丘の向こうに
田園の広がる第四区、建物が整然と密集する第三区。
第二区はそれらと比べてもまた、趣が異なっていた。
「日本の郊外って感じだな……」
僕の口をついて出た感想である。
つまり面積に比して、建物の数はごく少ない。
木々、草花、小川など、そこかしこに自然が溢れ、道端には花が咲いている。
ちょっとした森になっているエリアもあって、木の枝をリスが走り、茂みからウサギが顔を出したりなんかもしている。
自然公園——というより、緑化公園と形容した方が正確だろうか。
そしてそんな緑あふれる風景の中、大きめの邸宅がまばらに建っている。
ひとつひとつは屋敷と言っていいサイズで、おそらく住人たちはゆったりした暮らしを送っているのだろう。
「貴族専用区画……と銘打ってはいるけど、実態は高級住宅街なの。富裕層なんかも住んでいるそうよ」
並木道を歩きながら、母さんが説明してくれた。
「貴族もしくはお金持ちが住んでる、ってことか」
「ん。だからといって、第三区の人たちが貧乏ってわけじゃないけど……」
「全体の生活水準が高そうだったもんね」
カレンの補足も、それに続く。
あのシデラにさえ貧民街みたいなところはあり、そこにはちょっと柄の悪い連中も住んでいる。なのにエルフ国にはそれすらない。少なくとも僕が見た限りは、確認できなかった。
「……でも、そこまで褒められたものじゃない。生活水準が低くないのは人口が少ないお陰だし、食い詰める人がいないのは、そうなったら地上に降りてしまうから」
「そっか。ここでの生活に馴染めなければ地上って選択肢もあるのか」
正直なところ——社会の仕組みとか政治体制とかの話に対して、僕に大層な思想はない。どんな国家、どんな都市であってもしんどい暮らしをする人はいるし、すべてを取りこぼさずに救うことなどできないんだろうな、って程度だ。この小さな国でも、人が生きるために、ならではのやり方があるんだろう。
ただ。
最大多数の最大幸福じゃないけど。
この小さくも美しい空の国を捨て、地上に降りなきゃならない人たちがいる。そのことを想像すると、少し胸が痛くなった。
「アテナクはどんな気持ちで、地上で暮らしてたんだろうね」
「わからない。アテナクの責務のこと、私も知らなかった。ただ、森に集落を構える同胞もいるってくらいしか聞いていなかった。……そういう意味じゃ、私も同罪」
「難しいよね」
「ん……」
なんとなくしょんぼりした気持ちで並木道を歩く僕とカレン。
前方の母さんは無言だ。無言で僕らの懊悩を尊重してくれている。
「わふっ」
「あらショコラ、茂みが気になるの? なにかいた?」
「わうっ! ふすう」
「こら、ダメよ。他所さまの土地だから、我慢しなさい」
「きゅーん……」
尊重してくれている——んだよね?
なにも聞いてなかっただけじゃないよね?
「ヴィオレさま。この辺りはもうクィーオーユの土地。他所さまじゃない」
「そういえばそうね。じゃあ、ショコラも我慢しなくていいのかしら」
「アクアノが代行管理してるから、私たちの好きにしていいかはわからないけど……」
「ですって。やっぱり我慢しなさいね、ショコラ」
「くぅーん」
まあいいか。気分転換させてくれたってことで……。
やがて母さんの先導は、並木道から逸れて脇の小径、森の中へと入っていく。小径はすぐに上り坂になって、更に歩いて十分ほど。
木々の生い茂る丘の中腹。
不意に、なにもない空間がぽっかりと顔を出す。
「ここって……?」
森が楕円形に切り取られたような場所だ。
草も生えておらず、剥き出しの土。その土は一面が、焦げたような——焚き火の跡みたいな黒ずみに染まっている。
母さんは、平坦な声で答えを告げた。
「クィーオーユの屋敷があった場所よ」
「ん……私の生まれた場所」
「……っ」
そして続くカレンもまた、感情を押し殺しているようで。
僕は、なにも言えなくなる。
じゃあ、いま僕らが立っているここで。
ルイスさんとエクセアさん、それに生まれたばかりのカレンは——。
「この先よ。行きましょう」
母さんはそのまま、また歩きだす。背を向けていて顔は見えない。どんな表情をしているのかわからない。ただ、さっきよりも足早で、ショコラが少し首を傾げるほど歩みは止まらずに。
木々が開けた。
そこは見晴らしのいい高台だった。
眼前に広がるのは第二区の森に、第三区の街並み、第四区の農場。
見上げれば両手でかき抱けそうな、蒼天。
そしてそれらすべてを臨み——。
石碑がふたつ、並んでいた。
「母さん、これって……」
問うた僕へ、母さんは無言で頷く。
カレンが石碑の前にしゃがみ、ふたつの石肌をそっと順番に撫でた。
「お父さん、お母さん。ただいま」
※※※
「ルイスもエクセアも、ここが好きだったの。子供の頃の、ふたりの秘密基地だったって」
やがて——。
長い祈りを終えた後、母さんは少し微笑んでそう教えてくれた。
「ふたりは、幼馴染だったの?」
「エクセアはアクアノの分家の子でね。エミシと再従姉弟だったかしら。ルイスとは家の決めた許婚で、でもすごく仲が良かったわ」
「ん。アテナクとファッティマ以外の始祖六氏族は、古くから交流がある。たぶんどの家にも、他の家の血が入ってる」
エクセアさんがエミシさんと再従姉弟なら、カレンとハジメさんは……いやさすがに名称がわからないや。
「私は、何年かに一回しか帰らない。でも、いつ帰ってもここは綺麗に手入れされてる。お墓もちゃんと磨かれていて、草も刈られている」
「エミシさんがやってくれてるのかな」
「たぶん。でも私は、あの人とあまり話をしたことがない。いつも忙しい人で、顔を見たことも数えるほど」
「……そっか」
エミシさんの頭の中は、考えていることは覗けない。
ただ、彼の行動からなんとはなく察せられるものはある。
クィーオーユの土地を管理し、お墓の掃除は怠らず、一方で屋敷の焼け跡はそのままに、植樹することはできずにいる。カレンに対しても、ハジメさんとは交流させても自身は決して深く関わらない——。
「不器用な人なのかもね」
「……そうね。そういうところは、昔から変わっていないわ」
きっちり手入れされた草の上に腰をおろしながら、母さんはショコラを撫でる。
母さんの膝に顎を乗せたショコラはぐでーっとしていて、丘の下から吹く風に毛並みを揺らしている。
「……私は、エルフ国にあまり思い入れがない。生まれたのはここでも、あの家でおじさまとヴィオレさまに育てられた。スイたちが転移してからは、ソルクスの王都でヴィオレさまと一緒だった。……でも」
カレンは墓碑の前で、遠くの風景を、蒼天を臨む。
たぶんかつて——ルイスさんとエクセアさんがそうしていたように。
「お父さんとお母さんが生まれ育ったこの国を、エミシおじさまが守っているこの場所を、大切にも思う。もし二十年前の『大発生』みたいな危機が迫っているなら、防ぎたい」
「うん」
だから僕は、カレンの隣に立つ。
墓碑に祈り、景色を見据え、空に抱かれて、息を大きく吸い込んだ。
「僕も手伝うよ。……カレンが大切にしているものなら、それは僕にとっても大切なものだから」