リフレイン - セーラリンデ:震撼は終夜に及ぶ
「あの子がカズテル=ハタノと結婚したいと言った時、私は反対したわ。それが私の……今に至るまで尾を引いている、最大の後悔なのよ」
セーラリンデ=ミュカレの、それは告解だった。
※※※
この頃にはもう、『ヴィオレ=ミュカレ』の名は、国内どころか大陸中に轟くようになっていた。
いわく、炎と氷の二重属性の使い手。
いわく、菫色の魔眼に矛盾を宿らせた傑物。
いわく、千年、あるいは二千年にひとりの魔導——。
ヴィオレにとっての不幸は、カズテル=ハタノが無名だったことだ。
彼は常に彼女の隣にあり、彼女が活躍する場に帯同していた。故に冒険者たちの間では知られていたものの、一方で国家、政治の場において、彼の存在はほとんど黙殺された。
なにせ貴族でもなければ、ましてやどこの国にも戸籍を持たない少年である。『融蝕現象に巻き込まれた存在』として研究者の間で注目されていたのがせいぜいだ。
カズテルの魔導が攻撃よりも防御に偏っていたこと、闇属性の魔導が珍しすぎてほとんど知られていなかったことも、傾向に拍車をかけた。
氷の牢獄に閉じ込めて炎で灼き尽くす——ヴィオレの魔術は見た目も派手であり、かつ荘厳で神秘的ですらあり、誰もが惹きつけられる。彼女が戦う際、一切の攻撃を防ぐ見えない壁が展開されていることも、敵の動きが要所要所で不意に鈍ることも、手練れでなければ気付けない。
現場にいてすらそうなのだ。いわんや、報告書の中でだけ活躍を目にする貴族連中をや。
ソルクス王国の政が当時、腐敗していたのもある。
権力闘争の最前線たる王都。奸計が暗躍し策謀が跋扈する万魔殿は、ここにきてミュカレ侯爵家——ヴィオレの両親を再び浮上させた。
数年前まで、大魚を産んでおきながらみすみす逃した愚か者と誹られていた彼らは、貴族社会で培ってきた処世術を存分に発揮し、いつの間にか『英雄の親』という評判を手に入れていたのだ。
行き違いがあって今は家を離れているが、あの娘は自分たちが産み育てた、尊き血が積み重ねてきた末裔の結実である。その証左に見よ、我が娘はしっかりと『ミュカレ』の姓を名乗っているではないか——悪評を立てるべく敢えてそうされていたことを逆手にまで取り、彼らはあろうことか、娘の婚約者を募り始めた。
王家をはじめとして、侯伯たる高位貴族。家格は低いものの莫大な財を蓄えた新興貴族。更には他国の王侯まで。ヴィオレ=ミュカレの婚約者候補は本人の預かり知らぬ間に両手両足の指を三度折っても足りぬほどとなっていく。
それを知り頭を痛めていたセーラリンデに、姪が『異世界人を夫にしたい』と報告してきた時、強く反対したのは彼女たちの身を案じてのことだった。
そんな身勝手を通しては敵が膨れあがるだけだ。
昼夜問わずに命を狙われることになる。
貴族でもない、素性も知れない異世界からの流れものなどあなたに釣り合わない。
それよりも私がいい相手を探すから少し待っていなさい。侯爵家に釣り合う家格で、政治的な混乱が起きることもなく、あなたを道具扱いせず、ちゃんと人として愛情をもって接することのできるような——そんな人を必ず……。
※※※
「私もまた、貴族だったのよ。血に縛られ、国家に貢献し、身を尽くすことこそが責務……市井で冒険者の真似事をしていても、そんな認識は私の根底にあった。だけど、貴族として生まれ育った私にとっての最善は、貴族として育ててもらえなかったあの子にとって……最低だった」
※※※
セーラリンデは、深さを見誤っていた。
ヴィオレの抱える両親への憎しみの深さを。
ヴィオレの、カズテルへの想いの深さを。
そしてヴィオレとカズテル——ふたりが共に在る時の、魔導の深さを。
結婚を反対したセーラリンデのもとを、ふたりが去ってから三日の後。
再会は王宮でだった。
ふたりは、王のおわす城に攻め込んできたのだ。
あっけなく制圧された。
近衛騎士団も、魔術士団も、禁軍さえも。総員が揃っていて手も足も出なかった。
いかなる剣戟もいかなる魔術も相手を寸毫すら傷付けることができず、こちらもまた無傷のままに身動きを封じられる。その中にはセーラリンデ本人も含まれていた。『零下』の魔眼で王国に名を馳せた魔女が、なにもできないままにあっけなく、まるで子供をあやすように。
国王はその場で退位を迫られる——貴族たちの退廃と汚職をのさばらせていた罪だという大義により。
瞞着だ。
内実はただの謀反、国家への叛逆である。
確かに王は悪政を敷いていた。
愚王であった先代国王が溺愛していたという理由で、兄を差し置いて玉座についた第二王子。治世においては優秀な兄と人望高い弟からの簒奪を恐れて金をばら撒き地盤を固め、権力を束ね、そうして国民に負担を強いるのみならず、自派貴族たちの専横を招いていた。セーラリンデの夫——王弟の事故死も、あるいは王の差し金なのではという噂すらあった。
だが、それでも王なのだ。
公然と玉座から蹴落とすなど、あってはならぬことなのだ。
氷牢で手足を拘束され床に転がされながら、セーラリンデは呆然と、王の脅えて震える様を見る。内心では夫の仇かと疑い、憎んですらいた義兄が、剣を向けられた手負いの小鬼のようになっている。
やめなさい。
こんなことをしてもどうにもならない。
稀代の逆賊として国から、世界から追われることになるだけ。
そう叫ぼうとした時、玉座の間にひと組の夫婦が入ってくる。
王太子夫妻——凡愚で知られた王子と、それを支える賢姫。
王子は震える声で、妻の手を握りながら、それでも高らかに宣言した。
父たる国王の悪政は目にあまる。
故に我ら、第一王子シャップスと王子妃ファウンティアの名において、退位を求む。
異のある者は手を挙げよ——。
この瞬間、建前でしかなかった大義に、名分が伴った。
玉座の間は静寂に包まれる。
声をあげられる者はない。宰相に内務大臣、財務大臣——官僚の半分ほどがその場に居合わせていたが、全員が顔を蒼白にしていた。
ただこの時、一方でセーラリンデは、強い違和感を覚えていた。
これを仕組んだのは本当に姪なのか。
王宮に攻め入り、怪我人を出すことなく拘束した上で、王太子を担ぎ上げてから王の退位を迫る——。
力にものを言わせているところはなるほど彼女らしい。だが、王太子夫妻と内通し大義名分を用意してからの周到さ。一気呵成な攻勢を支える鮮やかな鬼謀は、まるで彼女らしくない。
では王太子夫妻か? それも違う。凡庸で知られるかの王子がこんなことを思い付くだろうか。いかな慧敏で知られる王子妃とて、ここまで大胆なことをやろうと思うだろうか。
疑念を抱くセーラリンデの耳に、こつ、と靴音が響いた。
王太子夫妻の背後、姪の隣で静かに控えていたもうひとりが、鳴らした音だった。
その少年——今や青年となった黒髪の男は、茶色みがかった黒瞳で一同を見渡し、穏やかに告げる。
「反対する者はいないみたいですね。ま、凍った手は挙げられないか」
そして全員が理解した。
この場で最も恐ろしいのは、王太子夫妻でもミュカレ侯爵家の令嬢でもないと。
「じゃあ、そういうことで。あ、あと、ヴィオレは俺がもらいます。異論がある方はいつでもどうぞ。ネルテップの街外れに家があるんで、そこまで来いよ。……ヴィオレを泣かすやつは、俺がすべて叩き潰してやる」
わん! と。
青年が腕の中に抱いた子犬が、追従するように吠える。
王宮に攻めてきた時から、王を退位させるまでの間——つまりことの始まりから終わりまで、彼はずっと、両腕で子犬を抱えたままだった。