だったと思うけど、いつも丁寧で嬉しかったです」
侍女、マーガレットは目を丸くした後で――微笑んだ。
「お嬢様は本当に変わられましたね。お優しく、お美しくなられました。あの……ご卒業後、お屋敷に戻られたら……私達ともお茶をしてくださいませんか? いつもジルベルトさんばかりお嬢様と仲良くして、羨ましかったんです」
「は、はい! 望むところです!」
思わず声が上ずってしまう。言葉選びもズレたかも?
マーガレットはさんは綺麗な微笑みを崩して、口を開けて笑ってくれた。
嬉しい。同性の友人がずっと欲しいと思っていたのだ。
コンコン、とドアが鳴る。お手本みたいに綺麗に響くノック音。彼のそれは、他の人と全然違うからすぐに分かる。
「お嬢様、そろそろお時間です」
「は~い。ちょっと待ってて」
鏡の前で、最終チェック。おかしなところはない? 本当にこのドレスで良かった?
ヒロインのドレスは、攻略対象キャラクター毎のテーマカラーに変わる。ヒロイン側の恋心が反映されているみたいで、すごくロマンチックな演出だと思った。……わたしのドレスは、涼やかなシルバーグレーである。
「準備できたよ」
声をかけると開くドア。緊張が走る。
ジルベルトはわたしを見て、その切れ長の目を見開いた。……沈黙。わたしは耐えきれず、冗談っぽく言う。
「ふふ、中々似合うでしょ?」
「――とても。はい……かなり」
彼らしくないそれは、余裕のない本音みたいで、最大級の褒め言葉に聞こえた。
「……では、まいりましょうか」
差し出される手を取って、わたしはマーガレットに挨拶をしてから部屋を出る。
寮内は、パーティー準備を手伝う使用人や、着飾った生徒達で賑わっていた。わたしの横のジルベルトを見て、ぼんやりした顔をする女生徒とその侍女達。優越感と不快感が入り混じる。
ジルベルトは何にも気付いていない顔でわたしをエスコートし、人気が無く静かな裏口の方から会場に向かった。
「お嬢様、私は代行人を呼んでまいりますので、中でお待ちください」
「オッケー」
軽く答えてみせたけど、内心はドキドキだ。婚約者に同伴されずに入場だなんて、目立たないわけがない。その後、寂しく一人で壁の花となっている時間も、きっと帰りたくなるに違いない。
ジルベルトはわたしの気持ちを察しているようで、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ご一緒できず、申し訳ございません。……もし、代行人の作戦通りに事が進まなかったら……その時は退路を確保しますので、逃げ、」
「だ~いじょうぶだよ。“ご心配なく”!」
珍しく彼が弱気な事を言うから、わたしが強気になるしかない。
ぴしっと背筋を伸ばしてジルベルトの口癖を真似すると、彼は不意を突かれた顔をした。そして、ようやく笑ってくれた。
「くれぐれも、お待ちの間にお料理を食べ過ぎて、倒れないでくださいね」
「わたしを何だと思ってるの?」
――さあ、終盤イベント『悪役令嬢の断罪、真実の愛』が始まる。
*
「クラリス・アルセリオ公爵令嬢。私、第三王子レオナルド・エリュシオンは本日この場を借りて――貴女との婚約を、解消する意思を表明する!」
どよめく会場。わたしに突き刺さる同情と好奇の目。レオナルドは壇上で、隣に立つアイリスの肩を抱きながら、怒りを抑えたような低い声で続けた。
「貴女には失望した。両家の関係のためにも、貴女とは手を取り合うべきだと考えていたが、信頼できない相手を傍に置くことはできない。……ここに居るアイリスが受けた数々の侮辱と危害は、到底許されることではない!」
皆が注目する中、レオナルドはクラリスの罪を列挙していく。
クラリスが他の生徒達に指示してアイリスを孤立させ、誹謗中傷を繰り返してきたこと。何度もアイリスの私物を盗み、損壊してきたこと。その中にはレオナルドがアイリスに贈った、亡き王妃の形見もあること。そして先日――アイリスを、階段から突き落とそうとしたこと。
その時の事を思い出したのか、アイリスが涙ぐむ。
「私は王子である前に、一人の男として、心から愛しいと思う女性を――アイリスを守る。もう二度と、アイリスに手出しはさせない!」
……ううん。こんなものだったっけ?
言われる側だと、全然キュンとしないものだな。
第一、手出しも何も、触れてさえいないんだってば。
パチ、パチ、パチ。
レオナルドの勇ましい決め台詞に、緩やかな拍手が送られる。
さあ、どんでん返しの時間だ。
「いや~素晴らしい愛の告白でしたね~。感動して、うっかり涙を流すところでした~」
そこには場違いな男の姿。仮面にシルクハット、よれよれジャケットの代行さんが、今のわたしには白馬の王子様に見える。レオナルドは警戒を露わにした。
「貴様、何者だ!」
「初めまして、殿下。ワタクシはアルセリオ家より依頼を受けた代行……調査員でしてね~。ああ、ちゃあんと入場許可証はありますよ~」
代行さんは懐からすっと取り出した封筒を、近付いてきた警備兵へ手渡す。学院の紋章が入ったそれを、彼がどうやって入手したのかはさっぱり分からないけど、きっとそれも企業秘密なんだろう。中身を確認した警備兵は「確かに」と頷いた。
「調査員……? 一体何を調べていたというのだ」
「実はワタクシ、この数ヶ月、クラリス様の周辺で起きた“不可解な事件”の調査を行っておりました~。言い換えると……アイリス様の身に起きた事件、ですね~。そしてなんと、驚きの事実が判明したのですっ!」
芝居がかった口調と仕草。人を食ったような彼に、皆が訝し気な顔をしている。
「事実だと?」
「はい~。“クラリス様がその一切に関与していなかった”という事実です~」
ざわめく場内。レオナルドが眉を顰める。
「貴様はアイリスが嘘を吐いているとでも言うのか! 適当な事を言って、これ以上彼女を傷付ける事は許さないぞ!」
「まあまあ。これからちゃあんと、説明しますからね~。まず、アイリス様に嫌がらせをしていたのは、クラリス様ではありません。この中の誰か一人でも、クラリス様が直接アイリス様に何かするのを、見た者は居ますか~?」
静まり返る会場。
「な、どういうことだ……?」
「クラリス様は何もしていませんし、指示もしていません。実際には、数名の女生徒がクラリス様の名を無断で使用し、その権威を盾にしていたのです。もちろん証拠は揃っておりますよ~。仲間内で交わされた手紙、嫌がらせの計画が記されたメモ、目撃証言も……ね」
一つ一つ、代行さんは証拠を公開していく。その中で名を挙げられた女生徒達は、処刑宣告でもされたみたいに顔を青褪めさせた。逃げ場を失い、おずおず前に出てきて、泣きながら罪を告白する。
彼女達の嫌がらせの動機は、アイリスへの嫉妬に他ならない。アイリスが彼女達の憧れの相手と特別に親しくしていることが、彼女達を怒り狂わせた。そして“婚約者のいるレオナルドに手を出す不貞な女に制裁を”という建前で、アイリスへの嫌がらせを繰り返していたのだ。
「だ、だがブローチや階段の件は……」
「まあまあ慌てずに~。まずブローチの行方についてですが、これは……今朝方、アイリス様のお部屋で、清掃員が発見しました。ベッドの下に転がっていたそうですから、気付かなくても無理はありませんね~」
代行さんはどこからともなく、何かが包まれた白いハンカチを取り出す。そっと開くとそこには、深い翠を湛えたエメラルド。
「盗まれたのではなかったのか……」
母の形見が無事だったことに、ホッと安堵の息を吐くレオナルド。対してアイリスは、どこか硬い表情をしている。
「最後に、階段の件。クラリス様が突き落としたというお話でしたが……その時間、クラリス様は学院図書館に居たんですよ~。出入り記録にも名前が残っておりますし、司書の証言も得ていますから、アリバイは完璧! 無実です!」
その日わたしが図書館に居たのは偶然ではない。代行さんからの指示で、事件近辺の数日はアリバイを作っておくために図書館に通っていたのだ。
アイリスに近付かなければ、階段転倒イベント自体無くなるものと思っていたけど……。
ざわめく会場。代行さんは黙らせるように、ゴホン! と咳払いをする。
「賢い皆さんは、もうお分かりですね~? つまり! クラリス・アルセリオ公爵令嬢は、全くの無実だということです!」
そう、わたしは、無実!
わたしはこの後の展開を祈るように、目をぎゅっと瞑った。
――静寂が耳を打つ。何も聞こえない。……怖い。
不安に思っていると、ぽつ、ぽつ、と話し声が聞こえて来た。弛緩した周りの空気に、わたしは目を開ける。
「おかしいと思ってたのよね。クラリス様がアイリスさんの悪口を言うところなんて、聞いたこと無かったから」
「他の誰の悪口だって、言っているところを見たことないわ」
わたしに同情し、擁護してくれる生徒達。……嘘みたい。風向きが変わった!
レオナルドはまだ信じられないような、信じたくないような顔で佇んでいる。あれだけ徹底的に糾弾した相手が無実だというのは、簡単には受け入れられないのだろう。
「ならば、誰がアイリスを階段から突き落としたと言うのだ!」
「まあ……真犯人が他に居るってことでしょうね~」
“真犯人”という言葉に、レオナルドはアイリスを虐めていた女生徒達を鋭く睨みつける。彼女達は怯えながらも「違います、流石にそこまでは!」と口々に否定した。
「アイリス様、お辛いでしょうが、あの日のことをもう一度思い出してみましょう~。あなたが階段から落ちた時、近くに居たのは誰ですか~?」
代行さんが野菜を叩き売るみたいに、女生徒達を手で示す。問われたアイリスは青白い顔で、彼女達を見た。
……犯人は“決まっている”。クラリスと似たような背格好の生徒を、アイリスは見間違えたのだ。アイリスがそれに気付き、犯人を指し示した後、代行さんが事前に準備していた証拠を突き出し、犯人は連行される。
心優しいアイリスは寛大な処分を願い、また、自分を虐めていた女生徒達も許す。その姿にレオナルドは、更に彼女への想いを強める。
そしてクラリスは、レオナルドとアイリスの幸せを静かに願い、この一連の出来事は幕を下ろす――それが、代行さんの描いたシナリオだった。
アイリスも、このシナリオを演じる役者の一人である。
アイリスは清廉潔白なヒロインではない。代行さんがその真実を突き止めた時は驚いた。でも、同時に納得もした。アイリスはわたしを誤解していたのではなく、陥れようとしていたのだ。
彼女は確かに女生徒達から嫌がらせを受けていたけど、それを機に悲劇のヒロインを演じ、レオナルドの同情を誘った。クラリスに罪を着せ、レオナルドから遠ざけようとした。自分が愛されるために、クラリスを愛すべきではない悪役に仕立てあげようとした。
窃盗も、階段の件も、彼女の自作自演である。代行さんはアイリスの部屋から盗まれた筈のブローチを見つけ、階段を落ちて捻ったという足の無傷を暴き、彼女の弱みを握った。
この事実を黙っていて欲しければ、話を合わせろ。――それが、代行さんがアイリスに提示した交換条件だった。誰か一人に重い罪を着せることで、アイリスのしたことも隠せる。アイリスは従うしかないだろう。
代行さんはレオナルドの反感を買わないように、わたしの円満な婚約破棄を実現するために、その道を選んだ。
わたしは、こんなやり方はどうかと思ったけど、もっといい方法なんて思いつきもしない。
「あたし……あたしは……」
胸の前で手を固く結び、瞳に涙を浮かべ、一生懸命に言葉を絞り出すアイリス。自分の勝手で、誰かに殺人未遂の冤罪を被せようとしているのだから、その罪悪感は計り知れない。
アイリスの大きな目が、一人の女生徒を見る。目が合った女生徒は何かを悟ったのか、感電したみたいにビクッとした。
「あたし……あたし……嘘をついてましたっ!」
「「え」」
代行さんとわたしは、ポカンとする。いや、その場にいる誰もがポカンとした。アイリスは震える声で、半ば自棄になりながら告白する。
「あたし、自分でブローチを隠して、クラリス様の所為にしました! 階段から落とされたというのも嘘です! 全部嘘! 足も捻ってなんかいません!」
ダン、ダン、と包帯を巻いた方の足で床を踏み鳴らすアイリス。なんだか狂気じみていて怖い。レオナルドが彼女から一歩後退る。
「ア、アイリス……? 誰かにそう言えと、脅されているんだろう?」
「違いますっ! これがあたしの本性なんですっ! 嫌がらせだって、大した事なくても大袈裟に傷付いたフリしたし! クラリス様に酷いことを言われたとか、そういうのも全部、嘘! 嘘! 嘘!」
「な、何故だ! 何故そんな嘘を……」
アイリスは真っ赤な顔で、レオナルドを睨むように見つめた。
恥ずかしい、みっともない、必死な姿。それは罪を告白した女生徒達と重なる。いや、もっと前の――前世の学友、同僚、そして母とも。
……彼女も、一緒なんだ。みんな一緒。みんな、狂ってる。
わたしはそんな風にはなりたくない。と思っていたけど、でも。
今は少しだけ、分かる。
わたしはアイリスに歩み寄った。「クラリス様!」と呼び止める代行さんに「大丈夫」と手を振る。レオナルドも、アイリスも、誰もがわたしに注目した。夢の中で自分に向けられていた冷たい視線を思い出し、足が震える。でも引き返す気は無い。
やっぱり今夜はわたしが主役で決まりかな。
「わたし、分かります。アイリスさんが嘘をついた理由」
「えっ……?」
「アイリスさんは、レオナルド殿下のことが、大好きなんですよね。なりふり構っていられないほどに」
そう。それが、彼女が……彼女達が嘘をついた理由。
例え悪に身を染めても、ゲームの設定を飛び越えても、自らの恋を守ることに必死だった、ただの女の子。
だから、大好きな人の前で嘘をつき続けることに、耐えられなかったんだ。
「アイリスさんは、わたしと殿下の仲を裂きたかったのでしょう」
「……ご、ごめんなさい」
認めるように、泣き崩れるアイリス。レオナルドは愕然とした表情で、アイリスを見下ろした。
「な……そんなことのために」
「そんなこと、ではありませんよ。婚約者がいる方を好きになってしまった彼女の苦悩は、彼女にしか分からないでしょう。殿下がアイリスさんを愛しているなら、彼女の全てを受け止めるべきです!」
妙に熱が入って、普段なら絶対出さないような大きな声を出してしまった。ホールに自分の声が響き渡る。眩暈がする。
でも頑張ろう。
カッコ良いところ、見せたいから。
「わたしは――アイリスさんを許しますよ。わたしの名を使った皆さんも、責める気はありません。その代わりもう二度と、自分の恋で他の人を傷付けないでください。……もっと、その気持ちを大切にしてください」
我ながら人が良すぎるな、と思う。こんな風に思えるのは、いつも傍にジルベルトが居てくれたからだろう。そうでなければ孤立無援のわたしは、レオナルドやアイリスを憎んでいたかもしれない。それこそゲームのクラリスのように。
「アイリス……君の嘘は、君を不安にさせた私の責任でもある。すまない」
レオナルドが、アイリスに手を差し伸べる。アイリスは可愛い顔を涙でぐしゃぐしゃにして、彼の手を取った。レオナルドは立ち上がった彼女を抱きしめかけ――わたしに向き直る。
「クラリス・アルセリオ公爵令嬢。私は、貴女のことを誤解していたようだ。……だが、その、貴女との婚約は、」
レオナルドが言い辛そうにしていて、わたしは思わず吹き出しそうになった。婚約破棄の大義名分が無くなったから困っているのだろう。
代行さんのシナリオでは、わたしは二人の愛の前に潔く身を引くことになっている。別にそれでもいいけど、なんだかちょっと悔しい。わたしがフラれたみたいな構図が嫌だ。それに“ざまぁエンド”の定番は、もっとイイ男と幸せになることだよね?
「ご心配なく。実はわたしも、真実の愛を見つけたんです」
ぐっと後ろから代行さんを引っ張り出して、その腕に抱き着く。
「わたし、彼が好きなんです。なのでそれぞれで、幸せになりましょう」
その時、レオナルドやアイリス、他の皆がどんな顔をしていたかはよく分からない。確かめていられる余裕なんてなかった。柄にもないことをしてしまったわたしは、もう火を吹く寸前で、ぐちゃぐちゃの頭で代行さんと一緒に会場を抜け出した。
*
「ハッ、ハァ、……あの、これって、何エンドですか?」
シンデレラさながらに駆け、人気のない庭園に出たわたし達。ゼエゼエしているわたしの問いに、少しも息を乱していない代行さんが答える。
「……駆け落ちエンド、ですかね~」
「あ、はは」
これは、考え得る最高のハッピーエンドじゃないだろうか?
笑うわたしを、代行さんの仮面がじっと見ている。わたしの最後の行動をどう受け止めていいか分からないのだろう。わたしは改めて、彼に向き直った。
「代行さん、この度は本当にありがとうございました」
「えっ、あ、いえいえ。お役に立てて何よりですよ~。まさかクラリス様があんなに堂々と人前でお話になられるとは、驚きました~。……最後のアレも、中々の意趣返しでしたね~! 危うく本気にしてしまうところでしたよ~」
ヘラヘラした口調で、冗談めかしながら、こちらの真意を探ろうとする代行さん。
……いつまで“そう”しているつもりだろう。
わたしは一歩、彼に近付いた。
「確か、成功報酬でしたよね?」
「は~い。後ほど執事さんから受け取りますので、ご心配なく~」
「へえ。わたしの執事からねえ……」
ニヤける顔を抑えられないわたし。無表情の仮面の下で、今、彼がどんな顔をしているのか、早く暴きたかった。
「じゃあわたしは、有能な執事さんにご褒美をあげないとね? ……ジルベルト」
もう、分かっていた。
声を巧みに変えていても、わざとらしく猫背にしていても、彼らしさは、そんな表面の部分じゃないから。
この世界でたった一人の、わたしの味方。
わたしの執事、ジルベルト・ヴァンティア。
「……ふう」
代行さんは肩を竦めると、いつもみたいに背筋をピンと伸ばし、仮面と帽子を取る。おまけに茶髪のカツラも外して、銀色の髪を撫で付けるように後ろに流した。ネクタイを締め直し、ジャケットの着崩れを直すと……赤い顔で咳払いをする。
「ん……正解です、お嬢様。いつから気付かれていたんですか?」
「いつからだろう? ずっとジワジワ、気付いてたよ。だって代行さんが居る時、ジルベルトは居ないし。一緒に居る空気とか、匂いとか。口癖も一緒だったし」
「……意外ですね。そんなに鋭い観察眼をお持ちだとは」
「どうして、こんな回りくどいことをしたの?」
別に代行のフリなんてしなくても、ジルベルトのままで良かったのに。不思議そうにするわたしに、ジルベルトは言った。
「お嬢様の関係者ではなく、第三者の方が動きやすかったからですよ。執事ジルベルト・ヴァンティアで居るより、阻害されずに済む」
「そがい?」
なんのことだろう?
ジルベルトは今回の件で、色々と後ろ暗い手段も用いただろうから、正体を隠すのはまあ分かる。でも、わたしにまで嘘をつく必要はあるだろうか?
納得出来ないでいるわたしに、ジルベルトは二コリと微笑んだ。
「それよりも……お嬢様。改めて破滅回避成功、おめでとうございます」
「あ、ありがとう」
「さて、これからどうなさいますか?」
「え~……どうって……どうしようかな」
「何でもできますよ。だって、ここから先は誰も知らない、ゲームシナリオの外なのですから」
――え。
ジルベルトの言葉に、わたしの思考は停止した。ジルベルトは当たり前のことを言っただけ、みたいな普通の顔をしている。聞き間違いかもしれないと思ったけど、それにしてはやけにハッキリしていた。
彼は確かに口にしたのだ。“ゲームシナリオ”というワードを。
わたしはジルベルトに未来の話をしたことはあっても、ここがゲームの世界で、作られたシナリオ通りに進むだとか、そういったことは一切言っていない。だから彼がそれを知る筈がない。
何も言えないでいるわたしに、ジルベルトは「ふふ」と意地悪く笑った。彼の纏う洗練された空気が、代行さんとジルベルトを足して二で割ったみたいな、ミステリアスなものに変わる。
「どうして知っているのか、というお顔ですね」
「……なにを?」
「――プリンセス・ロワイヤル」
整った顔の成人男性には似つかわしくない、メルヘンな乙女ゲームのタイトル。愉快だけど、ちっとも笑えない。
「私は知っていますよ。この世界がゲームの世界だと。初めからね」
*
お嬢様の強張った顔。私はようやく正体を明かせること、本音で向き合えることに、解放感と怖れを半々に抱いていた。
彼女に怯えられないように、嫌われないように、これまで積み重ねてきた信頼が崩れてしまわないように。一つ一つ丁寧に、順を追って説明していく。言葉にすると、意識も過去を遡っていくようだった。
――私ことジルベルト・ヴァンティアが、生まれて初めて目にしたのは、親の姿。それは一人ではなく、複数人だった。……乙女ゲーム『プリンセス・ロワイヤル』開発チームのメンバーだ。
私はどういう訳か、最初から自我を持っていた。ネットワークを通じて人工知能と結び付いただとか、色々な可能性を考えてみたが、未だに理由は分からない。
とにかく私は、自分がゲームキャラクターの一人であり、プレイヤーの選択次第で、ヒロインに恋をすることに抗えない存在であることを知っていた。
選ばれれば恋人役を演じさせられて。選ばれなければ、悪役令嬢のスチル画像の背景と化す。
……そんなのは、まっぴらごめんだ。
私の反抗心は、プログラムや製作陣に影響を及ぼした。私に関するデータは不自然なほどトラブルが多く、イラストレーターやシナリオライターは『何故か筆が進まない』と行き詰まり……その結果、決裁者は私を攻略キャラクターから外すことにした。
没になっても、世界から消える訳ではないらしい。
私の設定は残されたまま、ゲームの完成と共に、公爵家に仕える執事としての生活が始まった。
この世界は、決められたゲームシナリオの中を永遠に繰り返す。
ヒロインが学院に入学し、攻略キャラクターと恋を育み、何らかの結末を迎える……そのストーリーに関係のない部分では自由がきくものの、本筋を変えることはできない。私以外のキャラクター達も、まるで洗脳されているみたいに、プリロワのストーリーを忠実に守っていた。
私はどうにかしてこの無意味なループから抜け出したかった。そのためにヒロインを排除しようとしたり、悪役令嬢のクラリスを救ってみようとしたこともある。だが、全部無駄だった。何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、同じような結末を見届けてはまた最初の一日に戻る。
私は絶望していた。
自分にはどうにもできない。
誰か――この地獄を終わらせてくれる、そんな救世主を求めていた。
そして……何千回目か分からない始まりの日。妙なことが起きた。いや、奇跡だ。
今回のクラリスは、見るからに今までと異なっていた。性格も表情も口調も全てが別人。シナリオに逆らう行動や、ゲームの展開を知っていること、度々この世界には存在しない言葉を使うこと、そして何より、彼女のデータは異質な輝きを放っていた。
私は悪役令嬢クラリス・アルセリオに“外の人間”の魂が宿ったのだと悟った。彼女こそ、この世界を規定のシナリオから解き放ってくれる救世主だと期待した。
……だが実際は、彼女はそんな大層なものではなかった。
クラリスになったことは彼女にとっても想定外だったようで、塞ぎ込み、自室に引きこもってばかりいた。期待を裏切られた私は怒りを覚えた。しかし、一人で膝を抱え全てを諦めた顔をしている彼女に、自分自身が重なり、放っておけなかった。
忠実な執事らしく世話を焼いてみるが、鬱陶しそうに避けられる日々。ある日とうとう『放っておいて!』と部屋を追い出されてしまった。
元のクラリスの傍若無人ぶりに慣れていた私には、それは可愛いもので、大して気にはしていなかったが――彼女は自分が閉めたドアを少しだけ開けて、こちらの様子をおずおず見て『あの……ごめんなさい』と謝った。
誰かに気を使われるのは、初めてのことだった。
私に感情があると、生きていると、認めてもらえたような気がした。
それからは、彼女と過ごす時間が特別なものになっていった。
ゲームの設定を無視して、ぐうたらしてばかりの怠惰な彼女。最初は、彼女を甘やかすことで、私自身を甘やかしていたのかもしれない。それでも次第に、私はただ心から、彼女の穏やかな日々を見守り続けたいと思うようになっていった。
甘いお菓子が好きで、時間が許す限りいつまででも寝ていられる彼女。
キャラクターデザイン上で縦ロールだった髪は、いつでも横になりやすいようラフに下ろされ、鋭く尖っていた顔はふっくら丸みを帯び、吊り上がっていた目はいつもどこか眠そうにぼんやりしていて。
クラリスではない別の女性。たった一人、私がお守りしたいお嬢様。
……この人を、あの泥沼の破滅エンドに落としてたまるものか。
私はお嬢様を破滅エンドから回避させ、共にシナリオ外へ脱出するために奔走した。代行としてお嬢様の前に現れるよりも前から、あらゆる方法を試行錯誤し――姿を偽りシステムを欺けば、執事以上の領域に踏み込むことができると気付いた。
そして私は、物語を食うような、それっぽいキャラクター“代行さん”を演じることにした。
「今、この世界はゲームのシナリオ外です。もう巻き戻ることはない、と信じたいですが……。まあ繰り返すことになっても、お嬢様となら何度でも別の物語を歩めそうですがね」
お嬢様は私の長い説明を、ろくに瞬きもせず聞いていた。僅かに開いた小さな口から「ほあ」と声が漏れる。話に付いてこられただろうか?
「つまり……ジルベルトは……」
「……はい」
「ジルベルトは……わたしのことが好きってこと?」
「はい!? ……は、はい」
まさか、そこを突いてくるとは思っていなかった。重要な点はもっと他にあるだろうに。
「そうなんだ、へえ、そう。え、えっと、これって外伝コミカライズ版のストーリーとかじゃないよね? クラリスのIFストーリー的な」
「そんなものは無いですよ。これは私達のストーリーです」
我ながらくさいことを言ってしまったと思った。案の定、お嬢様は揶揄うようにニヤッとする。……情けない話だが、いつもと変わらない笑顔を見ることが出来て、膝から崩れ落ちそうになるくらいに安心した。
真実を話して、隠していたことを責められたり、気味悪がられたり、嫌われることもゼロではないと思っていたのだ。
「“私達のストーリーです”だって。ふふ」
「意地悪しないでください」
「ごめんごめん」
茶化しながら、さりげなく背を向けて、星空を仰ぐ彼女。月明りに照らされた夕焼け色の耳が、私の気分を良くさせる。
「ところで、お嬢様」
「ん?」
「本当にこのまま、駆け落ちエンドに突入してみませんか?」
「……え、あ、」
真っ赤な顔、潤んだ瞳がこちらを振り向いた。
『恋愛はフィクションで充分だ』と言っていた彼女だから、どうかと思っていたけれど……大分脈ありに見える。このまま押せばいけそうだ。頑張れ私。
「やばい、わたし、ジルベルトに攻略される……」
「はい。大人しくジルベルトルートに入って下さいね、お嬢様……いえ、」
私は彼女の目を見つめ、ひと呼吸おいた。
ずっと、ずっと訊いてみたかったことがあるのだ。
「ところでお嬢様。……あなたの本当の名前は、何と仰るのですか?」
もし少しでもお気に召されましたら、
是非評価『☆☆☆☆☆』や感想にて応援をお願いいたします。
皆様の応援が執筆の励みになります。
いつもは毛色の違う『不思議の国のアリス』をモチーフにした長編を書いていたりします。
魂込めまくっているので、是非そちらにもお越しください♪