見たことがないほどの
まず最初の感想は「でかい」だった。
目測で、ジ・リズと同程度な感覚。かつて倒したへびかめシャークより全長は短いが、あれは尻尾と長い胴体があってのことだし、そもそも海上での戦いだった。陸地、しかも空から襲ってくるやつから感じる圧は、あれとはまた別種のものがある。
ぐわぁん——と。
僕の結界がそいつの急襲を防いで、ゴムタイヤを鉄球で殴ったような音がする。
「……っ!」
背後にいるみんなが身構え、顔をしかめる中、そいつは攻撃を弾かれた反動を利用して距離を取り、僕らの前方、五メートルほどの距離に着地する。
上空にいた時は逆光でいまいちわからなかった姿が、顕になった。
まず目につくのは、獅子の頭。
禍々しくうねる鬣に、大きな牙を剥く口。
そして次に目につくのは、獅子の頭の横にある、山羊の頭。
つまり頭がふたつある。いやいやいやいや。頭がふたつある? まじで?
山羊の方、ジ・リズの里で飼っているような可愛らしいやつではない。歪に角が伸び、ごりごりと骨ばって凶悪で、長方形の瞳孔が際立った、バフォメットみたいな感じ。こわい。
……というかライオンの目も山羊の目も、なんかゲーミングPCばりにぎょるぎょる虹彩の色が変わり続けてるんだけどなにあれ。ロイコクロリディウムかよ。爛々と輝いて、意思疎通なんて絶対にできなさそう。
やばいでしょ。どう考えてもやばいでしょ。
そんなふたつの頭がくっついているのは、ライオンと山羊を混ぜたような形の胴体。シルエットは山羊で、手の形はライオンだ。
更に背中には蝙蝠っぽい翼が生えていて、おまけに尻尾は蛇になっていて、ご丁寧にこっちにも目と口があって、二股の舌をちろちろさせていて——。
かろうじて腰を抜かさなかったのは、僕がこの形状の生物を見たことがあるからだ。ただしそれはこっちの世界でではなく、日本のゲームや漫画などで。
獅子と山羊の双頭を持ち、翼を生やし、尾は蛇となった混成生物。
混成生物の語源となった、神話の魔物。
「キマイラ……」
それそのものの化け物が、僕らの前にいた。
「きまいら、っていうの? あの魔物」
すると呟いた僕に、カレンが問うてくる。
「え? いや、あっちの世界でそういうのがいたんだ。架空の生物だけど。こっちにはいない、ってこと?」
「ん。見たことも聞いたこともない。そもそも、あんな双頭の生物、あり得ない。まず間違いなく、変異種。……でも、変」
「まあ、たまたま似てるだけだとは思うけど……『変』って?」
「坩堝水晶が見当たらない」
「あ……」
言われて、気付く。
確かにざっと見、背中にも鬣にもお腹にも——あの変異種特有の、ぎらぎらと剣山のように生えた水晶の束が——どこにもない。
「でも、これでわかった。たぶん集落をこんなふうにしたのは、あいつ」
「そうだね。ただ、ってことは……」
僕が斜め前方、焼け焦げた家屋へ目を向けた瞬間。
「Grrrrrrrrrrrryhaaaaaaaaaaaaaeeeeeeeeee!!」
ティンパニの中に山ほどの小石を入れてめちゃくちゃに振ったみたいな、顔をしかめる怒号をそいつは発し、
業、と。
獅子の口と山羊の口の両方が、青白い炎を吐きつけてくる。
眼前およそ一メートルまで迫り、そこで結界に弾かれるが、それでも勢いはやまず、表面を舐めて回り込もうとする。
「うわ、温度高そう!」
「ぐるるる……っ」
「少し広げた方がいいかも」
「そうだね、空気が心配だし」
身構えて唸るショコラの背に手を置いて制止させながら、僕は結界に意識を注ぐ。特に後方、ベルデさんたちがいる場所の空間をもっと広くし、形状も球状から新幹線の先頭車両みたいな流線型に。
背後をちらりと見、みんなに声をかける。
「念のため、少し固まっててください!」
返事はない。
……というか、全員なんだか、別の意味で固まっている。
いやその、僕の固まってほしいってのはぎゅっと寄ってくれということであって、かちこちになれってのじゃなくてですね。
リックさんが唇を青くしてぽつりと言った。
「きみたち、は……どうして、平気なんだ。あれが」
ノエミさんが追従するようにこくこくと頷く。
ベルデさんとシュナイさんは身構えてはいるが、身体と同様に顔もひきつらせていた。
ノアが息を荒くして自分の胸元を抑えている。
そしてパルケルさんがぎり、と牙を見せ、悔しそうに歯咬みした。
「あんたたちやっぱ、とんでもない。この状況で、そう在れるなんて」
だから僕は首を振り——無理に笑ってみせる。
「いえ。正直、僕も冷静なわけじゃないです」
本当は、わかってた。
みんながかちこちになっていた理由が。動けず固まってしまった理由が。
だって、僕も。
僕の脚もさっきから、震えているんだ。
脚だけじゃない。
心臓がばくばくと弾んでいる。気を抜けば息が荒れそうだ。強く握った拳はじっとりと汗で湿っている。
有り体に言うと——ビビり散らかしている。
カレンの表情にも緊張の色が見えた。ショコラの威嚇に真剣味があった。
これまで何体もの変異種を狩ってきた僕らでも、
「これほどのやつ、初めてだ」
肌身に突き刺さってくる乱雑でぐちゃぐちゃな波長の魔力が、痛みすら伴ってこっちを侵食しようとしてくる。
——なんなんだ、このキマイラは。
たとえば、初めて相対したギリくまさん。
あいつも相当な威圧感だったし、いま振り返って鑑みるに、変異種の中でかなり上位の強さを持っていたと思う。ただ、そんなギリくまであっても——こっちに戻ってきたばかりの僕とショコラで完封した。できた。
でも、こいつは。
今の、魔術に慣れて魔導が当時より深化した僕とショコラでも、怖い。
気を抜けばこっちの魔力が乱されて結界が破られるんじゃと思うほどに、やばいんだ。
「Mmmmmmmrururrrrrrrrrrrrrrieeeeeeeeeeg!」
再びキマイラの咆哮が響く。
炎が通じないことに苛立ったのか。縄張りに侵入してきた獲物が殺せないことが腹立たしいのか。
炎が途切れ、再び双頭が露わになる。ちかちかと色を変え続けるそのゲーミングアイ。いや、ふざけた名前でもつけてないと様子がおかしすぎて変な声出そうなんだよ!
キマイラの身体を風が捲きはじめた。それに伴って雷光がばちばちと唸る。そこに、空気が冷えて水分が破裂する音が混じる。風、雷、氷、そして炎。ふざけてる。どれだけ属性持ってれば気が済むんだ。
それらが一斉にこっちへと殺到してきた。結界に魔力を集中させる。嵐の威力そのものよりも、攻撃を形成するはちゃめちゃな魔力波長がきつい。きっちり頑張ってないと、因果の舵取りを失いそうだ。
それでも僕は、頭の中で算段を立てる。
どう倒すか、どう殺すか。『深更梯退』で動きを止めてから止めを刺すいつもの戦法は、通じるかどうか。
問題はこいつの持つ魔力の乱雑性、混沌性だ。
変異種の不規則極まりない魔力波長は周囲の魔力を乱し、相対した者の魔術制御を困難にする——話には聞いていた。ただ僕は今まで、魔力波長をきついと思ったことがなかった。だから問題なく、こいつらの前でも魔術を行使できた。
初めてだ。
できるかな、と不安に思うことなんて。
「スイ」
だけど——そんな僕の前に。
愛しい人が、毅然と立つ。
淡い蜂蜜の髪。陶磁のように白い肌。ぴんと真っ直ぐ伸びて尖った耳。
そして振り返ってこっちを見るその瞳は、僕の名と同じ翠をしている、
「カレン……」
「スイはみんなを守ってて。しっかり魔術に集中して、結界のことだけ考えて。それと、ショコラは私の合図で攻撃」
「わんっ!!」
言われてショコラが力強く吠える。
声にさっきまでの、敵対する相手への緊張に満ちた威嚇の色はもはやない。
そしてそれは、僕もだった。
すでに脚の震えは治まり、鼓動は落ち着いていて、呼吸は平坦に、手の汗は引っ込んで、魔力の流れも順調に、隅々まで澱みなく巡っているのがわかる。
「カレン」
「ん、だいじょぶ」
『春凪』の魔眼を持つ少女——カレンは。
父さんによく似た穏やかさをその声にたたえ、母さんによく似た苛烈さをその視線に込めて、キマイラへと向き直り、言う。
「私がやる。……『終夜』と『天鈴』の義娘を舐めるな、けだもの」