インタールード - 北東グレゴルム地方:『虚の森』中層部
王立魔導院、境界融蝕現象研究局特別顧問——カレン=トトリア=クィーオーユは、森の中をひた走っていた。
局長であるヴィオレから通信水晶での連絡を受けたのは一日前。『虚の森』表層部にて地質調査をしていた時だった。
カレンにとって幸運と不運がある。
幸運は、自身が発生地点の近くにいたこと。地質調査は退屈な上に気乗りしない仕事だったが、受けてよかったと心から思う。少なくとも王都からよりは遥かに早く辿り着けるからだ。
だが一方で不運とは、現象の発生地点がここ——『虚の森』、よりによって深奥部だったことである。
王国の抱える未活用資源にして前人未到の魔境たる『虚の森』。中でも深奥部は変異種の闊歩する、世界有数の危険地帯だ。
『魔女』の称号を持つ者ですら、生きて踏み込めるのは数名だろう。自分とヴィオレを除けば、名を思い付けるのはほんのわずか。いずれも歴史に名を残せるほどの高名な強者である。
探索を困難にしているのは、変異種の存在だった。
地脈と地形、気候や気温などの諸条件がある特定の様式を満たした際、まれに高濃度の魔力坩堝が発生する。大概はすぐに消えてしまうが、更にまれなことに幾つかは、長期間現出し続ける。
その魔力坩堝に影響された魔物が、特異な形質と力を持つ超常個体と進化するのだ。
『虚の森』深奥部は、この魔力坩堝が極端に発生しやすく、かつ消えにくい場所だった。
人呼んで『神威の煮凝り』。こうした地は全世界を見渡してもわずかに三箇所しかない。ザザリオ帝国南部の『悪性海域』、獣人領の北端に穿たれた『ヘルヘイム渓谷』、そしてここ『虚の森』。
カレンの心臓が早鐘を打つのは、身体強化魔術の効果が薄いからではない。彼らが——十三年も待ち侘びた彼らが、今こうしている間にも、変異種どもの牙に曝されているかもしれないからだ。
翼亜竜のような魔物すら、あそこでは被食者となる。
融蝕現象が十三年前と同じであるなら、適切な行動さえ取れれば幾日かは持ち堪えられはしよう。だが一歩過てば危ない。
このまま全速力で走ったとして深奥部——計器の示したという座標まで辿り着くには、一両日といったところか。それまでにこちらが厄介な変異種と出くわさなければ、という条件付きではあるが。
幸いにして、変異種は魔力坩堝を根城にあまり動きたがらない。そしてこちらには坩堝の場所を検知する測定装置を持っている。
「……おじさまのもたらした技術が、彼らを救いますよう」
祈るようにつぶやく。
融蝕現象観測装置はもちろんのこと、連絡用水晶や位置測定機構に至るまで、この十三年で発達した魔導技術の根幹には異世界の知識があった。特に、使い魔を空中高くまで打ち上げて星の軌道に乗せ、魔力の反射を利用して位置情報を測定する仕組み——あんな発想、こちらの世界では千年かけても浮かばなかっただろう。
もちろん世界間測位魔術だけではない。医術や工学の分野においてもあの人は世界を動かした。あんなにも多大な貢献をしてくれた人が、そしてその息子が、帰ってきてくれたかもしれないというのに——変異種なんかの犠牲になっていい訳がない。
汗ばむ額を拭うように、かぶっていた頭布を外す。蜂蜜が滝になったような淡金色の髪と、先端の細く尖った耳が露になる。
——カレンのかみ、きらきらしてるね。
幼い頃の五年間、いつも共にいた男の子の声を記憶の中で再生する。
——ぼくのはまっくろだから、うらやましいな。
黒。
あちらではありふれた色。
対してこちらでは、最も尊ばれる色。
夜と渾沌——つまりは終焉を示し、万物を呑み込み時を司るとも言われる、魔術を無窮へと導く象徴色だ。
魔導士の頂点たる魔女が、その証として羽織ることを許される外套が黒く染められるのも、それにあやかってのものである。
あの子は髪だけではなく、瞳も漆黒だった。
父親の眼は茶色がかった黒であったのに、それよりも遥かに濃い——母の菫色を更に取り込んで深みを増したかのような、黒瞳だった。
それがこちらにおいて持つ意味は大きい。
故にこそ十三年前、自分たちと彼らは分かたれた。あの子の力はあまりに深くあまりに強く、それを満たすに彼の器はあまりに幼すぎた——生命の危機に瀕して、無意識で門を閉ざしてしまうほどに。
だが十三年を経て再び道が交わった以上、彼もまた成長しているだろう。魔力器官は顕現し、あまりある力を飲み込んで、己を救う道標となるはずだ。
疾駆するカレンの前に、魔物の三体が立ちはだかる。
蜘蛛の脚、牛の顔、虎の身体を持つそいつら——土蜘蛛と呼ばれる魔物は、本来なら一体ですら徒党を組んであたらねばならない存在だ。
「邪魔」
上空と左右から襲いかかってくるそいつらを前にして、カレンは逆に加速した。彼女の双眸——翡翠色をした『春凪の魔眼』が鈍い光でその尾を引く。
「……滔々と成せ、檻の迷い子——『刀霞』」
圧縮言語により刹那で詠唱を終えた魔術は、霧の貌をした不定形の槍となり、土蜘蛛たちの頭部に過たず突き立つ。
魔物たちがくずおれた時にはもう、カレンの姿は後ろ髪すらも見当たらない。