パラシュートは要らない
母さんに、ことの経緯を話した。
ノビィウームさんから通信水晶で連絡が来たこと。
ベルデさんが森にいて、連絡がつかない状態にあること。
危機に陥っているのならば、助けに行きたいということ——。
母さんは黙って僕の言葉を聞いていた。
そうして聞き終えると真摯な表情で僕のことをまっすぐに見て、言う。
「……覚悟は、できているの?」
僕は刹那、息を呑んだ。
母さんの表情はいつもと違っていた。
僕らに見せる母親としての顔ではない。父さんのことを話す時の妻としての顔ではない。
相手のすべてを見透かすように冷徹で、慈悲や優しさを微塵も感じさせないほどに鋭利で、ただそこにある現実のみを凄然と直視する——たぶんこれは『天鈴の魔女』としての顔だ。
母さんは、いや。
ヴィオレ=ミュカレ=ハタノは、問う。
「通信が途絶しているというのは、そういうことよ。全滅の可能性は充分にある。仮に生存者がいても、ごく少数かもしれない。あなたが仲良くなったベルデやシュナイは既にこの世にいなくて、禁を破って森へ分け入った愚か者だけが生きている。そんな場合もあるでしょう」
「……うん」
「死体の山に直面するかもしれないわ。人間の死体を見たことがある? 獣に喰われた、ぐちゃぐちゃになったものを、よ。損壊した肉の塊に、知人の顔が張り付いている……そんな光景を、想像できる?」
「実際に見たことはないよ。想像も上手くできない。それを見る覚悟も……正直、できていないと思う」
『天鈴の魔女』はそれを聞いて、母さんの顔に戻った。
「ねえ、スイくん。私に……お母さんに任せることもできるわ」
僕へと歩み寄り、手を伸ばし頬に添え、微笑みながら。
「お母さんがひとりで行ってくればそれで済むことよ。助けられる限りの人を助けて、シデラに送り届けましょう。そうしてスイくんには、あとで結果だけを教えてあげる。スイくんはここで待っているだけでいい。……どうかしら?」
どこまでも優しい、僕の心と気持ちを案じた、僕にとって最も楽な道。
だけどその菫色をした瞳は、僕の返答を待っていて。
「ありがとう、母さん……でも」
だから僕は——頬を撫でる母さんの手に、自分の掌を置く。
「これは、僕がやらなきゃダメなことだと思う。僕が自分の目で見て確かめて、自分の手を伸ばして、自分のやれる全力を尽くさないといけないことだと思う」
「わかったわ」
母さんが、僕を抱き締めた。
まるで僕がそう答えるのを、最初からわかっていたかのように。
「行ってきなさい。お母さんは連絡役としてお留守番します。カレン、ジ・リズを呼んでくれる?」
「ん、もう呼んだ」
カレンは手元の通信水晶を掲げながら笑った。
「だいじょぶ。スイならできる。行ってらっしゃい」
「ありがとう、ふたりとも……ショコラ!」
「がうっ!」
ショコラは既に身構えていて、僕の足元で短く吠える。
僕は腰に佩いた剣の柄を撫で、それから拳を掌で打った。
母さんはああ言ったけど、僕は信じている。
ベルデさんはそう簡単に死ぬような人じゃない、って。
※※※
そしてそれから、二時間ほどの後。
僕とショコラは飛翔する竜の背中にあって、緑に染まった大地を見下ろしていた。
「ジ・リズ、もう少し南……あの小さな湖と、草原の中間くらい」
僕は見えない糸を手繰るように感覚を集中させながら、背の上から指示を出す。
精神はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。身体の中にある奔流——今までは漠然とした輪郭しか掴めていなかった自分の魔力が、細部まではっきりと把握できる。どんなふうに動いているのか、どんなふうに巡っているのか、それをどんなふうに操れば、どんな結果をもたらすことができるのか。
それは闇属性の時空魔術による因果探査。
ベルデさんの魔力波長を思い出す。どこで出会ったのか、どこで別れたのか、そして次はどこで出会うのか。無数に分かれた未来から『ベルデさんを探し当てた』という結果を掴み取り、因果を逆に辿ってその位置を割り当てる。もしベルデさんが既に死んでいたのならこの魔術は発動できない。
だから、希望はある。
彼は、少なくとも生きている。
「いいのか、スイ?」
ジ・リズさんは叫ぶように僕へ問うた。
「うん。ポイントの上空に差し掛かったら、防護魔術を解いて。僕らが飛び降りたら、ジ・リズはさっき言った通り……もう一回、家にお願い」
カレンには家で救難物資の準備をしてもらっている。傷薬や包帯、食糧など、とりあえず必要と思われるものをだ。ジ・リズには悪いけれどこのまま往復して、物資を持ったカレンを運んでもらう手筈になっていた。
「かははは! まったくたいしたもんだ。竜族も、天鈴殿のような強い魔力であれば探ることはできるが……。正直、いま眼下にいても人か獣かの区別も付かんよ。かようにか細い魔力を、遠く離れた場所から手繰る……カズテル殿もそんな芸当できなかったぞ」
愉快げに笑うジ・リズ。
僕が生まれ持ったこの魔導がどの程度のものなのかは正直、まだよくわからない。
みんなはすごいすごいと言うけれど、日本で育ったせいで異世界の定規を持ち合わせていないせいだ。
だけど、確実なことがひとつだけある。
「ジ・リズ。……僕は、父さんにできなかったことをしたいんじゃないよ。父さんがしていたことをできるようになりたいわけでもない」
立ち上がりながらショコラの背をわしゃわしゃと撫で、森に視線を定め、
「僕は、僕に——スイ=ハタノにできることをやるんだ」
宣言する。
ややあって、ジ・リズは静かな声で告げた。
「……非礼を詫びよう、我が友よ。そして安心して行け。すぐにカレンを連れて戻ってくる。儂もまた、友のために儂ができることをやろう」
「ありがとう」
ジ・リズの魔力がゆらめき、風の防護壁が解かれる。シデラへ赴いた時より速度も高度も低いが、それでも激しい風が身体を叩きつけてくる。
「行ってくる」
「わう!」
僕らは降下地点を定めると最大限に身体強化をかけ、竜の背から飛び降りた。