血の花が咲く
部屋の扉がノックされたのは、夜明けよりも前だった。
ノックに気付かず夢の中にいた僕を、入ってきた母さんが揺すって起こす。急かす声だった。僕は寝ぼけ眼で、ああ中学の頃に友達が言ってた「母親に起こされる」ってこういうやつかあ、とちょっと嬉しくなる。
が、
「急いで。あの草が開花するわ」
そのひと言に感慨は吹き飛び、目は一気に冴える。
僕はベッドから飛び起き、呆然とつぶやくのだった。
「……え、もう?」
※※※
着替える暇もなくそのまま庭に出た。
ただそのわずかな間に、いろんなことを考えた。
まず頭によぎった後悔は、ジ・リズに相談しとくべきだったかなということ。
思い返してみれば竜族の里へ出掛ける時に気にはなっていたのだ。あそこを通過した際、ポチが少し嫌そうな感じに身を震わせていたし。だけどそのことは四日間の旅程と、里に着いてからのあれこれで頭からすっかり吹き飛んでしまった——いや、言い訳か。
だって本当にジ・リズへ相談する必要を感じていたのなら、昨日のうちにさっさと連絡を取って、来てもらえればよかったのだから。
僕は『様子を見よう』という結論を出した後、家へ上がり、お土産を整理し、お風呂に入ってご飯を食べて、のほほんと就寝した。
何故、ゆうべのうちに相談しなかったのか。
そして開花しようという今になって何故、相談しとくべきだったかなどと考えるのか。
答えは明快。僕は——見てみたかったのだ。
そしていざその時になって、結果を見るのを怖がっているのだ。
あのでかい植物にすごく驚いたし、警戒した。
アルラウネの伝承を聞かされ、悪いものじゃないのかもしれない、と思った。
逆に、もし悪いものだったら自分で始末をつけると決めた。その覚悟はしたし、今も変わらない。たとえ人の形をしたものであろうともやらなきゃならない。
それでも、見てみたかった。自分の目で見、知りたかった。
あの大きな草が育ちきった先を。我が家の庭に生えたその意味を。
ただ一方で怖くもある。僕のこの期待と高揚が裏切られた時のことが。
そしてなにより——期待し高揚するなんて行為そのものが、生まれてくる生命に対する、身勝手で残酷な冒涜だから。
生命に罪もなければ善悪もない。ただ生まれてきて、自然のままに育ち、殺し、殺され、生きて、死んでいく。僕はそのことをあの日、竜族の里で教えてもらった。敵であり生命を脅かす存在だった変異種を厳かに弔ったラミアたちに、教えてもらったのに。
門を出て、解体場に着く。
見れば母さんだけじゃない。カレンも、ショコラも、そしてポチまでもが起きてきて、草の開花に立ち合おうとしている。ポチなんかは少しおっかなびっくりと、門の中、庭からじっとこっちを見ている。
「ショコラ、僕は大丈夫。だからポチのそばにいてやって」
「わうっ」
僕がショコラにそう言ったのは、本当にポチを心配してのことだろうか。
単に、僕の無様で身勝手な内心に、気付かれたくなかっただけではないのか。
「ああ、もう……」
なんだか頭がぐちゃぐちゃだ。
それでも僕は、見かけ上は毅然と振る舞う。
カレンがそっと横に立ち、手を握ってくれたことに安堵しながら。
草の前に立った。
昨日の時点では閉じていた葉っぱが、開きつつある。
最も外側のものはもう放射状に広がり、そのひとつ内側のもの、更にもうひとつ内側のものも。じわじわとしかししっかりと、動いているのを知覚できるほどの早さで、育っていく。
きっと母さんは一晩中、こいつを見張ってくれていたのだろう。だからすぐに知らせることができたのだ。未熟で拙い僕の決断を——フォローしてくれていたのだ。
ありがとう。
背後にいる母さんの気配に胸をあたたかくする。
そしてその間にも、開花は進んでいく。
葉が一枚、また一枚と開いていき、ついにその中——茎にあたる部分が姿を見せる。僕は息を呑んだ。たぶんカレンも、そして母さんも。
子供、だ。
少なくとも外観からはそう見える。
五歳、六歳、そのくらいか。
自分の身体を掻き抱くように両腕を交差させ、目を閉じている。
下半身は葉の生えた根元に埋まっていて、足はないようにも見える。
髪は緑色——まるで葉のような。
瞳は黄金色——まるで稲穂のような。
そして側頭部にひとつ、紫色をした蕾。
——なにかが。
僕の中でなにかが、腑に落ちた感じがした。
交差された腕が解かれていく。
身体の要所要所が蔦めいたもので覆われていて、どこかドレスを連想させる。顔つき、蔦のドレス、髪の長さ、それぞれが合わさって女の子に見える。
それが目を開けると同時。
側頭部にくっ付いていた花が、開いた。
それは紫色の——菫。
「……あ、あー……」
それの喉から声が洩れる。
やっぱり幼い女の子みたいな、高くて可愛らしい声。
「あー……うー!」
にぱっ、と。
その子が笑う。
僕は一歩ずつ近寄っていく。
可能性だけを見るのなら、その笑顔は罠かもしれない。アルラウネの原種であるマンドレイクは、人の形をした上半身で獲物への警戒心を弱めて誘き寄せ、捕食するという。この笑顔がそうでないと言い切れる理由などなにひとつない。
ただ、理由はなくても確信があった。
だって、これは。この子から感じる魔力は。
「……まさか、こんなことが」
震える声で、背後の母さんが呆然とつぶやいた。
「スイくんの、カレンの、私の……ショコラとポチの。それに、ああ、なんてこと」
入り混じっている。
「昨日、母さんが言ったとおりだ」
アルラウネは、生物の死体を苗床に、土地の魔力を吸って育つという。
生物の死体とはつまり、僕らがこれまで狩って食ってきた、森の獣たち。
そして土地の魔力とはつまり、ここ『虚の森』深奥部であり、同時に。
「この家の魔力……うちの家族、みんなの魔力だ」
波多野翠。
ヴィオレ=ミュカレ=ハタノ。
カレン=トトリア=クィーオーユ。
ショコラ。
ポチ。
そして庭に遺髪が埋まっている、波多野和輝——。
「ジ・リズの血は、やっぱり浄化だったんだ。僕らの魔力が悪いものに転じることがないように、この子が良く生まれるように」
僕は、その子に向かって手を伸ばす。
ゆっくりと、確かめるように、頬に手を添える。
「うー……あはっ」
その子はじっと、つぶらな瞳でこっちを見ていたが——やがてきゃっきゃと笑い、僕の手に頬を擦り付けながら嬉しそうに、楽しそうな表情を浮かべた。
だから僕は振り返り、ことを見守る一同へ穏やかに問うた。
「この子の名前、なんにしよう?」
——夜が、明ける。