寒さのピークも過ぎたらしく
年が明けてから二月と二週間ほどが経った。
相変わらず寒さは続くものの底冷えするのは朝晩くらいで、日中はさほどでもない。揺り戻しで急に気温が下がる、なんてこともあるかもしれないけど——今年の寒さはもう峠を越えたと言ってもいいのではないかと思う。
「そうねえ。確かに今年はいつもより暖かい気がするわ」
とは、母さんの談。
「この調子なら、冬籠りしてる獣たちもそろそろ起きてくるかもしれないわね」
「普段だとやっぱりまだ今の時期は、冬の盛りなの?」
「体感だけど今期は、季節が暦より半月くらい先を行ってるみたい。考えてみればこの一年、雨季の上がりも涼しくなるのも早めだったし、そういう年なのかしらね」
「なるほどなあ」
春の訪れ、と言ってしまうのはまだちょっと早計かもしれないけど——確かに、季節が移り変わる予兆を肌身に感じ始めていた。
そしてそれは、森を歩いていても同様で。
「すい、これ、みてっ! かわいい!」
「お、ふきのとうだ」
ミントと一緒にショコラの散歩をしていた時。土の下から顔を出した、こんもり小さな芽を発見する。
川べりの木陰に点在するそれらは、瑞々しい緑色をしていた。
「ふきのとーっていうの?」
「うん。フキの芽なんだ。食べられるよ」
「ええ? ……すこしだけど、どく、あるよ?」
驚いた顔で眉をひそめるミント。
「ああ、確かに。アクって毒だよね」
アルラウネのこの子は、有毒植物をひと目で見分ける能力を持つ。そしてそんなミントにとって、フキのアク——確か肝臓に悪い成分が含まれているはずだ——は『毒』という認識なのだった。
「毒をね、茹でた後で水にさらして取っちゃうんだよ。そうしたら食べられるようになる」
「おいしいの?」
「うーん……美味しいけど、苦味があるからなあ」
「みんと、にがいのすきじゃない……」
「だよね。日本でも、好き嫌いが分かれる食材だった」
僕とミントがそうして話をしている間にも、ショコラは土に鼻を近付け、くんくんとふきのとうの匂いを嗅ぐ。
「こら。食べちゃダメだぞ」
「ふすっ。くぅーん」
「ああ、食べたいわけじゃないのか。……いい匂い、するのか?」
「わふっ」
あ、興味を失った。嗅いでみてただけらしい。
「でも、母さんのおつまみになるかもしれないな。少しだけ採っていこうか」
「おかさん、にがいのすきなの、すごいね」
「大人の味だよねえ。でもミント、緑茶は大丈夫じゃない? あれもちょっと苦いのに」
「でも、あれはちょっとだから……」
「そっか。ちょっとなら美味しく感じられるんだね」
……などと会話していて、思い出した。
そういえば竜の里ではサンマっぽい魚が獲れて、秋口に調理したことがある。その時、ワタも美味しく食べていた僕に対し、母さんとカレンは「魚の内臓なんて食べて大丈夫なの?」と驚いていた。
食べられるよと教えたら試してくれたけど、ふたりとも顔をしかめて脇にどけていたっけ。
「たぶん、慣れの問題なんだろうなあ」
甘味、塩味、酸味、苦味、旨味——『五味』の中で、苦味は最も扱いに難しい。ほんの少しであれば心地よく感じるが度を過ぎれば忌避されるし、苦さの質によってもその塩梅は変わる。個人の感覚や経験に大きく依存するのだ。
「きっとミントもそのうち大丈夫になるよ」
「そっかな……」
「大人になるにつれ、食べられるものは増えていくんだ。嫌いだったものも好きになっていく。それって楽しみだよね」
「そうかも! たのしみ!」
というわけで、まだ小さな、食べるのに良さそうなふきのとうを三つほど採取して帰った。
ちなみにしっかりアク抜きして、おひたしにして食卓に出したが——やっぱりミントは少し食べて顔をしかめたし、カレンも難しい感じに眉を寄せていた。僕も試してみたけど、まだちょっと苦手だったな。
母さんは「美味しいわ。お酒のお伴に良さそうね」と笑っていて、大人だねえと一同で感心したのだった。
※※※
春の訪れをぼんやりと待ちながら、去りゆく冬を見送る。
部屋の暖房も温度が下がり、朝になっても土に霜が降りていない日が増えて。
冬の間はほとんど顔を出さなかった刀牙虎の親子が久しぶりに鹿を咥えて持ってきて、お前たちも食べなよと捌いて与えたりもして。
初めて会った時は幼かった子猫たちは、ほんのちょっと精悍になっていた。とはいえまだまだ母猫の身体つきとは比べるべくもない。ちょっと大きなイエネコ、くらいな雰囲気。相変わらず僕には微妙に懐いてくれないけど、ショコラとミントとは仲がいい。戯れながら庭を駆け回る姿は実に微笑ましかった。
シデラの街も活気が戻ってきているようだ。
もう冒険者たちは普通に森に入り始めており、狩猟の解禁はなされていないものの、採取活動については行われているそうで。
だったらそろそろ久しぶりに、蜥車で竜の里まで行くのもいいかなと——そんなことを考えていた、ある日のことだった。
「……スイ」
昼食を終え洗い物を済ませ、ソファーに腰掛けてのびをしていた僕のところへカレンが歩いてくる。さっき「庭でショコラと遊んでくる」って言ったばかり……というか、靴を履いて玄関を出た気がしたんだけど。
「どうしたの?」
その表情を見て、居住いをただす。
いつもの気楽な調子ではなく、引き締まった——シリアスな面持ちのカレンは、片手に手に通信水晶を持っていた。
カレンは口を開く。
続く言葉に、僕の表情もまた、真面目なものへと変わる。
「エジェティアの双子から連絡が来た。これからシデラに戻るって」
冬のあいだ止まっていたものが、動き出そうとしていた。