インタールード - 自宅:居間
深夜、物音がしたような気がして目を覚ます。
カレンは目を擦りながら、布団から身を起こした。
客間は暗闇に包まれていて、部屋の中はしんとしている。だが廊下を挟んだ向かい——リビングに人の気配があった。襖を開けるとガラス戸から薄い光が漏れていて、だからそっと中を覗き込んだ。
「……ヴィオレさま?」
そこには、リビングのソファーで膝を抱えるヴィオレの姿があった。
電気もつけずにそのままでいる彼女は、とうにカレンの気配を察していたのだろう。背中を向けたまま言う。
「灯りはつけないでもらえる?」
「ん」
返事をしながら、彼女の前に回り込む。
エルフは他人種よりも夜目が利く。なのでヴィオレが泣いていたのがわかった。テーブルの上にはノートパソコンが開かれている。ガラス戸から漏れていた光はこのディスプレイのものだった。
「それ、おじさまの……?」
「ええ。あの人が私に残してくれた映像。ひとりの時に見ろって言ってたでしょう? だから、ね」
「ヴィオレさま、だいじょぶ?」
「ええ、大丈夫よ。でも、スイくんには内緒にしててね。声で気付かれるかもしれなかったから、一階に降りて見てたの。代わりにあなたを起こしちゃったわね」
言いながら、すん、と鼻を鳴らすヴィオレ。
赤く腫らした目に加えて声は潤んでいた。カズテルがどんな内容のメッセージを残したのかはわからないが、きっと自分やスイ、ショコラには決して見せられない顔と言葉だったのだろう。
どんな内容だったのかを尋くほど、カレンも無粋ではない。
「ヴィオレさま。お茶、飲む?」
「ううん、スイくんが起きてきたら……」
「冷たいやつなら騒がしくならないし、すぐ。麦茶がある。私も飲む」
「そう、だったらお願い」
コップをふたつ流しから取り、冷蔵庫を開けてお茶を注ぐ。テーブルに置いてヴィオレの横に腰掛けた。
ディスプレイのぼんやりとした薄明かりの中、ふたりは麦茶で喉を潤した。
カレンは耳を澄ます。廊下の向こう——二階からスイが降りてきそうな物音は、しない。きっとショコラと一緒に、ぐっすりと眠っている。
「……ヴィオレさま。昼間の、おじさまの映像のことだけど」
「ええ」
ヴィオレは短く答える。
なにを問われようとしているのかをもうわかっているのだろう。何故ならあの時、カレンは思わず声をあげて——それを、他ならないこの人に制止されたのだから。
「私は、まだまだね」
コップを置き、静かに、けれど深い溜息を吐くヴィオレ。
「……ずっと。どんなふうに伝えればいいんだろうって悩んでいたわ。どんなふうに言えば、あの子は傷付かずにいられるか。どんなふうに慰めれば、あの子は自分を責めずに済むのか……。優しい子に育ってくれているのはひと目でわかった。それに、あの時なにが起きたかを知らないってことも。だからなおさら、悩んだ」
カレンも同じだ。
『虚の森』へ赴き、スイと再会して——その表情や様子から、ああ、彼は知らないのだなと思った。
覚えていないのではなく、知らない。
これは魔導器官の位相喪失による記憶の封印とは別の話である。なぜならあれが起きた日のスイは病状がかなり進行していた。意識が朦朧としていてもはや喋ることもできず、ただ魘されるだけ、そんな状態だったのだから。
そんな状態で、自分が無意識で魔術を発動したことなど。
理解できる由もなく、覚えていられる訳もない。
「悩んで悩んで、答えが出ないままここに着いたわ」
十三年前。
ヴィオレとカレンが、せめてスイの熱覚ましにと高価な薬草を仕入れて家に帰ってきた時。
既にあの家はなく、原っぱはがらんとしていて、そして辺りに色濃く満ちていたのは——スイの魔力だった。
父親のものではなく、息子の魔力だったのだ。
でも、
「——でも」
パソコンの中に残したメッセージで、カズテルは。
「それをあの人は……全部。ひとりで背負って、持っていっちゃった」
ひとつだけ、嘘をついたのだ。
境界融蝕現象を閉じたのは自分だ、と。
「ずるいわね。きっと、ずっと前から考えてた嘘よ。スイくんが傷付かないように、自分を責めずにいいようにって。まあ、当然よね……スイくんがどんなに優しい子なのか、一番知ってるのはあの人だったんだから」
「でも、ヴィオレさま。スイはいつかきっと」
「ええ、気付くでしょうね。あの子が身に宿した魔力は大きい。存分に使いこなせるようになれば、それができると知るでしょう。そしてできることがわかったのなら、あの時になにが起きたのかを悟るでしょう」
そこでヴィオレは、カレンに向き直り。
カレンの頭を、そっと撫でて言う。
「ただそれは、今じゃなくていいのよ。ずっと先、スイくんの悲しみが癒えた後でいい。私たちの……お父さんの想いを、笑って受け止められるようになってからでいい」
だからカレンは目を閉じて、ヴィオレに身体を預ける。
魔導の師にして家族との再会を待つ同志であった彼女は、目的が達せられたいま、育ての母として——カレンの肩を優しく抱いてくれる。
※※※
「ね、ヴィオレさま」
「なに? カレン」
「私もいつかその時が来たら、スイに謝れるかな? あの時のこと、スイはまだ思い出してない。……でも思い出したら、私、ちゃんと言わなきゃ。ごめんなさいって言わなきゃ。だってスイの病気があんなに進行したのは、わたしを……」
「ばかね。ずっと何度も言ってきたでしょう? あなたはなにも悪くない。だから謝る必要なんてない。……でも、そうね。謝るんじゃなくて、お礼を言いなさい」
「お礼を?」
「そう。ありがとう、って。助けてくれてありがとう、って」
「ん、……できるように、がんばる」
エルフの娘は育ての母に抱かれ、その胸に顔を埋めた。