もういくつ寝ると
森の観測システムが無事に稼働を始めた次の日、リックさんとノエミさんがシデラを発った。エルフ国へと帰郷したのだ。
エルフ国は空に浮かぶ島と、その上に建つ城からなる浮遊国家である。大陸の上空をふらふらと漂っており、今はシデラの街のはるか南東——獣人領との国境付近、ヘルヘイム渓谷の北辺りに在るらしい。
ちなみに行き来は飼い慣らしたヒポグリフを使うそうだ。ヒポグリフとは猛禽類と馬を掛け合わせたような姿を持つ魔物で、グリフォンの近縁種にあたる。グリフォンと違って温厚で、エルフの手により家畜化されているという。
アテナク氏族と『虚の森』にまつわる騒動があってなお、エルフ国は沈黙を貫いている。エルフの偉い人たちがよからぬことを企んでいるのか、それともなにか大変なことになっているのか。エジェティアの双子は、それを探るために本国へと向かったのだった。
ふたりの目算では、なにかがわかるにせよ寒の明けか、下手をすると春になるかもしれないとのこと。空にあるせいで、入国手続きもやや煩雑で時間がかかるらしく、そこから更に探りを入れて——となるから、気長に見ていてほしい、と。
まあ、定期連絡は欠かさず行う予定だし、もし彼らの身に危険なことが起きたのなら、ジ・リズに頼んで強引にでも乗り込むつもりだけど。
ともあれ。
やきもきしていても仕方なく、そわそわしているだけでは生活もできない。
なにせ年越しが、すぐ目の前に迫っている。
※※※
「特別な習慣、ですか? いえ……国の文化としては、ないと思いますよ」
リビングのソファーでお茶を飲むセーラリンデおばあさまは、僕の質問にそう答えた。
「そうですか。なにかあるんだったら、倣おうと思ったんだけど……」
「節目であることは確かです。ただ、スイのいた世界のように、祝祭だと考えたりはしませんね。冒険者として活動していた頃にも、そういうことはしなかったと記憶しています」
「ん。エルフには一応ある」
絨毯の上で洗濯物を畳みながら、カレンが言った。
「年越しの前後三日くらい、家の前にお札を貼って無病息災を願う。……お祭りというより風習」
「日本のお神札みたいなものかな……エルフの文化ってほんの少し、日本の文化の名残みたいなのがある気がする」
もちろん、二千年も経ってるからだいぶ形が変わってはいるだろうけれど。
「そういやシデラの市場も、『年の瀬だから』みたいな雰囲気はなかったな。日本だとなんかいろいろ、それっぽい品が並ぶんだよね」
数の子とかかまぼことか黒豆とか、鯛とか。
食べ物以外だと、お年玉のポチ袋だったり、お正月飾りだったり。
こっちの世界だと冬は食料を切り詰めなきゃいけない季節だから、贅沢をするわけにはいかないのかもしれない。その代わり、初春になると『雪溶かし』なるお祭りがあるらしい。冬の終わりと春の到来を祝って、備蓄食料の残りを盛大に食べ尽くすそうだ。
「ただいまー!」
「わうっ!」
などと話していると玄関から声。廊下から、ミントとショコラの元気な声がくぐもって響く。
「おかえりー! 母さんも一緒?」
夏の間は掃き出し窓を使ってダイナミックに出入りしていたミントたちだが、寒くなってくると暖気を逃がさないよう、ちゃんと玄関を使ってくれるようになった。えらい。
「スイくん、タオル取ってきてくれる? ミントたちがびしょびしょなのよ」
「わかった。……びしょびしょ?」
廊下へ出迎えに行くと、母さんがちょっと困った顔をしていた。母さんとミント、ショコラで採取に行ってたはずなんだけど、どうしたんだろう。
洗面所でバスタオルを二枚取ってくる。確かにミントとショコラが、見ているこっちがぶるっと震えそうなほどの濡れねずみになっていた。
「ほらミント、まずは頭からよ。スイくん、ショコラをお願い」
「うん。ショコラ、まだあがっちゃダメだぞ。まずは足からだな」
「むふー。やらかい!」
「わふっ」
「川に飛び込んじゃったのよ、ふたりとも。びっくりしたわ……」
「ひええ。大丈夫だったの?」
「私たちとはもう感覚からして違うのね。平気な顔で元気いっぱい。見てるこっちの方が寒かったわ」
「ふたりとも、川でなにしたの?」
「おさかな、とった! おかさんのびくのなかにあるよ!」
かぶったタオルの隙間からすぽっと顔を出してミントが笑う。
「すごい、ありがとうね。……お前も獲ってくれたのか? ショコラ」
「わんっ!」
「お前、シャワーは嫌がるのに冬の川は平気なのな……」
「きゃうっ」
シャワーという単語を聞いただけで甲高い声で身をよじらせる。こら、じっとしてなさい。家の中で飛沫を散らされちゃたまらないんだぞ。
「はい、できあがり。ミント、リビング行って、あったかい飲み物をもらいなさい。カレンが用意してくれてると思うから」
母さんの言葉と同時、ガラス戸からひょこっと頭を出すカレン。
「ん、してる。はちみつ入れたよ、ミント」
「ふおー! はちみつ! かれんすき!!」
タオルをすり抜け、廊下を走ってカレンの腰に抱きつくミント。
「よし、拭いたぞ。お前もミルク飲むか?」
「わうっ!? わんわん!」
「ほら、行ってこい」
続いてショコラもリビングへ。それを見送りながら、僕は母さんへ振り返る。
「魚、どのくらいあるの?」
「けっこうたくさん獲ってくれたのよ。家族でお腹いっぱいになるくらいはあるわ」
「トラウトだよね? フライかムニエルか……。あ、そうだ母さん。年末年始、なにかご馳走を作ろうと思うんだ」
「いいわね。今は伯母さまもいてくれるから、ご馳走があるともっと楽しいと思うわ」
年越しだからってのに加え、ここ二月ほどは稀存種騒ぎで忙しくしていたのだ。少しばかり贅沢をしてもバチは当たるまい。…… 幸い、うちは充分な備蓄ができていることだし。
「明日が大晦日で、明後日が元旦か」
「こっちの世界だと『白墨節』っていうの。まっさらな気持ちで新しい一年に臨む、みたいな意味なのよ。……むかし、お父さんにも教えてあげたわね」
懐かしそうな顔をして笑う母さんから、魚籠を受け取る。中にずっしり入った重みを掲げてみせながら、僕はキッチンへ向かった。
年末年始—— 白墨節の料理か。
明日に間に合わせるには、今日の夜から仕込みを始めなきゃ。
どんなメニューにしよう。日本のおせち料理、いくつか作れたらいいな。
第八章の開幕です!
まずは年末年始の家族の様子から。
なお本章では事件は起きません。