ひとりだった
少女は、ドルチェと名乗った。
というより、たっぷり三十分ほどのすったもんだを経てようやく名乗ってくれた。
「ううう……なんなんすか……あんたたちいったい誰なんすか……」
髪は黒。黒髪はこの世界にもそれなりにいる——魔力色と髪色は瞳ほど関係が深いわけではないらしい。
ただ、僕みたいな真っ黒じゃなくてやや薄めの、ちょっと灰がかった感じだ。
その蓬髪はもさもさしていて、たぶん身なりを整えれば『ふわふわ』くらいには落ち着くんだろうけど、現状では『もさもさ』と形容するに相応しい。寝癖とかめちゃくちゃついてるし。
両目はぱっちりしていて、これもちゃんとしてればつぶらな瞳として褒められそうなのに、髪の毛に半ば以上が隠れている。おまけに目付きというか眼光というかが、実にどんよりした感じの、まあ有り体な表現をすると死んで腐った魚の目をしていて、視線を合わせていると深淵に引きずり込まれそうになる。……もっとも、絶対に目を合わせてはくれない。斜め下のあらぬ方向へ逸らされる。
服装は簡素で、こっちも髪と同様に薄汚れている。たぶん二日か三日くらいお風呂に入っておらず、水浴びもしていない。長旅をしてきた僕らの方が清潔なくらいだ。集落がこんなふうになっているせいなのか、そもそもこの娘の中に『己を身綺麗にする』という概念が欠落しているせいなのかはわからない。
お人形さんみたいな顔立ちをしているし、ちゃんとすれば可愛いと思うんだけどな……。
なお、髪の毛の隙間から尖った耳の先端が覗いていることからエルフだというのがわかる。たまたま廃墟に居着いただけの別種族とかじゃなくてよかった。
「ほら、この耳を見なさい。私とそこの男と、そっちの娘は同胞。わかるでしょ?」
「は、はあ……」
ノエミさんがリックさんとカレンを並べてみせるも、彼女が心を開く様子はない。
呆れ混じりの溜息とともに、ノエミさんは問う。
「あなたはアテナクでいいの?」
「……アテナク、っすか。まあ一応はそうっすね」
すると少女——ドルチェさんは。
ふひっ、と。自嘲気味な笑い声を洩らしながら、言った。
「引っ越しに置いていかれたフギノコでも、一応はアテナクっすよ」
引っ越し。
置いていかれた。
それに、その後の単語。
フギノコ。
フギの子——不義の子?
「……どういうこと? 全部説明して」
ノエミさんが視線と声を鋭くして詰め寄ったのは、責められない。
ただやはりドルチェさんには逆効果だったようだ。
「ひっ……!」
部屋の隅っこの更に隅。角からその先へ逃げ出そうとばかりに縮こまり、再び布団をかぶって怯え始める。
「っ……ごめんなさい、脅すつもりじゃなかったの。でもお願い、話してくれる? 私たちはここで……この集落になにがあったのか、知らなきゃいけないの」
「しっ、知ってどうするんすか。もうあいつらはいないし、戻ってもこないのに……どうせ終わりなんすよ、ぜんぶっ」
——参ったな。
この子たぶん、外部の人間と話すのが初めてなんだろう。
おまけに元々の性格とか、混乱しているのとか、口下手なのとか、集落になにか複雑な事情があるっぽいのとか、とにかくいろいろな要因が重なって、まともにコミュニケーションができずにいる。
最も大きな要因は、彼女の心だ。
こっちを見ただけで怯えて、話しかけられたら身を竦ませて、一方で諦めていて——まずは安心してもらわないと先に進まない気がする。
どうにかして伝えなければならない。
僕らはきみの敵じゃないよ、って。
困ってるなら力になりたい、って。
でも、どうやって?
相手の事情も知らないのに『敵じゃない』とか安易に言ってしまっていいのだろうか。『力になりたい』なんて申し出たところで、僕らにはどうしようもない問題を抱えていたら逆にがっかりさせてしまう。
それにいくら言葉を尽くしたところで、彼女のあの目——すべてを諦めて投げやりになっている、あの表情、そして閉ざされた心。
まずは彼女にこっちを向いてもらわないと、意味がない気がするんだ。
僕は——僕だけじゃなくその場にいた全員が、言葉に窮していた。
だけどきっかけは、不意に訪れる。
「くぅーん」
「ショコラ……?」
そもそも言葉を持たない、僕の相棒が。
ドルチェさんに近付いていき、
「ひっ、やだ、噛まな……え」
そっと、いたわるように。
ぺろり、と。
彼女の頬を舐める。
「わふっ。くぅーん」
「ひゃっ!? ふわっ……」
それから鼻先を、頭を、布団の隙間に突っ込んで。
ドルチェさんに擦りつけて——。
「うそ。ショコラが、初対面なのに……」
カレンが目を見開く。
確かに、初めてのことだ。
ショコラは家族以外には懐かない。日本にいた頃などはお隣の樋口さんにすら撫でられたがらなかった。異世界に戻ってきてから多少は寛容になったが、それでも少し撫でさせてやるとか語りかけてきたのに鳴き返すとかその程度で、こんなふうに初めての人に対して——いや、もしかして、
「そうか」
「スイ、どういうこと?」
僕は小声でこっそり、カレンに説明する。
「たぶん、刀牙虎の子供と同じ枠だよ」
「あっ、なるほど……」
初めての『人』、ではない。
あまりにも怯えて震えて弱々しいから、人というより子供——ショコラにとっての保護対象になったんだ。
「くぅーん」
「きみ、集落にいた犬と違って、ドルチェに吠えないんすね」
「わふっ」
「触ってもいいんすか?」
「くふぅー」
「もふもふしてる。あったかい、っす……」
ドルチェさんは、ぎゅっとショコラを抱き締める。
ショコラはそんなドルチェさんへ静かに寄り添う。やっぱり、刀牙虎の子猫と一緒にいる時みたいな雰囲気だ。
人間扱いされてないっぽいのはまあ、黙っておこう。彼女の表情を見ていたらそんな無粋なことは言えない。
「あ……」
と、そこで。
僕は気付く。
自分のなすべきこと——彼女にしてやれることを。
「そっか、そうだよな」
どんな言葉をかければいいか、なんて悩んでる場合じゃなかった。
言葉を尽くすよりも先に、やらなきゃいけないことがあるだろう。
怯えて竦んで薄汚れて、傷付いているこの子には、ショコラがそうしたみたいに——あたたかく寄り添うものが、必要なんだ。
しゃがみ込む。
ショコラに抱きついて、それでも布団をかぶって、前髪の隙間からこっちをおっかなびっくり伺っている少女に——僕は、笑って言った。
「お腹空いてるでしょ。一緒にご飯、食べよう」