リフレイン - ミュカレ侯爵家:咲かない菫
ソルクス王国に連なるミュカレ侯爵家は、長い歴史を持つ魔導の名家だ。
水からの派生である氷属性の魔術を得意とし、王国に名だたる魔導士を代々輩出してきた。出自にまつわる歴史は残っていないものの、貴族家のひとつとして歴史の表舞台に現れた頃より、数知れぬほどの軍功で王国の栄華に貢献し続けている。
平時においては氷魔術を応用した食品の長期保存技術により流通の活性化に取り組み、領地の治安も上々、王家の覚えめでたく、順風満帆を絵に描いたようだった。
とりわけ近年の際立った人材といえば、『零下の魔女』セーラリンデであろう。
幼い頃より神童として噂にのぼり、第三王子であるアイジアの婚約者となる。
長じては前評判に違わぬ才を見せ、王立魔導院の院長に任命されてからは、魔導士の最高位たる『魔女』の称号を得た。新しい『魔女』の誕生はミュカレ侯爵家としても六十年ぶり、国内においては二十年ぶりの快挙である。
夫のアイジアは王位を継ぐことはなかったものの王弟として公爵位を授かり、仲睦まじい夫婦として第一子にも恵まれる。それに伴い、ミュカレ侯爵家の覚えは更にめでたく、魔導の名門のみならず王家の縁戚として、権勢ますます華々しくなることだろうと皆が讃えていた。
そして、そんな折。
セーラリンデの弟にしてミュカレ侯爵家当主ウォルフに、待望の第一子が誕生する。
水属性の証たる青の混じる、紫色の瞳を持った女児は、ヴィオレと名付けられた——。
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「だけど、期待されて生まれたその娘は、出来損ないだったのよ」
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属性相剋による魔導不全。
ヴィオレは二歳の頃に、そう判断された。
魔導において、属性には六種ある。
世界を包む三原色たる赤、青、緑。
世界を支える基本色たる黄。
両極、無彩色たる白、黒。
このうち人はほぼ必ず、火、水、風の三原色どれかを基礎属性に持って生まれてくる。火を基礎に水と土が少量、風を基礎に闇が少量——といった具合に。
そして少量の他属性は、基礎属性に影響を与え、言わば補助の役割を担う。
補助の属性が基礎の属性に干渉することで 、魔導には個性が生まれる。基礎属性は補助属性と混じり合うことで、たとえば水が氷となったり、風が熱波となったりするのだ。
だがごくごく稀に、補助が補助の範疇を超えて大きく、基礎が基礎の範疇を超えて小さくなることがある。
そうするとどうなるか。
それぞれの属性は、互いが『基礎は自分だ』と主張し始める。料理で言うなら、砂糖菓子に大量の塩を混ぜるようなものだ。本来は隠し味として甘味を引き締める役割を担うべきなのに、自分こそが味の主役だと砂糖を押し除けようとする。
この状態を属性相剋という。
こうなると本人の魔力量がいかに多かろうと、魔導の使い手としては致命的だ。まともな魔術が使えないため、魔導士の道は諦めざるを得ない。
ミュカレ侯爵家の長女ヴィオレが持って生まれた属性は、火と水。
ただでさえ互いを活かしにくい属性であるのに、彼女はよりによって、そのふたつをまったく同じ割合で混ぜ合わせていた。
火を灯しても水で消え、水を湧かせても火で蒸発する。
魔導相剋の、考え得る限りもっとも最悪の状況——魔導士としての成長などは望むべくもなく、一般人として生きるのさえ困難だ。むしろ、稀有な事例、魔導学の検体として解剖するのが最も有用な使い方なのではないか。
ミュカレ侯爵家の当主夫妻は、出来損ないの娘を大いに嘆いた。
そして嘆いたのと同程度に、深く失望し——その結果として、娘への興味を完全に失った。
彼らにも言い分はあっただろう。
たとえば当主であるウォルフは、姉であるセーラリンデに劣等感を持っていた。『魔女』の称号を授かるほどの天才たる姉に比して凡庸な弟。己には家を継ぎ血を繋ぐだけの価値しかないのではという不安は、優れた子供さえ作れたならば払拭されるはずだった。
ウォルフは娘に期待するどころか、自分の人生を仮託さえしていた。
妻であるトワレは、自分がこのような娘を産んでしまったことに追い詰められた。ミュカレ侯爵家に求められていたのは、当然ながら氷の魔導を持つ世継ぎである。もちろん親の属性が子に遺伝するという保証はない。だが、保証はなくとも似る傾向はあり、傾向があるのならば例外は許されない。
彼女は、数ある候補者からの選りすぐりだった。
だがその子供に発露したのは、基盤となる水属性と相反し、相剋を見せるほどの強い火属性。
氷の名門にあるまじきもの。
いったいどこから火の属性が来たのだと、侯爵家は紛糾した。
妻の不貞が疑われた。夫の不能も疑われた。猜疑は両家の祖父母にまで及んだ。
ミュカレの長い歴史をどれほど遡っても、火属性の魔力色が血に紛れ込んだ形跡はない。それまで良好だった夫婦仲は完全に冷え切って、新たな世継ぎを作るなどという話すら出てこなくなった。
そしてそれらすべての原因は、ひとり娘にあると、彼らはそう判断したのだ。
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「私は、放置されたわ。父も母も、同じ家に住んでいるだけの他人だった。メイドも使用人も、私を遠巻きに見て、ひそひそと陰口を言うだけの存在だった。最低限の教育を受けさせられたのは、貴族の体面だったのかしら。だけど私にとってそれは、人形が人間らしく振る舞うための手順でしかなかったわ」
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娘にとって幸いだったのは、屋敷にある書庫への立ち入りが禁じられていなかったことだろう。
そこには多種多様な本があった。小説、舞台の脚本、歴史書、果ては技術書、魔導書も。彼女は書物によって喜怒哀楽を知り、人間を知り、世界を知り、魔導を知る。
物心ついた時から自分の胸に居座る引き裂かれるような感情は『悲しい』という名前らしかった。使用人たちが楽しそうに談笑しているのを目にした時の引き絞られるような感情は『寂しい』と呼ぶらしい。家庭教師に鞭で叩かれた時の痛みが呼び起こす感情は『つらい』。両親が自分を見る時の視線に身体を震えさせる感情は『怖い』。
そして、その『悲しい』『寂しい』『つらい』『怖い』など、ありとあらゆる負が渦巻く、心の奥底。
芯の部分に澱んで滾っている、暖炉の炎みたいなこの感情は——。
なぜ、自分は役立たずの失敗作なのか。
なぜ、魔導が使えないのか。
書庫にあった数々の書物を読み解く中で、知識も集積されていく。
彼女の頭の中でいかなる閃きと霊感、論理の飛躍があったのかわからない。あるいは、悟りとも形容できるものだったのかもしれない。
だがある日、彼女は理解する。
属性が相剋しているのならば、別々に使えばいいのではないか。
どうして基本属性をひとつにする必要があるのか。
いや、そもそも。
火と水は本当に相剋しているのか。
確かに火は水をかければ消える。水も火によって蒸発する。
だけど、火はなぜ、水をかければ消えるのか?
水はなぜ、火にかければ蒸発するのか?
このふたつは見えないなにかを互いにやり取りしているだけで、畢竟、同じものなのではないか——?
それは自分の奥底で燻る、この感情のように。
みんなから無視されても。使用人たちの楽しげな様子を見せられても。家庭教師に手を叩かれても。両親から物を見るような視線を送られても。
どんなに心が冷えきっていても、奥底のこれは燃え続ける。
むしろ、より一層に勢いを増す。
もしも火と水が相剋するのなら、この胸の炎はなぜ消えない?
あるいは逆に——この熱を外へ放射すれば、自分を苛む負の感情たちは蒸発して消えてくれるのだろうか? 凍て付いた心は溶けてくれるのだろうか?
わからない。
だったら、試してみるしかない。
娘はある日、そう決意した。
齢、十二の時だった。
切っ掛けらしい切っ掛けがあったのかは、今でもわからない。両親から罵倒されたとか、使用人に嫌がらせをされたとか、家庭教師にことさら痛い鞭をもらったとか、そういう記憶は彼女にはない。
だからたぶん、切っ掛けというならば。
生まれてからこれまで屋敷で過ごした十二年間、そのすべてだったのだろう。
胸に燻り、滾り、燃え続けてきたこの感情——怒りが、臨界点に達したのだろう。
※※※
「私は、魔導を目覚めさせたその日、屋敷を焼いたわ。屋敷の外へ逃げていく両親や使用人たちを眺めながら、笑い続けたのを今でも覚えてる」