こいつはちょっと反則でしょう
海は切り立った崖の下に広がっている。
断崖にはじぐざぐのスロープが彫られており、それを伝って海岸へ降りられるようになっていた。日本で暮らしてきた身にはだいぶ危なく見えるのだが、ラミアたちにとっては安全マージンを取った上でこの仕様、だそうだ。確かに彼女たちの尾は接地面積が大きいから、足を踏み外すなんてこともないのだろう。
僕みたいな二足歩行しかできない生物は——万が一に落ちても身体強化で大丈夫、だから下を見るな足を震わせるなしっかり歩いていけ。
ちなみに母さんとカレンはひょいひょいとジャンプしながらカモシカみたいに降りていった。待ってショコラ置いていかないでそっちじゃない僕と一緒にいて?
「わう」
「お前も駆けていきたかったのに、ごめんな……」
そんなこんなで降り立った海岸はそれなりに広い。片隅には漁師小屋が建てられていて、舟も何艘か置かれている。
「変わった形の舟ですね」
「わたしたち、いつも、うみにもぐって、さかなをとる。このふねは、えものをおいておくもの」
話を聞くにラミアは泳ぎが得意で、尻尾をくねらせて海中で推進力を得るのだそうだ。舟はいわゆるカヌーみたいな形状だが、後部が大きく抉れている。その後部にラミアがぴたっと収まって、操舵手兼動力源となることで舟を進めるという。
人でたとえると、ビート板に掴まってバタ足するみたいな要領か。
「みんなが海人さんみたいなものか。確かにこの漁法だと、海にでかい魔物が泳ぎ回ってる中じゃ怖いですよね。……まあ、大きな漁船でも大差ないかもだけど。ジ・リズ、その変異種は海のどの辺にいるの?」
「普段はやや沖の方をうろついているが、かなり近くまで来ることがある」
ジ・リズが応える。身体がでかいので浜辺の半分くらいを占拠していた。
「とーちゃん、どうしておれたちを連れてきたんだ? 変異種が出てからは、危ないから海には行くなって言ってたのに」
「う、うう……こわい……」
彼の背中には二頭の子竜がしがみついている。震えるミネ・オルクちゃんは言うに及ばず、ジ・ネスもきょろきょろと視線が忙しない。
「お前たちは幼いとはいえ、儂らの雛だ。ラミアらは儂ら夫婦だけではなく、お前たちのことも主と仰いでくれている。なればこそ、勇気を奮わねばならん時もあると知れ。実際にその眼で姿を見ておくのだ……我らが生活を脅かす物の姿を」
息子と娘へ、厳かに告げるジ・リズ。まあ確かにこれは、安全を確保しつつ脅威を体感させる絶好の機会だ。
——なにせ、僕がいる。
「スイ、あれ」
カレンが沖を指差しながら袖を引いてきた。
視線を向けると、目測で百メートルほど沖。
凪いだ海面に浮かぶ——ように見える——先端の尖った三角形。
「鮫の背鰭だ。映画でお馴染みの光景だね」
「ぐるるる……」
ショコラが隣で身構えて唸っている。
つまり、ここからでも警戒が必要ということ。
その背鰭は水面を切りながら、ざざざと縦横無尽に旋回し、僕らの方へと距離を徐々に詰めてくる。
「とーちゃん、こっちに来る……」
「あわ、わわ。お父さん、こわい!」
「ジ・リズさま、おにげください!」
「心配いらん。黙って見ておれ」
百メートルから七十メートル。
七十メートルから五十メートル。
五十から四十。四十から三十。そして——二十五メートル。
プールの端から端、くらいの距離まで到達した後、そいつは頭を海から出した。
頭部は鮫。
人喰いとして知られるホホジロザメによく似た顔をしている。ノコギリ状の牙を口腔内にびっしりと生やし、無機質な目でこちらをじっと見ている。
だがその頭から続く首は、長い。
首長竜みたいに、あるいは蛇みたいに。もたげた頭は水面から高く突き出て、ぐにゃりと曲がって薮睨みに鼻先を向けてくる。
首の繋がった胴体は、亀だ。
背中は甲羅の代わりなのか甲羅が変質したものなのか、扁平に広がっていて、一面がびっしりと細かな坩堝水晶で覆われている。
青黒く光る甲羅の中央からにょっきり突き出た背鰭がいっそ滑稽ですらあった。
そいつは最後に、頭だけではなく尻尾も海面に突き出してきた。
甲羅の場所から更に後方、鮫肌に覆われた艶消しの皮膚。蛇の形状でうねうねと威嚇行動を取る。ラミアさんたちの鱗は美しさがあったけど、鮫肌の尻尾ってなんかこう、気色悪いな……。
「ジ・リズの言った通りの化け物だね」
あのギリくまさんが熊と蠍と山羊の混合生物だったのに対し、こちらは蛇で、亀で、鮫。均等に混ざりすぎていて『ギリギリサメ』とはとても言えない。
「なんというか、そうだな……へびかめシャーク?」
「……スイは変異種に変な渾名を付けるのが好きなの?」
つぶやいた僕にカレンが胡乱な目を向けてくる。
「いや、だってどう呼べばいいのかわかんないじゃん、あいつら」
この前の二角獣は割と普通のバイコーンだったからまだよかったけど。……変異種ってたぶん、変異が進めば進むほどキメラ化が激しくなっていくんだろうな。
だとしたらこいつ、へびかめシャークも、相当に危険な魔物ということになる。
「スイくん、カレン。注意して」
母さんが険しい顔で、僕の隣まで出てきた。
「……来るわ」
刹那、僕の推測を裏付けるように。
そいつは攻撃を仕掛けてきた。
びししししぃ、と。
まるで空気がひび割れるような音とともに、変異種の頭上、周囲で水が氷結し始める。氷の塊、氷柱めいたものが次々と生成され始める。ひとつひとつが僕の腕ほどの大きさがあり、それが十数、いや、数十。
それらは尖った先端をこっちに向けていて、魔力が響めいたのを合図に——一斉射出。
「ひぃいっ!」
悲鳴はラミアさんか、あるいはふたりの子竜たちか。
少なくとも、僕ら家族とジ・リズは身じろぎさえしない。
ががががががががが——! 雹がトタン屋根を打ち付けるみたいなけたたましさこそあったものの、氷槍たちはそのすべてが僕の結界に阻まれて中空で動きを止め、勢いを失って落下する。
「この私を前に、氷とは不遜なこと」
母さんが息子さえぞっとする声でつぶやく。
練られた魔力が熔岩のように母さんから噴出する。
砂浜に落ちる寸前、氷槍たちは紅蓮の炎に包まれた。そのままあっという間に水へと帰り、更には蒸発して煙と化していく。
「魚ごときが私を、私たちを試そうとしたの? ふざけてるわね。貴様も焼き尽くしてやろうか?」
頭上に灼熱の火球を浮かべ、変異種を睨み付ける母さん。
だけど相手が臆することはなかった。変異種は、ひと際大きな氷柱を生成すると、母さんの火球へ向かって投げ付ける。
「くだらない」
動いたのは——もうひとりの『魔女』だった。
カレンは一歩前に出、腕を軽く振る。水の魔術が彼女の眼前で展開され、水流が弧を描く。それは更に風を纏って激しく唸りながら、水の礫となって氷柱へと衝突し、散弾みたいに粉砕する。
「陸で私たちにちょっかいをかけるの? 舐めるな」
バチバチの殺気を露にする我が家の女性陣。いや、あなたたち沸点低くない? めっちゃキレてるやん……こわい。
だけどカレンの魔術が氷柱を破壊した時にはもう、変異種の姿はどこにもない。
氷柱を射出するのと同時、水中に潜っていったのが見えた。
「ち、逃げたわね」
「ん、逃げた」
「母さん? カレン? なんで魚の挑発に乗ってるのさ……」
僕がジト目を送るとふたりは我に返り、あからさまにうろたえた。
「ち、違うのよスイくん? あいつが魚のくせに私たちをバカにしてるから、ちょっとわからせないといけないなって……」
「そう、私たちは悪くない。あいつが悪い。あの……なんだっけ、さめさめシャークが悪い」
「全部サメじゃん……ショコラを見習ってよ。冷静だったよ」
「わうっ!」
「……まあ、勢いあまって殺しちゃわなくてよかったよ。さすがに海中での爆発は止められないんでしょ?」
「そうね、悔しいけど……海の中で氷牢を生成するのには時間がかかるわ。しかもあれはだいぶ大きかったから、余計に」
「ん、私も同じ。『砂霧』は特に、水中だと展開が困難」
「そっか、じゃあやっぱり僕がやるしかないね」
僕は深呼吸をしながら気合を入れて、腰の剣、その柄を撫でる。
「一応、作戦は考えた。今日のを見る限り、なんとかなると思う」
少なくとも攻撃力と防御力はこっちが遥かに優っているのだ。
昆布とか魚介類とかももちろん欲しいけど、それ以上に——ラミアたちの平穏な暮らしと、あのかわいらしい子供たちの未来を、あんな化け物に奪われる訳にはいかない。
※※※
一方で。
戦いを終えたハタノ一家が談笑しているのを見ながら、ジ・リズは愛しい雛たちに告げる。
「しかと見たな、我が雛たちよ。いいか? 変異種は恐ろしい存在だが、あの一家はこの世で最も心強い。だから案じるな、海のことは必ずやなんとかしてくれる」
ミネ・オルクも、ジ・ネスも、そして案内役のラミアも。
想像を遥かに超える魔導を目の当たりにし、感動と驚愕と、それから希望の光を双眸にたたえた。
そして、
「それと——よくよく心に刻んでおけ。この世には、儂ら竜族でも敵わん魔導の使い手がいることを。……逆らわんとけよ? 怒らせるとおっかないし」
三名は続けて、首をぶんぶんと縦に振った。