逆鱗です
怒りは、なんとか一瞬で抑えられた——と、思う。
そもそもハジメさんはあくまでメッセンジャーであり、伝達しているだけ。ふざけたことを言ってきているのはエルフ国の長老会だ。
彼女には最初から怯えの色があった。きっと激昂されることは理解していて、それでもやらなければならなかったのだろう。
だから感情をぶつけるのはお門違いであるし、なにより今の僕らは怒っただけでその感情が凶器となり得る。場合によってはショックで昏倒させてしまうかもしれない。
「大丈夫だよ、スイくん。きみたちの魔力は、ぼくが抑えた」
緊迫した空気の中。
軽やかにそう言ったのは——言ってくれたのは、四季さんだった。
「え……」
「スイくんとカレンちゃんが、妻の涙を身に付けてくれていたのが功を奏したね。少しばかり干渉させてもらったよ」
「そんなことできるんですか」
「さすがにヴィオレさんのことはどうしようもなかったけど、そっちはさすがだね。魔力が荒れたのは一瞬だけで、ちゃんと制御している」
「母さんはこういうの、暴走すると思ってた……」
「……私も、相手は選ぶわ。お父さんにむかし、言われたことがあるのよ。殺意は的確な相手に向けて放て、って」
「お説教が物騒」
「まあ、スイくんの感情も見事だったよ。ぼくが抑えるまでもなく波がすっと引いていった。だから……きみのやるべきことは、わかるね?」
「はい。……カレン」
「……っ」
右隣にいるカレンの肩を抱き、手を握る。
強張った五指をほどいてぎゅっとすると、僕へと身体を寄せてきた。肩に預けられた頭は震えている。奥歯を咬み締める音が聞こえるようだ。
「大丈夫。大丈夫だよ、カレン」
「……スイ」
おそらくいま現在もなお、四季さんはカレンの魔力に干渉している。鋭利に荒れ狂い放出される魔力を、『妖精の雫』を通じて幽世から中和してくれている。
だからカレンの激情を僕が宥め、落ち着かせなければならない。
「安心して。僕らの歩みを止められる奴らなんて、この世にはいない。余裕の態度で構えておけばいい。……父さんの言う通りだ。殺意は、取っておこう」
傲岸不遜極まりない物騒な科白を口にしながら、けれどどっしりとした態度でカレンの肩を抱く。やがて魔力が和らぎ、静かに収まっていくのが僕にもわかった。
「ありがとう、スイ。もうだいじょぶ。ごめんなさい」
「いいんだよ」
四季さんへ視線を送る。彼は笑い、頷いた。
ありがとうございます、と無言で返し、カレンのことも解放する。
一同の空気が目に見えてほっとするのがわかった。
どうもみんなにとってうちの一家は『怒らせちゃいけない』枠に入っているようだ。いやごめん、悪かったよ……。
「ショコラ、こっち来て」
「わうっ!」
この先も心を落ち着かせるためだろう。カレンがショコラに手を広げ、ショコラもそれに応えるようにカレンの膝に乗る。毛並みをぎゅっと抱き締め、カレンの口からほっと溜息が漏れた。
「よしよし。いい子。お前は冷静だったね、見習わないと」
「くぅーん」
パルケルさんがめちゃくちゃ物欲しそうな顔をしているけど見なかったことにします。
ややあって、リックさんとノエミさんが揃って、弾かれたように謝罪する。
「すまない、僕らの責任だ。こうなることは半ばわかっていたはずなのに」
「ええ。先に一度、断りを入れておくべきだったわ。怒りも、もっともよ」
続けて、ハジメさんが口を開く。
「いや、エジェティアは悪くない。この口で直接に、と言ったのは自分だよ。……正直、覚悟してここに来たし、覚悟して伝えた」
その声はわずかに震えていた。
カレンが静かに問う。
「……ハジメは、どう思ってるの? このことを」
「自分の意見は差し控えさせてくれないか。自分はあくまで、長老会の遣いだから。私情を持ち込むわけにはいかない。それに……自分は、あの国に生まれ育ったエルフなんだ。考え方も価値観もきみみたいにはいかないんだよ、クィーオーユ」
「僕らもハジメの言葉に共感はできる。始祖六氏族の血はそれだけ、エルフ国にとって重要なんだ」
「『天鈴』さまにはご理解いただけると思っています。あなた方がカレンを引き取る時、いろいろあったとお聞きしていますから」
リックさんとノエミさんの言葉に、母さんが薄く溜息を吐いた。
けれど溜息とは裏腹、その眼光は鋭く、力強い。
「そうね、感情としてはともかく。……ただ、断言します。カレンは、この子は、あのままエルフ国に預けるよりも、私たちの娘になった方がよほど幸せだった。さっき改めてそう思ったわ」
だから僕も続ける。
「……モノ扱いしてる感じはあるよね。血を繋ぐだけの道具としか見てない。血が続いていることそのものの大切さも理解できるし、貴族の考え方としてそうなるだろうなとは思うけど、うちの家族は誰も納得しないよ」
ここでこんなことを主張しても、意味がないことは承知している。
ただ——僕らはやっぱり、腹に据えかねてるんだ。
めちゃくちゃに怒ってんだぞってことくらい、表明したっていいじゃないか。
だって、ハタノ家にとって。
人を子孫を残すための道具として扱うのは、この世で最も許せないことのひとつなんだから。
父さんと母さんがカレンを引き取った理由がわかった。
もちろん、親友のお子さんってことは大きかったんだろうけど——きっと父さんも母さんも、カレンのこの境遇、エルフ国のこの価値観を前に、ノータイムで決めたに違いない。
「まあ、なんにせよ……ハジメさん、僕らはその要求を呑む気は一切ないよ」
「ああ、長老会にはそう伝える。自分はあくまで遣いだからね」
ハジメさんは姿勢よく座ったまま小さく肩だけをすくめ、微笑んだ。
彼女の考え方がどんなものかは未だよくわからない。最後の一線で僕らとどうしても相容れない可能性もある。ただやっぱり——僕らがこうして我を通そうとしている中、それが原因で板挟みにはなってほしくないと思うんだ。
僕は気配を意識的に緩める。
体面上は穏やかな態度を取りつつ、心の中は引き締めつつ、あくまでフレンドリーに、一方で油断せず、ハジメさんを促した。
「じゃあ、話を再開しよう。他にエルフ国からの報告……通達はないの? あるのなら、内容はともかく聞かなきゃならない」
ハジメさんはこくりと頷き、口を開いた。
「ああ。もうひとつある。それは——」